第146話 誕生
天正10年(1582年) 5月 上総国 天羽郡 湊城
御殿の一角に建てられた離れに繋がる廊下。その廊下を一人の若い男がウロウロと歩き回っていた。
ただでさえ落ち着かない様子であるのに、ひとたび離れから物音でもしようものなら、慌てて中に入ろうとし、奥女中たちに押し留められること数知れず。
その若い男とは誰か、って?
俺だよ!
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
何を取り乱してるんだ、って?
取り乱しもするよ。だって、もうちょっとで俺の子が生まれるんだよ!
鶴さんは数日前から、御殿の離れとして新築した産屋に入って出産準備をしてるんだ。この産屋、昔からのしきたりで男子禁制らしくて、俺は入れないんだよね。
とりあえず、奥女中と産婆が24時間体制で詰めてるんで、人的態勢は整ってるし、彼女らには、半年ほど前から消毒の概念を叩き込んだり、蒸留酒を消毒用に使わせたりしてる。それから、鶴さん自身に対しても、年単位で計画的に『体作り』を行ってきた。だからこの時代の出産としては、飛び抜けた安全性を担保できてるとは思うんだ。
それでも、『絶対』と言えないのがお産の怖いところだよ。医療技術が進んだ現代の日本でさえ、出産時に命を落とす女性がいるんだからね。特に鶴さんは『体作りをしてる』ったって、まだ16歳。若年出産のリスクからは逃れられない。
こう言うと「『いたし』ちゃったお前が悪い!」ってことになるんだけどさ。まあ、『いたし』ちゃったのは事実なんだけど、『いたさ』なかったら、夫婦の危機・同盟の危機だったんだもん。だから、あの時は『いたす』しかなかったんだよ。
そんなわけで、若年出産の危険性を知ってるからこそ、強く責任を感じてる俺は、子どもが生まれる嬉しさ半分、母子の安全を心配する気持ち半分で、ここ数日碌に政務も執らずに産屋の回りをウロウロしまくってるってわけだ。
何度もウロウロを積み重ねたある昼下がり、産屋への奥女中たちの出入りが急に多くなった。
さては生まれたか! こう思った俺は、またしても産屋に突撃しようとしたんだ。すると、鶴姫さん付きの侍女、お重に思いっ切り止められた。
「お産は、まだこれからでございます。信義様、御心配なのはわかりますが、鶴姫様は、今、頑張っておいです。御夫君であらせられる貴方様のお仕事は、姫様を信じて待つことでございます。
で、あるにも関わらず、そのようにウロウロと廊下を動き回られますと、私どもの仕事にも支障が出かねませぬ。赤子が生まれましたらお呼びいたしますので、御殿で大人しくお待ちくださいませ!」
……ぐうの音も出ませんでした。
廊下からも締め出されちゃったんで、仕方なく産屋に一番近い御殿の外れの部屋で待つことにしたよ。
どのぐらい待ったかね、バタバタバタと廊下を走る音が近づいてきたかと思うと、さっと襖が開いた。
「信義様。おめでとうございます。無事に稚児がお生まれです。お喜びください、玉のような男の子でございます!」
俺は話を半分ぐらい聞いたところで産屋に再突撃。だけど、また怒られて追い返されちゃった。
冷静になって考えてみれば、追い返された当たり前なんだよね。だって、赤ん坊は産湯を使ったりしなきゃいけないだろうし、鶴さんだって産んでそのままの状態だ。そんな場所に男が突撃したら、控え目に言っても大混乱だよ。そんなことにも気付かないなんて、俺、どれだけテンパってたんだよって話。
結局、産屋の片付けとかもあったんで、俺が母子と対面できたのは夕方のことだった。
初めて会った我が子は、よく言われるように『猿みたいなくしゃくしゃ顔』だったけど、もう髪の毛が生えてた。それに鼻の形とかを見てると「ああ、俺の子だな!」って思わされて、愛しさが湧いてくるのが実感できたよ。
「鶴! よく頑張ったな!」
「はい。信義様」
「この子は里見家の嫡孫である。当家の伝統に則り『梅千代丸』と名付けた」
「『梅千代丸』。良い名前にございますね」
鶴さんは、体を横たえながらにっこりと笑った。鶴さんたちも望んでいたこととは言え、若い彼女にキツイ仕事をさせちゃったのは事実だからね。まずはしっかりと労ってあげないと。
俺は話を続けた。
「さて、鶴には早速次の仕事があるぞ!」
「如何なる仕事でございましょう? 吾子の養育でございますか? ……それとも、次の子を(ポッ)」
「(『ポッ』て……)いや、しっかり休んで、早く元気になることだ! 鶴はよく頑張ってくれた。まずは自分の体を労ってくれ」
「なんとありがたきお言葉……」
鶴さんはちょっと涙ぐんでた。喜んでくれたみたいで俺も嬉しいよ。
それにしても、この子が男児で本当に良かった。
え? 子どもを性別で差別するのか、って?
いや、俺は男でも女でも無事に生まれてくれれば問題ないんだ。だけど、周囲は必ずしもそうは思わないんだよ。
例えばさ、徳川家に嫁いだ徳姫さんなんかだと、2人続けて女児が生まれたんで、築山殿が信康さんに側室を置くことを勧めてるんだ。今生では家康さんが戦傷死してたから、徳姫さんも妾を受け入れたみたいだけど、史実ではそこから人間関係が崩れて、遂には信康さん切腹の遠因になったって説もあるくらいなの。
里見家だって、同じような状態に陥ったら、いつ松の方さんたちから変なプレッシャーがかかるかわかったもんじゃない。せっかく2人仲良くやってるのに、子供の性別なんかで家庭不和になるとか、勘弁してほしいじゃん?
幸いなことに鶴さんは初産が男児だった。だから、慌てて2番目の子作りをしろって話にはならないはず。ここはしっかりと心と体を休めてもらいましょう。で、もうちょっと体ができてきてから、じっくりと次を頑張る方向で考えたいところだね。
さて、頑張った鶴さんには、俺からも何かプレゼントをあげようかな?
「ところで鶴、頑張った褒美をやろうではないか。何か欲しいものはあるか?」
「よろしいのですか?」
「おう! 何なりと言ってみよ。鶴が元気でなくては私も十分に働けぬ。私にできることなら何でもしてやろう」
「……では、信義様の焼いた鰻をいただきとうございます」
「鰻か! ははははは! よし! その調子なら、すぐに元気になるであろう。鶴が元気になるなら、いくらでも焼いてやろうではないか!」
俺が大声で笑ったせいか、眠っていた『梅千代丸』が目を覚まし、大きな声で「おぎゃー」と泣き出した。
「若殿様! 梅千代丸様がいらっしゃるのですよ。少し声を控えていただきませんと!」
「お重、すまん。それにしても鶴、梅千代丸の声を聞いたか! この力強い声はどうだ! 流石は関八州を二分する里見と北条の子だとは思わぬか!」
「ええ、この力強さ。きっと長じれば天下に名だたる大将になりましょう!」
「「ははははははは」」
「おぎゃー! おぎゃー! おぎゃー!」
「若殿様! 奥方様!」
「す、すまぬ」
「か、堪忍して」
こんな感じで、この日、俺は産屋を追い出され、次の日から1週間ほど、毎日鰻の蒲焼きを焼くことになったんだ。
その後の経過はどうか、って?
母子ともに順調だよ。鶴さんは出血とかもないみたいだし食欲も旺盛だ。逆に毎食もりもり鰻を食べてるんで、太りすぎないかが心配なぐらいだよ(笑)。
梅千代丸も、よくお乳を飲んで、よく寝て、よく泣いて。見た目も日々人間らしくなってきてる。
まあ、まだまだ生まれて1週間、油断はできないんだけどね。
あ、どうでも良いことだけど、生まれてすぐの赤ちゃんって、本当に「おぎゃー」って泣くんだね。どこからどう聞いても「おぎゃー」以外には聞こえなかったよ。
普通、『擬音』実際の音とはちょっと違うじゃん? それが「おぎゃー」は全く同じだったんで、正直言ってビックリしたよ!




