第204話 奥羽一揆の後始末
天正12年(1584年)8月 常陸国 新治郡 土浦城 本丸広間
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
昨年末から猛威を振るってた奥羽の一揆・反乱は無事に鎮定されたよ。で、征伐軍が凱旋してきたんで、今日は論功行賞が行われるんだ。
俺が関東に帰還してから一体どうなったかって言うと、まず最初に鎮定されたのは葛西領の一揆だったよ。まあ、葛西領は関東から一番近いんで、当たり前っちゃあ当たり前なんだけどさ。
実は、葛西領では、一揆の最中の3月に、家臣の浜田広綱らによる、領主の葛西晴信さんの押し込めが発生してたんだ。どうやら、里見家からの指示にかこつけて、集権化を図ろうとする晴信さんに、独立心旺盛な重臣たちが反発したらしい。で、押し込め側が勝手に一揆勢との和睦を図ろうとしてたところに、俺たちが現れたってわけ。
俺たち出羽からの先遣隊は7千しかいなかったんで、最初、浜田広綱たちは、『大崎一揆・葛西一揆を束ねて対抗しよう』って策を練ってたらしいんだ。いや~、惜しいことをしたよ! 知ってたら合流するまで待っててあげたのに!!
この後は、皆さん御存知の通り。どれだけ暴れるかと期待しながら見守ってた、数万に及ぶ大崎一揆は、鎧袖一触、俺たちの手で壊滅させられちゃっただろ?
予想外の結末に慌てふためいて、戦意を喪失しかけてたところに、関東から8万の大軍が押し寄せて来た。こうなったらもう、まとまって戦うことなんかできない。降伏するのか、開き直って戦うのか、意思の統一も出来ないまま、結局葛西一揆勢は各個撃破されていったんだ。
基本的に討伐軍サイドとしては、『責任者の地侍が切腹すれば、下っ端の一揆衆は助命する』って方針で討伐を進めたんで、派手な戦闘はそんなに起こらなかったらしいけどね。
え? 撫で斬りにしなきゃ気が済まないような血気盛んな人はいなかったのか、って?
うん、そういうタイプの人はいたよ。具体的には真壁氏幹さんとか、真壁氏幹さんとか、真壁氏幹さんとか(笑)
でも、対策はバッチリ。事前に「一揆が起きた土地は、戦後に褒美として分配する」って宣言してあったんだ。だから、みんな降伏してきた相手は丁重に扱ってたし、乱暴狼藉もほとんど起こらなかったらしいよ。誰だって貰った領地が荒れ果ててたら嫌だもんね。
あ、それでも抵抗した城は幾つかあったんで、そういうタイプの人もそれなりに満足は出来たみたい。
次のターゲットは、すぐ北の和賀郡。こっちは稗貫広忠さんの代官領になってたんだけど、半独立状態だった和賀氏の一族が反乱を起こしてた。実は広忠さんは和賀氏から養子に入った人なんで、上手く纏められるかと思ったんだけど、ダメだったみたい。
広忠さん、何とか、領地の稗貫郡は死守したけど、結局和賀郡までは手が回らなかった。だから春の段階では、郡境付近で一揆勢と睨み合いを続けてる状況だったの。
その、状況を変えたのは出羽勢。国境の白木峠を越えて、小野寺義道くん、戸沢盛安くんの率いる5千の兵が雪崩れ込んだんだ。これによって、東西から挟撃された和賀一揆勢は算を乱して潰走、あっけなく壊滅したんだ。
そんなわけで、関東の軍勢が到着する前に、和賀郡は平定されてた。でも、和賀郡では、まともに決戦が行われちゃったんで、大崎・葛西領と比べると、領内の荒れは激しいらしい。ここを領地にする人は大変だろうね。
そして、最後に残ったのが南部領。ここは、家中が南部信直派と九戸政実派に分かれて思いっきり内乱をやってる状況だった。家督が認められてるのは信直さんなんだけど、継承の際のゴタゴタで、反発する者も少なくなかったんだ。
信直さん、最初は自力で討伐を完遂するつもりだったらしいけど、招集をかけても思ったように人が集まらない。日和見ならまだ良い方で、反乱軍に加わる者も出る始末。事ここに至って、信直さんは自力解決を諦めた。葛西領まで来ていた義頼さんに、援軍を求めたんだ。
元々そのつもりで来てる里見家としては、渡りに船で、葛西領の平定直後に北上を開始する。すると、怪しい動きをしてた遠野の阿曽沼広郷が、掌を返したように信直派として出兵してきた。さらに、志波郡、岩手郡の一揆勢は、一戦も交えぬまま降伏したんで、征伐軍はさして手間も掛けずに九戸領に押し寄せることができたんだ。
その九戸城なんだけど、三方が崖に面してて、まともな攻め口は南側だけ。そこに5千人近い将兵が籠もってた。普通に攻めたんじゃ攻略は大変だったと思う。
でも、そんな堅城も、里見家にとってみれば大したことはなかった。だって、崖に面した3方全てで、城から500m以内に布陣可能な台地が存在してるんだよ? こんなの、「大砲を撃ち込んでくれ」って言ってるようなもんじゃん!
で、20門の臼砲を使って、四方から5回ほど砲撃をしてやったら、堪らず九戸政実は、南側正面の南部陣へ突撃を仕掛けてきた。
当然、こっちとしたらそんなのは読んでたんで、両翼に鉄砲隊を3千ずつと、榴散弾砲を2門配置してあった。激しい弾幕に飛び込むことになった九戸の襲撃部隊は、南部陣地に到達する前に壊滅、大将自ら先陣を切った九戸政実も戦死した。後で調べたら、首から上だけでも弾痕が3つもあったらしい。
その後は南部勢が逆襲をかけて、城に突入、残った連中を撫で斬りにしていったらしい。それほど九戸が憎かったのか、それとも戦後のための点数稼ぎか、はたまた何か包み隠したい秘密があったのか……。今となっては分からないけど、これにて、奥羽の乱は完全に平定されたんだ。
え? 最上八楯はどうなったんだ、って?
そっちは、最上義光さんが抜かりなく処理してたよ。義光さんは、最上八楯の実力者、延沢満延の息子に娘を嫁がせて、彼を八楯から引き抜くと、一気に天童城に押し寄せ、八楯の盟主、天童頼澄を降伏させたんだ。
硬軟取り混ぜた対応、流石は義光さん!
ちなみに、降伏した天童頼澄は伊達家に身柄を預けられてる。これは、延沢満延が最上家に付く条件として天童頼澄の助命を求めたからなんだって。義光さんは梟雄のイメージがあるけど、意外と義理堅いところもあるんだね。ちょっとビックリだよ。
こんなことを考えていると、義頼さんの近習がやってきた。どうやら準備が出来たらしい。俺たちは順番通り並んで広間に向かう。
大広間へ続く襖が開かれると、中には里見傘下の主だった武将が勢揃いしていた。里見義弘さんに続いて広間に入った俺は、高座に向かって右側の最前列に腰を下ろす。続いて、土岐頼春、正木時茂と、次々に着座する。反対の左側の筆頭は義弘さん。正木頼忠、蘆名義盛と続いた。
里見家一門衆が着座すると、それに合わせて近習が告げる。
「皆様、里見義頼様のお成りにございます」
さあ、論功行賞の始まりだ!
正木時茂は『槍大膳』の方ではなく、里見義頼の息子(※次男)の方です。長男(※史実の里見義康)が蘆名家に養子に入ったため、史実同様『正木大膳家』を継ぎました。




