第154話 野洲川の合戦・決着(閑話) ※地図あり
※今日も第三者視点です。
※後書きに地図を載せました。
天正10年(1582年)6月5日 正午 近江国 甲賀郡 野洲川左岸
あと一息で光秀の首を取れたというのに! 信雄の腰抜けめが! とても信長の息子とは思えぬ豚児じゃわい!
崩れ去る北畠勢を見ながら、心の内で悪態をついた酒井忠次であった。しかし、このまま手をこまねいてはいられない。愚図愚図していては、味方の先鋒が敵中に取り残されてしまう。
戦場に残った将兵をまとめ、戦線を再構築するために、彼は急いで周囲に指示を出す。
「退き鉦を鳴らせ! 野洲川の堤まで退くのだ! 陣を整えて、再び明智を迎え撃つぞ!」
思いがけぬ退き鉦を聞いた徳川勢であったが、故家康・信康の薫陶は健在と見えて、整然と後退を開始する。あまりの整った動きに、押し込まれていた中央の明智勢は罠を疑って追撃が遅れたほどであった。
光秀らの叱咤激励に、慌てて中央の明智勢は追撃を開始。そして、北畠勢を追い散らした斎藤利三らも戦場に戻った時、残された織田・徳川連合軍は、野洲川に沿った微高地で陣を整え終えていた。
上手く仕切り直しができた連合軍であったが、1刻を超える攻防と、北畠勢の敗走によって、総数は1万人を割り込んでいた。
北畠勢を勘定に入れなければ、明らかに敵の損害の方が多いはずなのだが、こうなるとどうしても元々の兵力差が効いてくる。
圧倒的な兵力差を嵩に掛かって攻めてくる明智勢に対し、先ほどとは一転、防戦一方となった連合軍だが、先ほどにも優る勇猛さで、幾度となく敵を押し返す。
なぜなら、背後を流れる野洲川は、先日の雨の影響もあってか水量が多く、これ以上は引くに引けない状況に陥っていたからである。逃げて溺死するくらいなら死中に活を求む。背水の陣を敷いた連合軍の必死の闘争が続いていた。
幾度、明智勢の攻撃を凌いだだろう。流石の徳川勢にも疲れの色が見え始めた時、西の山を仰いだ一人の兵が叫んだ。
「おい、見ろ! 援軍が来たぞ!」
彼の指さす方角を見れば、野洲川対岸の小丘を越えて、二つ引両の旗が1本、2本と下りてくるではないか!
連合軍の中から歓声が上がる。
「里見勢だ! 八重谷越えで里見の援軍がやってきたぞ!」
それを聞いた、徳川勢の指揮を執る酒井忠次も叫ぶ。
「天は我らを見捨てなんだ。あと一踏ん張りぞ! 必ずやこの地で殿の仇を討つのだ!」
「「「「「応!!」」」」」
明智勢にも動揺が走る。彼らととて、1刻を超える戦闘を繰り広げ、疲労がたまっているのは同じである。浮き足立つ者も多かったし、中には密かに陣抜けを考える者まで出たほどだった。
しかし、流石は歴戦の名将、致命的とも思える光景を目にしても、光秀は落ち着いたものであった。
「鎮まれ!! あれは偽兵じゃ! 見よ、山中で何本も旗は動いてはおるが、一向に川岸に姿を現さぬではないか。味方の危機に際し、そのような動きをする援軍などあり得ぬ!
あれは我らの勢いを削ぐ姑息な策じゃ! 疾く各陣に伝令を出し、陣を立て直すのだ!
喜べ! このような姑息な策を使うということは、徳川めに後はないぞ! 攻め立てれば間もなく崩れるに相違ない。ここが勝負の山ぞ! 気張れや!!」
「「「「「応!!」」」」」
一瞬崩れかけ、1町ほど後退した明智勢であったが、光秀の言葉に気を取り直し、数分後にはしっかりと陣を立て直していた。
そして、謀られた怒りに燃える将兵に、光秀の下知が飛ぶ。
「徳川に、もはや余力はない! 総攻撃じゃ、押しつぶすぞ! 掛かれや!!」
「「「「「「うおおおおおおおおおお!」」」」」」
連合軍に引導を下すべく、明智勢は喚声を上げて突撃を開始した。
と、その時、西方約1里、石部宿手前の隘路から一隊の軍勢が躍り出た。そして、すぐさまもう一隊が躍り出る。さらに一隊、もう一隊と現れた軍勢は、雄叫びを上げながら前進を開始した。
総勢1万5千に及ぶ里見の援軍の到来であった。
川に向かって半包囲態勢を敷いていた明智勢であったが、新手の出現により情勢は完全に逆転した。東西から挟撃されることになったのである。
これが緒戦であれば、何とか上手くあしらうこともできたのかもしれない。しかし、昼前から2刻近く戦い続け、疲れ切った明智勢に、もはや為す術はなかった。
そして、新たに加わった、あまり疲労していない里見勢と、これまでの鬱憤を晴らすかのように暴れ回る徳川勢の挟撃に、明智本隊が壊滅したのは間もなくのことであった。
天正10年(1582年)6月5日 夕刻 近江国 栗太郡 瀬田
軍は壊滅したものの、大将である明智光秀は生きていた。老臣の藤田行政が身代わりとなって、彼を逃がしたのだ。
彼に付き従うは、明智秀満、明智光忠、妻木広忠、溝尾茂朝らの一門や宿老に、数十名の兵だけである。
手負いの者も多かったが、『坂本に戻る』、その気力だけで、ここまでやってきたのだ。
幸いにも、昨日架けた船橋は、まだ残っていた。橋を渡れば坂本城は目と鼻の先である。
揺れる船橋を重い足取りで渡り終え、幾分か足取りも軽くなった一行が、とある角を曲がった時である。その足は止められることになった。
前方の街道に柵が建てられ、敵兵が待ち構えていたのだ。引き返そうと振り返れば、後ろの小路からも軍勢が躍り出る。さらには、脇の町家にも兵が潜んでいたらしく、屋根から鉄砲弾が降り注ぐ。たまらず瀬田川に逃げようとした者もいたが、なんと川にも軍船が現れて、雨霰と鉄砲を撃ちかけてくる。
あわれ、四方を敵に囲まれた明智主従は、切腹どころか切り死にすらままならないまま、その命を落とした。
光秀の体には合計12発の銃創が刻まれていたと言う。
6月5日は、奇しくも本能寺の変より3日目。明智の世は文字通りの『三日天下』で終わることになったのである。




