第199話 北の人々(閑話)② 蠣崎慶広の場合+α
今回も第三者視点です。
天正11年(1583年)10月 蠣崎慶広の場合
たいへん困ったことになった。
事の発端は、安東愛季様が乱心し、里見義頼様に斬りかかったことだ。
愛季様は一代の英傑であると信じ、色々と汚れ仕事も請け負うておったが、まさか己の命惜しさに乱心し、神代からの歴史を誇る安東家を危うくするとは……。同行しておった儂自身、もはやこれまでの命かと思うたほどだ。
が、義頼様の御厚情で、愛季様が死罪とされたのみで、安東家はお取り潰しにすらならなんだのは、望外の幸運であった。まあ、安東家は領地を減らされ関東に移される事と相成ったがな。
問題は、その『関東移封』だ。これは我ら蝦夷ヶ島に領地を持つ者にとっては、命を奪われる次ぐらいに拙い。
なぜか? 現在里見家では検地を進めておるが、我らが所領では、米が一粒も穫れぬのだ。検地は米の穫れ高を基準に所領を決めるもの。従って、蝦夷との交易や、漁業を生業とする我ら渡島の衆は、皆『領地無し』扱いになりかねん。
そして、仮に『領地有り』と認めていただいたとしても、交易と漁業しか知らぬ我らが、関東で上手くやっていけるとは到底思えん。ここは、領地が減らされても渡島に残してもらう方向で話を進めねばなるまい。
幸いなことに、他の渡島の衆は実質的に蠣崎氏の被官。意思を統一するのはさほど難しいことではない。領地に目が眩んで、上総行きに傾かぬよう、早速、渡島十二館の館主を集めて説得せねばならぬな。
館主全員への説得が済んだ9月、安東領の始末の総責任者である里見信義様から書状が届いた。
なんと、信義様御自ら、ここ福山館にいらっしゃると言う。
また難儀な……。代官が来るのであれば、上手く言いくるめ、場合によっては本領安堵を勝ち取ってみせるぐらいには考えていたのだが、まさか御本人とは。
信義様はあの若さにして、類い希なる知将である。
既に露見してしもうたが、此度の戦で安東愛季様は、砂越宗恂や来次氏秀らに裏から手を回しておった。連中に峠道を塞がせて、信義様が足止めされておるうちに、遊佐郡を己が手で制圧するためだった。
そして、由利郡・遊佐郡を平定した功により、酒田湊の権益を手中に収める。これが愛季様の腹づもりであったのだ。
ところがだ、信義様は一枚も二枚も上手であった。愛季様らには、あえて偽情報を掴ませていたのだ。峠道に囮を送り、そちらに目を向けさせておいて、御自身は夜間密かに最上川を下り、目にも留まらぬような早業で、砂越や来次の本城を占拠してしもうた。その報を聞いたときの愛季様の顔と言ったら……。
その後の愛季様の働きは凄まじいものであった。なにせ、信義様の策は、我らの誰かが砂越や来次に情報を流すことが前提の策であったからな。実際に策に乗ってしまった愛季様としては、信用回復のためにも必死に働く必要があったのだ。
結局、安東家は遊佐郡、由利郡の代官に任ぜられた。そして、代官に任ぜられたことを良いことに、愛季様は、砂越、来次らから“密書”を回収した。これによって、連中の裏に愛季様がいたという事実は、闇に葬られた。
……はずであった。
盛岡に参陣した愛季様に突きつけたのは、回収したはずの密書! しかも、愛季様が目の前で焼き捨てたはずの‼︎
そのような物を突きつけられては、愛季様が乱心するのも致し方ない。
脇からチラと見えただけではあったが、あの密書は間違いなく“本物”であった。なぜ密書が増えたのかは分からぬ。しかし、あの場に持ってきたのは、砂越城、観音寺城を落とした信義様であろう。
つまり、庄内攻略以前から、信義様に密書の存在は知られていたのだ。その中で愛季様を代官に任命したということは、後々罰するつもりで『泳がせていた』ということ。恐らくは、安東家を憎まれ役にすることで、後の里見家の統治を楽にする心づもりだったに違いない。
そのような恐ろしいお方に目を付けられることがあれば、蠣崎家は終わりだ。とにかく従順に話を聞くしかない。誠に難儀な事よ!
***
信義様は去られた。色々と想定外のことはあったが、概ね満足のいく結果となった。
まず、信義様は、上総に移る場合、所領として1郡を与えると仰った。『蝦夷地の衆』と蔑まれてきた我らに対して、なかなかの好待遇である。事前に決めていたこともあって、即答でお断りしたが、正直なところ、かなり心が揺らいだのは事実だ。
結果的には渡島代官に任じていただいたので、今までと、さして変わらぬ立場を得られたと考えてもよかろう。
上ノ国周辺と江差以北は里見家直轄地として召し上げられてしもうた。が、しかし、聞くところによれば、一定の上納金を納めれば今まで通り統治できるらしい。
そもそも、江差以北は蝦夷が多く、あまり年貢も取れぬ場所じゃ。また、上ノ国周辺は平地が多く守りにくい。蝦夷が頻繁に反乱を起こしておる現在、我らにとっては旨味の多い土地ではない。
ん? 待てよ! もしや、これは『蝦夷が反乱を起こし、我らが責任を問われて罰せられる』という流れではないか!?
これは、統治には慎重を期さねばなるまいて。
幸いなことに、我らの上に立つのは安東家ではない。十万余の兵を統べる里見家だ。
蝦夷の連中には「我ら蠣崎家に逆らえば、将軍様が十万の兵を率いて攻めてくる」とでも言っておけば、簡単に攻めてくることはあるまい。
なお、信義様に蝦夷の脅威をお伝えしたところ、なぜか信義様に同行されていた、大浦為信殿が『有事の際には援軍を出す』と約束してくださった。為信殿は、永らく安東家と対立しており、我らも何度も苦杯を舐めさせられた。その為信殿が、お味方についてくださったのは有り難い。これで万が一の時も安心じゃ。
そうそう、信義様の仲介で浅利頼平とも手打ちが出来た。頼平は信義様の近習になっておったのだが、儂を見るなり、いつ斬りかかってきてもおかしくない眼光で睨んで来おった。
確かに儂は、頼平の父、浅利勝頼を謀殺した。しかし、あれは安東愛季様の指示であって、儂が望んでしたことではない。それを恨まれては堪ったものではない。
すると、信義様が頼平を呼び寄せ、「ともに当家に仕える者が相争うて如何する!」と叱ってくださった。
その後は、3人きりで入った茶室で、儂が頼平に頭を下げ、頼平が許すという流れで、手打ちが済んだ。
頼平は納得しておらぬかもしれぬが、信義様の前で「許す」と言ったのだ。後々困るのは儂ではない。今日から一段と枕を高くして寝られるというものよ。
***
天正11年(1583年)10月 浅利頼平の場合
比内の案内では信義様も大変お喜びで、領主復帰も近いかと思うておったのだが……。
失敗してしもうた。
蝦夷ヶ島へ同行した際、親の敵片割れである、蠣崎慶広を目の前にして、冷静ではいられなかったのだ。
私が、慶広を射殺さんが勢いで睨み付けておると、信義様は仰った。
「ともに当家に仕える者が相争うて如何する」と。
そして、いきなりの叱責に戸惑う私に、「お主の父、勝頼殿は斬られたと聞くが、お主は父を斬った刀を恨むか?」と、小声で尋ねられたのだ。
その言葉で私は悟った。慶広は父を殺したが、それは安東愛季に命じられてのこと。慶広は、言わば“愛季の道具”にしか過ぎぬ、と。
信義様の仰るとおり、ともに家臣として里見家にお仕えすることになった以上、いつまでも、その“道具”のことを恨むは、確かに筋違いである。
その後、信義様の仲立ちで、手打ちをすることになった。頭を下げて許しを請う慶広を私は笑顔で許してやった。
慶広は明らかにホッとした顔で去り、私は「大人の対応であった」と、信義様にお褒めの言葉をいただいた。
しかし、私は小人なのであろう。どうしても、心の奥の蟠りは消えなかったのだ。
私の様子がぎこちないのに気付かれたのか、信義様は仰った。
「“道具”を使うは人の役目ぞ? 頼平、其方には、早う“道具”を使いこなせる人間になってもらわねば困る」と。
信義様は、そこまで私に期待してくださっていたのだ!
信義様お約束いたします。この浅利頼平、必ずや慶広を使いこなせる人間になって御覧に入れましょう!!
密書が2部あったのは、主人公がコピー能力で複製していたためです。そして、原本をキープし、コピーを元の場所に置いておきました。