第201話 16歳
天正12年(1584年)1月 出羽国 秋田郡 湊城
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。もうすぐ16歳になります。
正月だっていうのに帰省も出来ず、秋田の湊城で越冬中だよ。それにしても、本来の居城も湊城(※上総湊)、今いるのも湊城(※土崎湊)。偶然の一致だけどなんか面白いね。
ずっと気にかけてた越冬は、どうやら無事に済みそうな気配だよ。鳥島のアホウドリを乱獲して準備した羽根布団と羽根綿入れと、調査機能を駆使して設計したペチカ擬きのおかげで、厳冬期も快適に過ごせたんだ。
おかげで、出羽に残った越冬隊(?)の7千人は、一部の例外を除くとほとんどが元気にしてる。で、冬場の運動不足解消のためにスキー(※作った)をやらせてみたら、結構な割合の連中が嵌まっちゃった。調子に乗って遭難とかしないように、指導を入れるのが大変だったよ。
それどころか、中には「東北地方で暮らしたい」って転封を打診してくるヤツまで出た。東北にも信用のおける家臣を配置したい里見家としては、メッチャ都合が良い申し出なんだけど……。君たち一族の都合とか考えて言ってる!?
こんな感じで、7千人の元気な兵が睨みを利かせてる甲斐もあって、俺の管理してる比内郡、檜山郡、秋田郡、豊島郡、由利郡、遊佐郡は、平穏を保ってる。また、戸沢盛安くんの北浦郡と、小野寺義道くんの上浦郡、中郡も平穏だよ。
あ、義道くんは、父親の景道さんから家督を譲られて、この度正式に小野寺家の当主になりました。
だから、盛安くんも義道くんも、今は参勤交代で土浦にいるはずだよ。ちなみに、この2家が安定してるのは、いち早く勝ち馬に乗ったことはもちろんだけど、俺と同年配の若い当主を土浦に送りつつ、隠居した戸沢道盛さんと小野寺景道さんが、本国の留守を守ってることも大きな要因だと思う。
知勇兼備の盛安くんはともかく、義道くんは、ビックリするほどの武力特化。特に政治的センスは最悪で、史実の秀吉さんの奥州征伐では『所領安堵』を確約されてたにも関わらず、仙北一揆とか起こされて、所領の一部を没収されたり、最上義光さんに奪われたりしてるんだ。
それが、今なら苦手な政治分野で小野寺家中興の祖とも呼ばれた景道さんのバックアップが受けられるときてる。もしかしたら、里見家に従ったことで一番恩恵を受けたのは、彼かもしれない。
まあ、そんなこと義道くんは知る由も無いんだけどね(笑)
新領地で落ち着いてるのは、いち早く不満分子を粛清した大浦為信さんの所と、元々小身で領内を把握しやすい立場だった黒川晴氏さん、留守政景さんの所ぐらいで、後は軒並み酷いことになってる。
一番酷いのが南部家だね。これは予想通りと言うか、史実の先取りと言うか……。南部利直さんの家督継承に異を唱えて、根拠地の糠部郡で、一族の九戸政実が謀反を起こしたんだ。
政実には家中の約3割が賛同、それに対し、利直さん支持は4割に留まった(残り3割は日和見)。結果的に勢力が拮抗しちゃって、まさに一進一退の攻防を繰り返してるらしい。
それだけじゃない。今回の裁定で南部の傘下に入ることになった岩手郡、志波郡で、高水寺斯波氏の遺臣の一部が検地反対の農民と組んだ一揆が発生した。
ところが、九戸政実の乱への対応で、いっぱいいっぱいの南部家には、とても鎮圧に兵を回す余裕がない。さらに、閉伊郡では遠野の阿曽沼氏も、不穏な動きをしてて、領内で安定してるのは鹿角郡だけって状況だ。
そんな情勢なんで、『この冬は土浦へは行けない』って書状が来てるらしいけど、これだけで処罰案件なの信直さん分かってるかな?
他にも、葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆、庄内藤島一揆も順当(?)に起こってて、この一帯は大変なことになってる。
大崎義隆さんからは、俺の留守中に矢のように援軍の依頼が来てたらしいけど、予定通り降雪を理由に断れたよ。まあ、春になったら、里見義頼さんと一緒にしっかり援軍に出てあげるから、それまでは自力で頑張ってちょうだいな!
それに加えて、予想外に酷いことになってるところがある。最上家だよ。
最上義光さん、最上郡、村山郡の集権化を進めるために、不来方の陣から山県に戻って早々に、寒河江高基、白鳥長久といった、面従腹背の国人領主を山形城に招いて謀殺したんだ。
それで終わってれば良かったんだけど、残念ながらそう上手くは行かなかった。義光さんの仕打ちに、他の国人領主たちが危機感を持っちゃったんだな。で、結果として、天童頼澄、楯岡満英たち、通称『最上八楯』に反乱を起こされちゃったの。
寒河江、白鳥の旧領の統治にも力を注がなきゃいけないし、目端が利く義光さんはキッチリ参勤交代もしてるんで、主役不在の現在、反乱はまだ継続中。
ついでに、さっきも言ったけど、代官領である田川郡、櫛引郡でも、庄内藤島一揆が起こってるんで、最上家は踏んだり蹴ったりな状況になってる。庄内が代官領なのと、最上八楯に九戸政実ほど求心力がないのが救いだけど……。
義光さん、どう対処するつもりかね? お見舞いに本庄の塩引き鮭でも贈っとこうかな?
ついでに織田家の状況にも触れておくね。去年は、北陸征伐と四国征伐に、決着が付いたんだ。
北陸の方の決着は、天正11年5月だったよ。上杉景勝さんからの恭順の申し出を、北陸方面の総大将、柴田勝家さんが受諾したの。
景勝さんには、越後のうち、頸城郡、古志郡、魚沼郡、刈羽郡、三東郡を安堵。残りの蒲原郡、岩船郡と、越中や信濃に持っていた領地は全て放棄する。こんな条件だった。
こんなの、集権傾向の強い信長さんだったら絶対に飲まないはずだけど、現状で、そこまで考えてる人はいない。だから、滅亡を避けたい景勝さんも、必要以上の損害を避けたい勝家さんも喜んで合意に至ったらしい。言ってみればwin-winだったんだろうね。
この裁定は、ずっと景勝さんと戦い続けてた新発田重家さんたち揚北衆の一部には、相当不評だったみたい。おかげで、越後では一時かなり不穏な空気が流れてんで、勝家さんも越後に人を貼り付けざるを得なかったんだ。だけど、ここにきてやっと落ち着いてきたんで、正月は北ノ庄に戻れたみたい。羨ましいね!
四国の方が解決したのは翌6月。5月に北陸方面の戦況を知った織田信孝さんが、長宗我部元親さんの籠もる白地城に、何度目かの総攻撃をかけたんだ。この戦闘でも白地城は落ちなかったんだけど、両軍の被害が酷すぎた。
この日の戦闘で、織田方では、主だったところだけでも、篠原自遁、尾藤知宣、一柳直末が討死して、信孝さんだけじゃなく秀吉さんも顔色を変えてたらしい。
それに対して、長宗我部方は元親さんの嫡男、信親さんが討死しちゃって、元親さんの悲嘆具合と言ったら無かったみたい。
結局、両軍ともに大将が戦意を失っちゃったもんで、なんと、早くも翌日から和睦交渉が始まって、半月後には妥結してたんだって。
その結果、長宗我部家には土佐1国が安堵された。信親さんが命を張った甲斐があったってもんだけど、元親さんが完全に無気力になっちゃった。こりゃあ長宗我部は荒れるかもね。
ちなみに、長宗我部から獲得した讃岐、阿波、伊予の宇摩郡、新居郡は、全部信孝さんの領地にしちゃったらしいよ。
旧領主たちはどうしたんだ、って?
三好咲岩さんを始めとする三好系の旧領主たちは、みんな臣下として召し抱えはしたみたいだけど……。せいぜい、数千石の小名クラスにしかしてないらしい。それどころか、当主が死んじゃった十河家とかは捨て扶持を与えて、飼い殺しなんだって。
確かに、この当時の石高で言うと、讃岐、阿波に伊予の2郡を合わせても40万石弱しか無いわけだけど、流石に総取りはエグくない?
秀吉さんへの褒美?
一応、信孝さん、秀吉さんは伊予の残りの部分を『切り取り次第』って御墨付きは出したらしいよ。でも、これって実質無報酬と一緒だよね?
それに『切り取り次第』って言ってもさ、中予の河野氏は実質的に毛利の配下だし、信孝さんに恭順の使者も送ってきてるんだ。そんなの下手に手が出せないじゃん?
て、ことは、切り取り可能なのは、河野領か長宗我部領を通らないと直接乗り込むことも出来ない南予の喜多郡、宇和郡だけってことになる。
「伊予を切り取り次第だよ!」なんて言っといてさ、実質は1/3しか取りようがないなんて、どんな詐欺行為!?
秀吉さんは怒り心頭。当たり前だよね。子飼の武将を何人も失ってまで協力したのに、貰った褒美が空手形じゃさ。
そんなこともあって、今、秀吉さんは、信孝さんを追い落とすための策謀を練り始めてるんだ。
え、なんでそんなことを知ってるのか、って?
秀吉さんの所には、風魔衆がたくさん召し抱えられてるからね。風間隼人たち二重スパイ(?)軍団は、四国征伐で随分活躍したみたいで、秀吉さんの覚えもめでたい。てなわけで、情報がダダ漏れなんだ。
もうちょっと情報が集まれば、秀吉さんは失脚させられそうだよ。……だけど、信孝さんも人格的にヤバそうな気配がひしひしと伝わってくるんだよね。
秀吉さんを失脚させるべきか、信孝さんが嵌められるのを静観すべきか。うーん、悩むなぁ!!




