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第153話 野洲川の合戦・開戦(閑話) ※地図あり

※今回は丸々第三者視点です。

※後書きに合戦の展開図を載せました。




天正10年(1582年)6月4日 近江国 滋賀郡 坂本城



 本能寺の変後、初めて居城・坂本城に凱旋した明智光秀であったが、彼の顔に笑顔は見られなかった。織田信長、信忠親子ばかりか、徳川信康まで討ち取り、これ以上ない成功を収めたはずの男がである。


 それもそのはず、昨日から彼の下に入ってくる情報は、悪い物ばかりだった。




「山岡景隆(美作守)、勢多城と瀬田の唐橋を焼き、甲賀に遁走いたしました」

「蒲生賢秀(左兵衛大夫)は信長の妻子を連れ、日野城に立て籠もりました」

「里見信義(上総介)が手勢、長浜にて阿閉・京極勢と会戦、お味方の阿閉貞征(淡路守)殿、御嫡男の貞大(孫五郎)殿ともども討死、京極高次(中務少輔)殿は行方知れずとの由にございます」

「里見勢の先鋒は佐和山に入ったとのことにござる」




 そこに、更なる急報が飛び込んできた。




「申し上げます! 使者として日野城へ向かわれた、多賀豊後守様、布施忠兵衛様、討ち取られましてございます」


「なんだと!」

「何が起こった!」



「はっ! 日野城には徳川の軍勢がひしめいており、城に入ろうと試みた御使者は、その場で全員が捕縛され、有無を言わさず首を取られた由にございます」


「なぜ、日野に徳川が!」

「徳川では和睦も叶うまい。拙いことになったぞ……」




 諸将が口々に喚く中、光秀が口を開く




「鎮まれ! もはやこうなっては決戦に及ぶほかあるまい。幸いなことに、東山道の里見勢と東海道の徳川勢は未だ合流しておらぬ。合流前に敵を叩き、我らの力を示すのだ!


 我らの力が明らかになれば、丹後の細川藤孝殿や大和の筒井順慶殿の助力も得られよう。二人の抱える2万余の兵が加われば、形勢は逆転する。里見や徳川は元より、いずれやってくる柴田も羽柴も恐るるに足りぬ。


 ここが勝負所ぞ。押さえの兵などいらぬ。全軍で湖東に出撃するのだ!」



「「「「「「応!」」」」」」




 光秀率いる1万8千の軍勢は、焼け落ちた唐橋の脇に急拵きゅうごしらえの船橋を渡し、決死の覚悟で日野に向けて出陣するのであった。









天正10年(1582年)6月5日 巳の刻(午前10時) 近江国 甲賀郡 野洲川左岸



 昨日午後、坂本城を出た明智勢と、日野城で味方の集結を待っていた織田・徳川連合軍は、お互いに敵の接近を知り、東海道は石部宿と水口宿の間、野洲川の左岸にて睨み合う。



 東に陣を構えた連合軍は、総勢1万4千5百。


 左翼には、昨晩になって伊勢から着陣した北畠信雄(侍従)が、老臣の津川義冬(玄蕃允)らとともに、4千の兵を率いて陣を構えた。


 本来であれば北畠家は1万人近い兵を動員できるはずである。しかし、神戸信孝(侍従)が四国攻めに際し、伊勢国内で広く徴兵を行ったため、思うように兵が集めることができなかったのだ。加えて、此度こたびの変事に呼応して、所領である伊賀で一揆が発生、老臣の滝川雄利(兵部少輔)らが釘付けにされてしまい、さらに兵を減らすことになってしまった。


 彼は織田家一門衆の序列第2位。先頭に立って仇討ちを主導しなければならないにも関わらず、現状は何とも残念な限りである。



 次に、中央から右翼よりには、徳川家の家臣団8千が陣を敷く。


 酒井忠次(左衛門尉)・本多忠勝(平八郎)中務大輔・榊原康政(小平太)・石川康通(左衛門大夫)・大須賀康高(五郎左衛門)ら、そうそうたる面々である。彼らは旧主信康(三河守)の弔い合戦と意気込んでおり、士気はすこぶる高い。



 そして、最右翼には、織田信包(上野介)・蒲生賦秀(飛騨守)らが率いる2千5百が陣を敷く。


 織田信包(のぶかね)は、織田信長(前右府)が最も頼りとした弟であり、戦巧者としても名高い。蒲生賦秀やすひでは若くして信長にその才を認められ、外様でありながら娘婿に選ばれたほどの知勇兼備の若武者である。


 このような綺羅星のごとき将帥が率いてはいるのだが、兵の少なさは如何ともしがたい。特に蒲生勢は、三好長慶(修理大夫)とも干戈を交えたことのある歴戦の将、当主賢秀(左兵衛大夫)が、信長の妻子を保護するため、日野城の守備に回ったことが災いし、地の利があるにも関わらず、存在感を発揮できてはいなかった。



 さて、彼らの『打倒明智』に懸ける思いは同じである。しかし、寄せ集めということもあって、とても「意思の疎通が取れている」とは言い難い。加えて、根拠地伊勢・伊賀の混乱が気になる北畠勢は、今一つ士気が上がっていなかった。


 そんな彼らの作戦は、両翼の部隊が明智勢に回り込まないように耐える間に、海道屈指の強兵である徳川勢が、中央突破を図るというものであった。






 対する明智側は、総勢1万8千。敵を圧倒するほどではないが、数的優位を確保しての布陣となった。


 明智光秀(惟任日向守)は、臨機応変に対応できるよう中央後方に本陣を構える。


 左翼には溝尾茂朝(庄兵衛)・藤田行政(伝五郎)らが陣を敷く。本陣の正面は明智秀満(左馬助)・明智光忠(長閒斎)・妻木広忠(藤右衛門)ら一門衆が固める。中央を厚くして、敵の突破を許さない構えである。そして、右翼に斎藤利三(内蔵助)・並河易家(掃部介)・伊勢貞興(伊勢守)・山崎長徳(長門守)らが並ぶ。


 いずれも、彼らは畿内管領である明智軍団の中核を担う猛者たちであり、この一戦に賭ける思いは強い。また、急ごしらえの連合軍とは違い、光秀麾下で長らく共に戦ってきた精鋭であり、阿吽あうんの呼吸が通じることも、その強さを引き立てていた。



 さて、一見、鶴翼の陣に見える明智勢の布陣である。しかし、上空から鳥瞰ちょうかん視すれば、その意図は一目瞭然。光秀は正面から見てもわからぬように注意を払いつつ、巧妙に右翼を厚くしていたのである。


 そう、光秀の作戦とは、中央・左翼が耐えている間に、精鋭の右翼部隊が敵の左翼を突き崩し、半包囲態勢に持ち込むことだったのだ。



 両者の意図が入り混じる中、決戦の火蓋が切られた。先陣を切ったのは連合軍の中央に陣取る本多忠勝の突進であった。














 開戦から1刻(2時間)ほど経過した正午になっても、徳川勢の突進は終わる気配がなかった。その猛攻によって、明智光忠、妻木広忠が負傷するなど、既に明智の中央は突き崩されかけている。




明智(惟任)が首はすぐそこぞ! 押せや!!」

「「「「「うおおおおおお!!」」」」」




 とうとう本陣の光秀の耳にまで、敵の先鋒である本多忠勝が兵を叱咤激励する叫びが届くようになってきた。




「殿、本陣をお下げくだされ!」


「駄目だ! ここで本陣を下げては、陣が崩れる! ええい、儂が前に出る。押し返せ! ここが踏ん張りどころぞ!!」


「「「「「応!!」」」」」




 光秀の気迫が兵に乗り移ったか、忠勝の前進の勢いが徐々に鈍り始める。


 そして、その時、遂に光秀本陣に、待ちに待った知らせが飛び込んできた。




斎藤利三(内蔵助)様より伝令! 北畠勢、伊勢方面に敗走、立て直しが効かぬように追撃後、徳川の横腹に食らいつく、とのことにござる!!」


「利三でかした! 皆の者、聞いたか! 勝利は近いぞ! 今度は我らの番だ! 三河の田舎侍どもを、野洲川に追い落とせ!」


「「「「「うおおおおおお!!」」」」」









 半刻後、北畠勢を追い散らした斎藤利三によって、遂に包囲網は閉じられた。


 連合軍の中央と右翼は、野洲川に沿って背水の陣を敷き、必死に抵抗を続けてはいるが、もはや壊滅は時間の問題である。


 作戦は成功した。光秀は、またしても賭けに勝ったのだ!


















 誰もがそう思っていた。











①初期の布陣

挿絵(By みてみん)


②徳川の攻勢

挿絵(By みてみん)


③北畠信雄の敗走(半包囲完成)

挿絵(By みてみん)

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こちらは前作です。義重さんの奮闘をご覧になりたい方に↓ ※史実エンドなのでスカッとはしません。
ナンソウサトミハッケンデン
― 新着の感想 ―
[一言] 包囲殲滅陣。 これが、僕が描いた勝利の絵だった。 じゃなくて、織田家臣no1、徳川を吸収、北条が婚姻同盟となるといよいよ天下見えてきたなあ
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