第208話 俺の懸念と一益さんの答え
天正12年(1584年)12月 上野国 勢多郡 厩橋城
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
いきなり滝川一益さんが「領地を交換しろ」とか言うから、これから疑問をぶつけてくところだよ。
ここまでコツコツ地道に成果を積み重ねてきたのに、美味しい話に食いついたせいで、嵌められて転落しちゃうとかなったら、洒落にもならないからね!
じゃあ早速ぶつけて参りましょうか。
「私が懸念するのは3点ございます。
まず1点目、滝川殿は関東管領にございます。九州征伐が重要な御役目とは言え、関東管領が関東の所領を手放しては、諸将が動揺するのではないか? ということです。
2点目は、関東の滝川殿の所領は、ざっと100万石近くございましょう。それに対し、上方の私の所領は山地が多く、せいぜい60万石が関の山でござる。九州に向かうにあたり、上方の所領が必要なのは理解できます。しかし、これはあまりにも差がありすぎです。滝川殿の苦境に付け込んだようで、諸方に申し訳が立ちませぬ。
そして、最後に、南伊勢は私が所望した土地ですので、手放しても申し訳は立ちましょう。しかし、志摩と紀伊は織田信長様より『治めるように』と指示を受けた領地でござる。我らの判断で勝手に交換などして、公儀よりお叱りを受けぬものでしょうか?」
俺の話を聞きながら、固かった一益さんの表情がどんどん緩んでいくのがわかる。そして、全てが終わった瞬間、一益さんは膝を叩くと、興奮気味に話し始めた。
「流石は信義殿! 懸念の方向が違う! 御安心召されよ。懸念の点は全て解決しておる。
まず1点目の『関東管領』だが、某は近々、正式に任を解かれ、『征西将軍』に任ぜられることが決まっておる。
また、無事に征伐が済めば、『“管領”として織田信包様の補佐をせよ』との内示も頂いておるゆえ、全く問題は無い。そうだ! 領地を交換するのだから、いっそのこと『関東管領』職は信義殿が……」
「その件に関しては、謹んで御辞退申し上げます。里見義頼の鎮守府将軍も過分な沙汰ですのに、それに加えて、私が『関東管領』など、とんでもないことです。
それに、私が関東管領となれば、今までの柵もありますので、鎌倉の公方様に侍らねばなりますまい。せっかく苦労して鎌倉に押し込めたのです。寝た子を起こさぬためにも、それだけは御勘弁を」
「うむむ、良い案かと思うたのだが、信義殿がそう申すのなら仕方あるまい……。
話を戻そう。2点目の石高の差だが、滝川家は関東衆を与力として多く抱えておる。それに対し、信義殿の与力衆は、熊野と志摩に数名であろう?
この与力衆は、我らの役職に伴って付属しているだけで、格は織田家直参じゃ。家臣ではないゆえ一緒に異動もさせられぬ。それを考えれば交換する石高の差はだいぶ縮まるはず。
また、我らの所領は、上杉謙信や武田信玄、北条氏康らの争いの傷も深く、まだまだ荒れておる。それに比べ、信義殿の所領は、寺社の参詣者が落とす銭、海産物と収入も多い。さらに、信義殿は志摩には造船所も造ったのであろう? 某としては、逆に『信義殿に大損をさせてしまうのではないか?』と懸念しておったぐらいなのだ。
そのようなわけで、領地の交換は滝川家に利が大きいと考えておる。だから、信義殿が懸念するには当たらぬ。
そして、3点目の『織田家からの叱責』。これについても心配は無用。既に信包様から『信義殿が首を縦に振るのであれば構わぬ』という条件で内諾を頂いておるのでな。
これで懸念は晴れたかな?」
流石は一益さん。調査も根回しも完璧だ!
こうなったら、もう『断る』って選択肢は無いよね。
「はい。お話を伺い、安心いたしました。
我らは坂東の田舎者。上方での大領は過ぎたものでございます。信長様より御拝領の領地ではありますが、元々、信吉君が元服し桃を娶られた暁には、『引き出物』として3国全てをお譲りし、関東に引っ込むつもりでおりました。
ですから、その領地を有効に活用いただけるばかりか、替地も頂けるとなりましたら、我らに全く否やはございませぬ」
「おお、受けてくれるか! 有り難い! これで心置きなく鎮西に向かえるというものだ。滝川一益、この恩は決して忘れぬぞ!」
一益さん、最初は随分緊張してたんだけど、俺の回答が全肯定だったんで、凄く喜んでくれたよ。
まあ、一益さんの気持ちも良く分かる。この当時は『一所懸命』の考え方がまだ色濃く残ってたから、「せっかく得た領地を交換するなんて言語道断」って怒り出す人も少なくなかったんでね。
今は里見家も、『完全な転封=罰』として扱ってるけど、追々この習慣は改めていかなきゃって思ってる。だから、ある意味、俺と一益さんで『一石を投じた』ことになれば良いんじゃないかな?
でも、一益さん、表情とかを見るに、本当は関東の所領を手放したくなかったかもしれない。だけど、今回の九州征伐は絶対に失敗できないから、なりふり構ってられないんだろうね。
俺たちの話の節々から気付いた人も多いかもしれないけど、織田家による九州征伐は、実は2回目になるんだ。
そう、数か月前に一度失敗してるんだよ。
九州征伐の主敵は島津家だ。ちょっと前までは島津・大友・龍造寺で三国鼎立の様相を呈してたんだけど、ここ数年で一気に島津が力を伸ばしてきた。
まず脱落したのは大友家。つい10年前までは九州の最大勢力で、九州だけじゃなく、中国・四国にも介入するぐらい強勢だったんだ。だけど、天正6年(1578年)に大軍を率いて日向侵攻を企てて、耳川の戦いで寡兵だった島津家に大敗。多くの功臣を失って完全に家が傾いた。
続いて龍造寺家が脱落した。龍造寺家当主だった隆信さんは、天正12年(1584年)、お膝元の肥前国内で反旗を翻した有馬晴信さんを討とうと、2万5千とも5万7千とも言われる大軍を率いて出陣した。
ここまでは良かった。だけど、沖田畷の戦いで、有馬・島津連合軍(※合計6千)の奇襲を受けて、討ち取られちゃったんだ。
おかげで肥前・肥後・筑前・筑後・豊前と壱岐・対馬の『五州二島の太守』とも謳われた龍造寺家は没落。九州は一気に島津の勢力に席巻されつつあったの。
大友宗麟さんや龍造寺政家さん(※隆信さんの子)の救援要請に応えて、島津の拡大に待ったをかけるべく出撃したのが、織田家の第一次九州征伐だった。
大将は織田信孝さん。四国征伐でケチが付いちゃったんで、汚名返上の意味もあって、再びの大将起用だった。『軍監』と言う名の実質的な大将として、筆頭家老の柴田勝家さんも付いて、万全な布陣での侵攻だった。はずなんだけど……。
柴田勝家さんが率い、北陸勢と大友家が中心となって日向方面に攻め込んだ5万の軍勢が、五ヶ瀬川の戦いで大敗。大将の柴田勝家さんを始め、多くの武将が討死しちゃった。
博多で敗報を聞いた総大将の信孝さんは、身一つで畿内へ遁走。遠征はあえなく失敗に終わったんだ。
現状では、佐々成政さんや上杉景勝さんを始めとする越中・越後の諸将(※取り残されて帰るに帰れなくなった)と、敗戦後に救援要請を受けて出陣してきた毛利勢が、豊前・豊後・筑前・肥前で戦線を構築して頑張ってる。大友家、龍造寺家もまだ崩壊してない。
だけど、島津勢は全国でも希なほどの精鋭だ。さらに、聞くところによれば「上方の大軍を打ち破った」ってことで、日和見だった国人衆が雪崩を打って島津に靡いるんだって。
このまま放置しといたら、早晩にも完全に九州を制圧されかねない。そんな中、背水の陣で臨むのが滝川一益さんなんだ。
前回の失敗を繰り返さないため、今回は滝川一益さんが大将、羽柴秀吉さんが副将になった。お飾りの大将を置かず、現在の織田家のトップ2を起用したんだ。本気が伝わってくるね。
それだけじゃないよ。里見家と一緒で一回目は要請の無かった、毛利家、徳川家、北条家にも動員をかけてる。
遠征軍の総勢は20万だって!
日本屈指の名将が、空前の兵力を率いた作戦だ。まさか失敗することは無いとは思うけど……。
これに万が一のことがあれば、次の主力は里見家だろうね。嫌だなぁ~。
だって、勢いに乗った島津と正面切って戦うなんて最悪だよ! それに勝っても、織田家の諸将から嫉妬と猜疑の視線を向けられるんだよ。良いことなんて全くないじゃん!!
だから、一益さんには絶対に負けてもらったら困るんだ。事前に島津のお家芸『釣り野伏り』について、しっかりレクチャーをしとかないとね!