第161話 織田家の一族・織田信包・北畠信雄の場合
天正10年(1582年)6月6日 朝 近江国 蒲生郡 安土城
昨日、俺は朝から安土城にいたんだ。
何のためかって?
戦勝報告と証拠の確認のためだよ。こんな感じね。
「明智光秀の首にございます。お改めくださいませ」
俺が差し出した首桶の縄が解かれ、中から光秀の首が現れた。
高座の主はそれを改めると、「ふう」と一つ溜息を吐き、俺に正対して一言。
「里見信義殿、礼を申す。確かに明智が首に相違ない」
「昨晩首実検はしておりましたが、今ここで改めて御墨付きを頂戴し、一安心いたしました」
「安心したのはこちらも一緒。何しろ昨日は幾度となく死を覚悟いたしたゆえ」
それを聞いて、俺は居住まいを正して平伏する。
「織田信包様、その節は、救援が遅れ、誠に申し訳ございませぬ」
「何を言う! 里見殿の援軍を待たずに戦端を開いたは我らの方。功を逸って自ら危地に飛び込んだのだ。これは自業自得であろう。自ら捨てた命を救われた我らとしては感謝しかない。謝罪など不要」
「しかし、北畠信雄様は、戦の途中で兵を退かれたと伺っております。お叱りを受けるのではないかと……」
『北畠』って名前が出た瞬間に、柔らかかった信包さんの表情が歪むのがわかった。ああ、こりゃあ相当お怒りだわ。
信包さんは吐き捨てるように言う。
「信雄がごとき臆病者の話を真に受ける者など、織田家の家臣には誰もおらぬよ。信義殿が亡き信長様に敬意を払っているのは良くわかる。しかし、信雄と信長様とは違う人間。信雄に何か言われようとも、聞き流して結構!」
まあ、信包さんの怒りは当然だよね。信雄さんが勝手に逃げ散らかしてくれたおかげで、『勝敗を左右』どころか『命の危険』レベルの危機に追い込まれた当事者なんだもん。
「ところで、他の首はいかがした? こちらでも、斎藤利三や藤田行政は討ち取れたのだが、乱戦の中、多くは逃がしてしまってな」
「嫡男 明智光慶を始め、明智秀満、明智光忠、妻木広忠、溝尾茂朝らは、討ち果たしてございます。なお、かの者どもの首は、船で運ぶ際万が一があっては大変と、大津に留め置いてございます」
「それは畳重。どうやら近江も落ち着きそうではあるし、次は京の掃除に出立いたすか!」
「はい! そう仰るだろうと思い、稲葉一鉄殿、斎藤利堯殿と、我が家人小笠原秀清らが、兵8千を率い、先陣として今朝入京いたしております。また、船を用意いたしましたので、大津まではゆるりとお越しください」
「何から何まで痛み入る。それにしても、信義殿は気が利くな。これからも織田家を頼むぞ」
「はい。しっかりと亡き上様に受けたご恩は返していく所存にござる」
こうして俺たちは連れだって上洛したわけだ。途中、船の中とかでも、いろいろ話をすることができたけど、信包さんは間違いなく才覚者だね。『信長さんの兄弟の中では一番の出来星』って話だったけど、決して間違ってないと思う。
史実では信雄さんとセットにされて、一緒に没落しちゃったんだけど、彼を独立勢力として置いとければ、秀吉さんも対応がより難しくなるんじゃないかな?
その後は、丹波に栗林義長率いる7千、若狭に勝又義仁率いる3千に、昨日スカウトした磯野員昌さんたち近江の将兵を加えた、計5千を送り出す。本能寺の二条城の跡地を片付けて簡単な祭壇を設け、脇に戦で討った明智勢の首を晒す。信包さんたちと一緒に参内して、戦勝報告をし、正親町天皇からお褒めの言葉をいただく。
こんな目の回るようなスケジュールを熟していた6日の午後、俺の下に、琵琶湖の水運の復旧を任せた菅達長から一報が入ったんだ。
『北畠信雄公来たる』ってね。
天正10年(1582年)6月6日 午後 近江国 滋賀郡 園城寺(三井寺)
「梅! 何故出迎えぬ!」
「大変申し訳ございませぬ!」
信雄さんには会った瞬間怒られた。いや、出迎えなかったわけじゃないんだよ。俺だってちゃんと三門の外で待ってたんだけどね。どうやら信雄さんは大津の湊まで出迎えに来なかったのが気に入らなかったらしい。
一応恐縮した素振りはしておいたけど、俺としては呆れただけで全く気にしてない。
だって、そうだろう? 湊まで迎えに行ってても、絶対「何故安土まで迎えに来ない!?」って言うに決まってる。多分、安土に行けば「日野!」、日野に行けば「鈴鹿!!」って言うだけだから、気にしてたら切りがないよ。
まあ、迎えた後も酷かった。「酒を出せ!」「女はどうした?」とか騒ぐ騒ぐ! あんた、ここがどこだかわかってんの!?
比叡山にもいた? その比叡山は、あんたのお父ちゃんが丸焼きにしましたけどね!
そんな頭の痛くなるような遣り取りを交わしながら、何とか茶室に押し込んだ。不思議なことに、茶の心得は高いみたいで、茶席に着いたら急に振る舞いが変わって、落ち着いたんで助かったよ。
うん、茶の腕前は誉められたよ。でも、その前の対応が対応だから、『フクザツな心境』としか言い様がないけどね。
で、茶の話は真面にできるのに、政治向きの話となると途端にポンコツになるんだ。この人。
合戦に関して「援軍の着くのが遅い!! 何故もっと速く手勢を動かさぬ!」とか「徳川勢が軟弱なせいで大変な目に遭った!」とか言い出すし。これ、徳川の家臣が聞いてたら、この場で斬り殺されてたかも。
ああ、明智光秀を討ち取ったことについては誉めてもらえたよ。
ただねぇ。「良くやった! これで信孝などが大きな顔をすることがなくなるわい」って誉められても、嬉しくもなんともないんですけど!
信孝さんのことはだいぶ嫌ってるみたいで、「妾の子のくせに大きな顔をしおって生意気だ!(あんたも正室腹じゃないけどな)」とか、「伊勢の壮丁をかき集めながら、一晩にして逃散させるなど無様よな(戦場から途中逃亡したあんたの方が害はでかいと思うけどね)」とか、「戦おうともせず大坂で震えておった(途中で逃げだsh……以下略)」とか、「裏切ったかもわからぬ津田信澄を謀殺しようとして、それすら果たせぬ(これは確かにw)」とか、言いたい放題だったよ。
俺の感想としては「こりゃダメだ!」だったね。文化人としてはアリだけど、政治家としても軍人としても、害になる未来しか見えなかったよ。
だから、調子の良いことを言って持ち上げた上『織田に復姓して、惣領として尾張を領地にすれば? 信孝様は『四国討伐を継続せよ』って西国に追い出せば?』ってニュアンスの内容を、わかりやすく噛み砕いて話してやったら、手を叩いて喜んでた。
史実の『小牧・長久手の戦い』以降の動きを見てると、どうやら相手の強大さは理解できるぐらいの能力はありそうだから、尾張太守としてボーッと過ごしてる間に、信孝さんの力を比較できないぐらいに高めて、『なし崩しで家督相続』って作戦を考えた。
……でも、信孝さん自身が、信長さんを小さくして、さらに性格を悪くした感じじゃねぇ。
信長さん、信忠さん親子が一緒に亡くなったのは織田家にとって最悪だったけど、よりによって残されたのがこの2人だったのって、最悪さをより加速させてたんじゃなかろうか?
史実では、この2人の対立を上手に利用して、『三法師さん』っていう第三の選択肢を提示した秀吉さんが天下を掴むわけだ。でも、今生は俺が暴れたせいで、もう少し選択肢を広げられる。
さて、ここは新たな選択肢を提示しに行きますか。




