第181話 古河公方足利義氏
天正11年(1583年)1月 常陸国 新治郡 土浦城
「い、一大事にございます!!」
狩衣の男を連れて広間に入ってきた義頼さんの近習が声を上げると、和やかだった空気が一気に引きしまった。
尋常ではないその雰囲気を見て、義頼さんが詰問する。
「木曾義則! そのように慌てていかがいたした?」
「はっ! 宴の途中に失礼いたしました。いささか動転してしまいまして。詳しい内容は、一色様より」
「正月早々失礼いたしまする。奉公衆の一色氏久にござる。実は、本日早朝、足利義氏様が昏倒なされました」
静かになった広間に響く氏久さんの声。それを聞いて松の方さんは、それまでしっかり握っていた義弘さんの襟首から手を離し、氏久さんに躙り寄る。
「氏久、兄上は御無事なのかえ?」
「……松姫様。我らが出立いたした折には、未だ人事不省にございました。今は回復していると信じてはおりますが……」
「兄上……」
松の方さんは一言呟くと、力を失ったように崩れ落ちた。氏久さんの話を聞いて最悪のことを考えちゃったんだろうね。
あ、遅くなりました。梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。いきなり古河公方家の使者が来たもんだから、和やかな新年の宴会が一変しちゃった。
ちなみに、松の方さんの体は、義弘さんがしっかりと抱き留めてたよ。流石は夫の鑑だね! さっきまで青い顔で奥さんに襟首を掴まれてたとは、とても思えないよ。
さて、松の方さんは気を失っちゃったけど、実は、彼女、足利義氏さんの妹なんだよね。里見と北条が和睦する前は、立場上疎遠だったけど、交流も盛んになってた。特に義氏さんが嫡男の梅千代王丸を亡くしてからは、それを慰めようと松の方さんが古河に足を運ぶ機会も増えてたんだ。俺も同行してかわいがってもらったことがあるよ。
そんな感じで交流を深めてた、たった1人生き残ってる兄が、いきなり『人事不省に陥った』とか聞いて、動揺するなって言う方が無理だよ。しかも、義氏さん、特に持病もなかったし、まだ42歳だし……。
ただね、一歩引いて傍から見ると、「コレ、ちょっと違うんじゃない?」って思うんだ。古河公方家の重大な話を、みんなの前で報告しちゃった木曾義則は家臣失格だし、宴会の席で話し出す一色さんも一色さんだ。耳に入っちゃったから気になるのは分かるけど、宴会の席で問い返す松の方さんもちょっと……。いや、かなり甘いね。
今日は里見家の一族・重臣が一堂に会する新年の祝賀だよ? そんな場所でいきなり暴露したせいで、東関東から南奥羽全域にこの話が伝わることになっちゃったけど、ホントに良かったのかね?
重要な人が倒れたんで、動揺する気持ちは重々理解できる。だけど、せめてもうちょっとTPOを考えてほしかったよ。ほら、義頼さんも苦い顔をしてる。
とにかく、このままの状態じゃ混乱が深まるだけなんで、助け船を出すことにする。
「義頼様、一色殿。この場では話がまとまりますまい。一度、場所を移しませんか?」
「うむ、信義の申すとおりだ。一色殿、ここでは落ち着いて話ができぬ。部屋を替えたいのだが如何?」
「お伝えできるのでしたら、どこであろうと否やはございませぬ」
「ではその通りに。皆の者! 我らは、しばし話をしてくるゆえ、飲食を続けていてくれ。一色殿、こちらへ」
「忝い」
明らかにホッとした顔をする義頼さんに連れられて、氏久さんは部屋を出て行った。
俺? 俺も当然参加だよ? だって、義氏さんは、俺の実の伯父さんだし。
まあ、「来るな!」って言われても、首を突っ込む気満々だよ。なにせ、とってもいいこと思いついちゃったからね!
―――――――― 土浦城奥の間 ――――――――
「………………氏久殿、仔細承った。すぐにでも東国三社に日光山、筑波権現等へ、公方様快癒の祈祷を依頼いたそう。ただ、私自身が見舞いに参上することは少々難しい」
「それは如何なることにございましょうや!?」
「御存知かと思うが、私は鎮守府将軍の職をいただいておる。奥羽の仕置きも迫っている今、主上より与えられた役目を果たすためには、ここ土浦を長く留守にすることはできぬのだ。よって、お見舞いには代理を立てることを御了承いただきたい」
「……誠に残念ですが、致し方ございませぬ」
「済まぬな。なお、私の名代には、義弘様と松の方様を立てるゆえ、取次をお願いいたす」
「なんと! 義弘様と松姫様にお越しいただけるとは、この上ない有り難きお話にござる!! お2人のお顔を見れば公方様もきっとご快癒なされましょう!」
『義弘さんと松の方さんが向かう』って話を聞いて、暗かった氏久さんの顔が一気に明るくなったよ。今回、氏久さんは使者として土浦に来てるわけで、『里見家をどれだけ動かせたか』が功績に繋がるんだ。領内の寺社に祈祷をしてもらう(※祈祷料は里見家持ち)だけだとちょっと弱い。でも、当主は動かせなくても前当主とその妻を引き出せたんなら、『優』評価だろうね。
でも、ちょっと浮かれすぎかな? 彼が足利義氏さんの回復を願う気持ちは嘘じゃないと信じたいけど……。
それに、彼、なんか「顔を見たら治る」とかテキトーなことを言ってるけど、そんなこと口走って良いのかね? いくらリップサービスにしても、正確な症状も分かんないんだろ? 後で問題になっても知らないよ?
他人のことは、まあいいや、じゃ、俺は好きにやらせてもらいましょうか。
「義頼様、私も公方様のお見舞いに参じてもよろしいでしょうか?」
「信義もか? 流石にそれでは土浦が手薄になるのではないか?」
「義頼様、義氏公は関東公方様でございますが、私にとっては伯父にございます。伯父の危機に駆けつけぬとあれば『孝』とは言えますまい。また、先ほどの母上の焦燥ぶりを御覧になりましたか? 差し迫った問題があるなら別ですが、奥羽の仕置きも雪解け後にございましょう。まだ余裕がある今、しっかりと孝行をしたく存じます」
こんな調子の良いことを言いながら、左手に座る氏久さんに気付かれないように、右目で義頼さんに目配せを送ったんだ。すると流石は義頼さん、すぐに気付いたみたいで応えてくれた。
……でも、一瞬げんなりした顔をしたの、俺は気付いたよ? 解せぬ。
「……なるほど、それは殊勝な心掛けである。氏久殿、人が増え騒がしくなってしまうやもしれぬが、問題はござらぬか?」
「問題などあろうものですか! 義弘様と松姫様に加えて、今をときめく甥御の信義様までお越しいただけようとは! 公方様にとっては何よりの薬になり申す。喜んでお迎えいたしますぞ」
「あ、氏久殿、『薬』で思い出しましたが、我が湊城の傍らでは、些か薬草を栽培いたしておりますので、お見舞いの際にはそれも持参いたしましょう。また、一緒に客分の永田徳本殿もお連れいたします。それから、伊勢神宮や熊野三山、高野山などにも祈祷を依頼いたしましょう」
「永田徳本殿と申せば、名高き医聖! それに有名な『天神山の生薬』が加わる!? その上、お伊勢様や熊野様、高野山にも祈祷していただけるのでございますか!? この氏久、信義様には足を向けては寝られませぬ。この御恩、如何にして返せば良いものやら……」
「いやいや、困ったときはお互いさまにござる。今後、何かとお願いすることもありましょう。あまりお気に召さるるな」
と、こんな遣り取りをした後、喜び勇んで(?)氏久さんは帰っていったよ。
その後は、もう大忙しだったね。まずは、その場ですぐに義頼さんに『策』の説明をして、修正を加えただろ。それから義弘さんと正木頼忠、岡本元悦を呼んで、速やかに役割分担をしたの。そして、広間に戻って全体に概要を伝達したんだ。
あ、俺の『策』を知ってるのは、俺と今、名前の挙がった人の6人だけだよ。今の段階で漏れちゃうと、面倒なことにしかならないからね。
で、翌日、義弘さんと松の方さんは陸路を古河に、俺は水路を上総湊に向けて出立した。正月早々から思いがけないイベントが発生しちゃったけど、しっかりと熟していきましょうか!




