第169話 小田原評定(閑話)
天正10年(1582年)7月4日 相模国 西郡(足柄下郡) 小田原城
二の丸でようやく氏政らを見つけた風魔小太郎であったが、彼らを気遣う問に、返ってきた答えは叱責であった。
「風魔よ、この大事な時に、どこをうろついておったのじゃ!」
小太郎は一瞬鼻白んだものの、『そう言えば、元々こういう男であった』と思い返し、いかにも恐縮した風に応える。
「はい。本丸に落下した砲弾が炸裂せぬよう、水をかけて参りました」
「ほう、思ったより気が利くではないか! 褒美じゃ、先ほどの不手際は帳消しにしてやろう」
「………………有り難き幸せ。ところで氏政様。水をかけて冷えた砲弾を調べましたところ、中身は火薬ではなく砂のようにございました」
「砂!? 砂とな? それでは炸裂はせぬであろう?」
「はい。さらに、中からこのような竹筒が」
小太郎は砲弾の中に入っていたとする竹筒を懐から取り出すと、氏政に差し出した。
それを見た氏政は、顔をしかめて小太郎に言い放つ。
「何故そのまま出す? 危険なものかもしれぬではないか! まずはお前が開けてみよ」
「それでは失礼して……? 何やら書付が入ってございますな」
「書付じゃと!? どれ、みせて見よ。……こ、これは!!」
書付を読む氏政の顔色が変わったのを見て、側に控える氏規が堪らずに尋ねる。
「氏政様、その紙には何と?」
「……氏規、見てみよ」
「拝見いたします。なになに……
『明日には火薬の詰まった物をお届けせねばなりませぬ。北条家の存続につきましては、我らが責任をもって滝川殿に掛け合います故、舅殿におかれましては、どうぞ賢明な御決断をなさいますようお願い申し上げます 北条相模守様 信義(花押)』
こ、これは、遠回しな降伏勧告ではございませんか!」
「そのようじゃ。氏規、『砂の詰まった砲弾など、敵は何を考えておるのやら』などと考えておったが、どうやらこれは信義殿の温情であったらしいの。
さて、皆の者、先ほどの砲撃で分かったと思う。広大な小田原城ではあるが、城のどこであろうと里見の砲弾は届くようじゃ。そして、婿殿の手紙によれば、明日になれば、火薬の詰まった炸裂弾が城内に降り注ぐことになるらしい。つまり、『籠城して敵の費えを待つ』策は最早採れぬ。
我らに残された策は、2つじゃ。1つ目は、明日の早朝までに全軍で突撃を敢行し、脇目も振らずに総大将の滝川一益めの首を取ること。2つ目は、信義殿が勧めるように降伏する事じゃ。
我らがどう動くべきか、其方らの考えを聞きたい」
衝撃的な話を聞いて皆が押し黙る中、氏規が口を開く。
「兄上、川越の時とは違い、包囲の外に呼応する味方はおりません。おそらく突撃をかければ包囲の一画は突き崩せましょう。しかし、全軍を潰走させることはできますまい。
また、総大将とは言え、滝川一益は織田の一家臣。討ち取ったとしても上杉朝定のように、一門が四分五裂するようなことはありますまい。おそらく、すぐにでも代理の将が立って、戦を続けるに相違ありませぬ。
滝川の首を取れば、我らの意地は見せられますが、その後、間違いなく北条家は滅亡いたしましょう。
兄上が、この地を北条4代の墓標としたいとお考えになるのでしたら、我らは喜んで従います。しかし、我らの代で北条早雲様以来の北条家を滅ぼしたくないと考えるのでしたら、降伏はやむを得ない事かと存じます」
「なるほど、お主の考えは良くわかった。
では政繁、大道寺家は早雲寺様以来の御由緒六家の筆頭じゃ、お主はどう思う」
「氏規様の御意見に賛成でござる。お家の存続こそ我らの喜び、降伏も致し方ないかと存じます。まあ、本音を言えば、上方の連中相手に一暴れしてやりたい気もいたしますがな」
「ははは、言うではないか! さて、他に意見がある者はおるか?」
「「「「「………………………………」」」」」
「無いな? さて、本来であれば当主の氏直が決断すべきところであるが、儂が代わって決断を下す。
我ら北条家は、織田に降伏いたす。さしあたって里見義頼殿に仲介を依頼しようと思う。早速書状を認める故、氏規には軍使を頼むぞ。
降伏の条件は『家名の存続』と『家臣及び氏直以下一族の若者の助命』じゃ。この条件が担保されるのであれば、交渉妥結まで城内に戻る必要はない。しっかりと話をまとめてまいれ。
しかし、それが約束されぬようであれば、『城内で検討いたす』とでも言って戻ってまいれ。我らが降伏すると思い、奴らが油断している隙を突いて、乾坤一擲の一戦に及ぼうではないか」
「はっ!」
「その他の者は、交渉決裂に備え、決戦の準備じゃ! 討って出るとしたら、今晩か明朝になろう。夜討ちでも朝駆けでも、決して後れを取るまいぞ!」
「「「「「応!!」」」」」
慌てて動き出した家臣たちに混じり、一人、不敵な笑みを浮かべた風魔小太郎は、三の丸の一画の、とある井戸に向かう。そして井戸にもたれながら、独りごちた。
「条件は『イ』『ホ』じゃ。復唱せい」
「条件『イ』『ホ』。承りました」
それを聞いた小太郎は、すぐにその場を離れた。井戸からは、もう何も聞こえなかった。
天正10年(1582年)7月4日。北条氏より降伏を求める使者 北条氏規が、鎮守府将軍 里見義頼に伴われて、関東管領 滝川一益の本陣を訪れた。お家の存続と家臣及び一門の若者の助命を求める氏規に対し、一益は即決でその条件を承諾した。これをもって、本能寺の変を契機に発生した関東の騒乱は終結したのである。
翌日小田原に伝達された詳細な条件は以下の通りであった。
一、北条家には相模1国と南武蔵の11郡を安堵する。
一、拠点は小田原から武蔵の小机城に移すこと。
一、小田原城の惣構えは破却すること。
一、北条4兄弟(氏政、氏照、氏邦、氏規)は出家、一益の指定する寺に預ける。
一、当主は北条家の血縁者の中から一益が指名する。
一、北条氏直は家督継承権を失う。
一、北条氏直には信濃川中島4郡を切り取り次第とし、徳川家の庇護下におく。
織田家に敵対し、しかも城下の盟を結ばざるを得なかったにもかかわらず、非常に寛大な処分であった。
この甘い処分の背景には、諸将の様々な思惑があったものと考えられている。
例えば、滝川一益は、関東を安定させるためには、里見・徳川といった同盟国との関係を悪化させるわけにはいかず、両家の血縁である北条家に重い処分を下すことに躊躇いがあった。それに加えて、滝川家自体が3月に上野・信濃を領有したばかりであり、新たに武蔵・相模の全域を統治するには、明らかに人材が不足していたため、北条が残った方が都合が良かったのである。
また、保証された領地の一部を譲る形になった徳川家だが、本能寺の変において、当主や複数の重臣が討死してしまっていたため、こちらもやはり人材が足りなかった。そのため、肥沃ではあるが上杉との係争地であり、地侍の一揆も多発していた川中島4郡に別勢力を入れて緩衝地帯にしてしまおうと考えたのだ。
奥羽の経営を任されていた里見は、これを奇貨として奥羽での更なる勢力伸長を図ろうとしたのではないか。そう考えられている。