第175話 紀州征伐 ※地図あり
※後書きに地図を載せました。
天正10年(1582年)11月 紀伊国 伊都郡 九度山 慈尊院
実は、紀州征伐は8月末には始まってたんだ。今回の作戦で当初から参加してた将兵は6万人。多そうに見えるかもしれないけど、10万人を超えてた信長さんや、史実の秀吉さんの紀州征伐と比較すると随分少ないんだけどね。
信長さんも秀吉さんも苦戦したのに、そんなの無謀だろう、って?
いやいや、ちゃんと勝算があるから作戦を開始したに決まってるじゃん。あ、当然、兵器の先進性はあるけど、それだけが要因じゃないよ?
それは何かって? 1つ目は、雑賀衆が纏まりきってなかったことだよ。
過去には、ものすごい結束力を誇った雑賀衆なんだけど、信長さんの紀州征伐や石山本願寺の陥落なんかがあって、本能寺の変前夜には親織田派の鈴木重秀さんが優勢で、反織田派だった土橋若大夫さんを討ち取って、雑賀荘をほぼ掌握してた。ところが、変が起こったことで形勢が逆転、重秀さんは、岸和田城の織田信張さんを頼って逃亡、土橋家が雑賀をまとめる形になってたんだ。
これで土橋家が数年間、雑賀荘を牛耳ってたんなら、また違ったのかもしれないけど、まだ2か月しか経ってない。だから、荘内には絶対不満分子はいっぱい残ってる。内紛を起こさせた上に、自慢の鉄砲隊を完膚なきまでに叩き潰してやれば、一気に大人しくなるんじゃないか、って思ったんだ。
紀伊で一番キッツイ雑賀の始末が済めば、後は雪崩のように下っていくだろう。こんな判断だね。
2つ目は根来寺の存在だよ。
実は、根来寺は、これまで10年近く織田親派だったんだ。その証拠に、信長さんの紀州征伐にも織田方として参戦してるし、京都馬揃えで根来衆は1番隊に参加してる。そんなわけで、紀伊国内で唯一と言って良いほど頼りになる味方だったんだよ。
じゃあ、何で秀吉さんの敵に回ったのかって?
よく考えてみると分かるんだけど、秀吉さんは、まずは信雄さんと組んで信孝さん(と柴田勝家さん)を滅ぼし、その後、信雄さんとも敵対するよね。前者は織田家の内紛として捉えられても、後者は明らかに下克上じゃん? “織田家の味方”根来寺としては看過できなかっただろうね。
それから、実は、本能寺の変後に、雑賀荘を押さえた土橋家が、一族を根来寺に入れるとかして、急速に両者の関係改善が進んだことも大きかったかもしれない。
いずれにしても、今の時期なら根来寺は土橋家に浸透されきってないし、俺たちは完全な織田勢だから、敵対される理由がないんだよ。
紀伊に入るには大和方面以外は峠越えになるから、そこを襲われるとキツいんだけど、根来寺が味方なら、河内や和泉から根来領内の紀ノ川中流域に出れば、安心して主敵討伐に向かえるからね。
こんな要因があったんで、今回の紀州征伐は、まず根来寺を目指すことにしたんだ。
主力を根来に入れることで、高野山と雑賀の連携を絶つ。その後、高野山に抑えを残した上で、海陸合同で雑賀荘に侵攻、雑賀衆を完全に沈黙させてから高野山に向かう作戦を立てたんだ。当然、織田信張さんや蜂屋頼隆さんとも相談してだよ。
え? 南紀方面はどうするんだ、って?
当然そっちからも侵攻したよ。口熊野や有田郡、日高郡辺りの連中が雑賀の防衛戦に合流しちゃうと、雑賀攻略の労力が跳ね上がるし、それ以上に残党が南紀に逃げ込まれると根を絶つのが大変だからね。
だから、南紀の国人衆が束になっても敵わない大軍を派遣することで、同時攻略を目指したわけよ。
具体的には1万5千の兵を堀内氏善を大将とする中辺路経由の5千と、栗林義長を大将とする大辺路経由の1万に分ける。そして、菅達長が率いる2千の水軍とともに、まずは口熊野の田辺を目指したんだ。
道中の国人、周参見の周参見氏長さんや日置の安宅光定さんは、高河原貞盛の調略で一戦も交えることなく下り、南紀征伐軍は田辺で無事に合流した。新宮との確執もあって田辺を支配する山本康忠さんは抵抗したけど、大砲を持った1万8千(※周参見氏や安宅氏が合流)の兵に囲まれちゃあ、ひとたまりもなかった。降伏勧告をする間もなく城は内部崩壊を起こして、城主一門は討ち取られ、山本氏は滅亡したんだ。
日高郡の湯川直春さんと有田郡の畠山政尚・貞政さん親子は合計1か月近く抵抗したけど、孤立無援の中、ほとんどの城を落とされたことでたまりかねて降伏。湯川家は減封、畠山家(※何と三管領の畠山家だった!)は、養子を迎えることを条件に所領安堵と家名存続を許すことになった。
そして、10月始め、南紀方面軍2万2千が、雑賀攻略に加わったんだ。
南からの征伐はこんな感じで、かなり順調に進んだんだよ。なにせ、一つ一つの勢力が小さい上に、結束もできなかったからね。それに比べて、肝心の北側は、やっぱりちょっと難航したんだ。
どんな感じだったかって言うと、俺たちの主力部隊2万5千は、風吹峠や、雄ノ山峠で和泉山脈を越えて根来寺に着陣、5千の根来衆を加えて、陣を整えた。
すると、連絡が絶たれる事を恐れ、慌てて、雑賀衆や粉河寺の僧兵が攻め寄せてきたから、大軍と大砲のコンビネーションで完膚なきまでに打ち破ったんだ。ついでに追撃をかけて粉河寺は焼き討ちしといた。街道沿いに反抗勢力がいると大和との連絡に支障が出るからね。4万石ぐらいある寺領は全て没収しといたんで、だいぶ美味しかったよ。
その後、筒井順慶さんが率いる大和衆1万5千と合流。4万5千の兵で、雑賀に向かったんだ。
でも、ここからはちょっと難航した。9月初めから開始した雑賀荘攻防戦は、最初こそ鈴木派の手引きもあって順調だったんだけど、敵味方が入り交じる状況に混乱が生じて、侵攻速度が鈍っちゃったんだ。しかも、狭い地域に敵味方が分かれて戦ってたんで、得意技の艦砲射撃が使えなかったのも痛かった。
でも、正木堯盛と与力の九鬼嘉隆さんが率いる水軍の海上封鎖が成功したんで、雑賀側には一切補給も援軍も入らないし、逃亡もできない状況を作ることができたんだ。
で、徐々に包囲の輪を狭めていく中、10月に入って南紀軍の2万2千が合流した。これで一気に流れが加速したね。数日間の掃討作戦の末、最後の砦、太田城に逃げ込んだ一揆勢5千を包囲したんだ。
こうなれば乱戦になることはない。陣城をしっかりと固め、昼夜を問わぬ砲撃で、3日で太田城を攻略したよ。
で、雑賀での戦後処理を済ませて、最後の仕上げに高野山にやってきたってわけ。
正直なところ、そのままの勢いで高野山もヤっちゃっても良かったんだけど、雑賀攻めとか粉河寺を焼き討ちした時とかに、援軍として襲ってくることがなかったんで、一応、先に弁明をさせてみたんだ。←イマココ
あーあ、折角、弁明と生き残りの機会を与えてあげたんだけどな。俺でもすぐ思いつくような反論しか出てこないってどういうこと?
うーん、頭の悪い人たちは、今後の紀州の統治のためには必要ないかも。さっきみたいに、弁明にもならないようなことをほざくようなら、そのまま滅ぼしちゃうのも手かもね。って思ってたら、まだ口を開いてなかった木食応其さんが、絞り出すように声を上げた。
「里見信義殿は、高野山が謀反人の明智光秀が一味であると、お疑いの様子ですが、決してそのようなことはございませぬ。我らとしても滅亡の瀬戸際にありましたので、安寧を守らんとする祈祷はいたしましたし、包囲する軍勢が退きましたので祝いもしましたが、天地神明に誓って、明智と同心などいたしてはおりませぬ。
それは、此度の雑賀衆や粉河寺、紀伊守護殿との戦を御覧いただいても、高野山が一味に同心していないことからも明らかかと存じます。
ですから、これまでの双方の行き違いについて謝罪し、織田家の下知に従うよう、我ら3名、山内の宿老どもを説き伏せて参ります故、どうか今しばらくの御猶予を頂戴したく存じます」
「我らも暇ではないし、待っているだけでも兵は兵糧を食う。そう何日も待つことはできませぬぞ」
「重々承知しておりまする。10日……。いや、5日間の猶予をいただければ、必ずや山内を説き伏せて参ります」
「分かり申した。では、明日より5日間お待ちいたす。我らとて無理に殺生がしたいわけではござらぬ。良い返事を伺えることを楽しみにしておりまする」
こんな遣り取りの後、3人は高野山に帰っていった。
応其さんに加えて、良運さん、空雅さんが降伏文書を持ってきたのは、それから3日後のことだった。
領地の大半を没収すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止、守護による捜査権の認定など、こちらの示した条件を全て認めて、高野山は降伏。これにて紀州征伐は無事に終了となったわけだ。




