第145話 新領地の視察
天正10年(1582年) 4月 遠江国 榛原郡 大江村 深谷
牧ノ原台地に深く刻まれた谷津の奥。竹で組まれた巨大な車輪のようなものが、ギシギシと音を立てながら、車軸に添って前後に揺れる。その動きと合わせて、脇に取り付けられた竹竿が、グボッグボッっと音を立てながら上下に動く。
単調な動きを繰り返していた竹竿だったが、しばらくすると、いきなり『ポッ、ポポポン』という音が響いた。そして、その直後、竿の天辺から、液状の物が吹き出した。
少し遅れて独特の香りが周囲に漂ってくる。一緒に見守っている家臣や近隣の百姓たちは、その臭いを嗅いだ途端、一様に顔をしかめ、中には鼻をつまむ者すら見受けられた。
そんな中、俺は息を大きく吸い込んだ。刺激のある香りが鼻腔を下っていく。お世辞にも『芳しい』などとは言えないが、俺にとっては十数年ぶりの何とも懐かしい香りだった。
「草水だ! 草水が出たぞ!」
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
信長さんを大井川まで見送ったついでに、5日前から遠江の新領地を視察してるんだけど、今日になって原油の採掘に成功したよ。
知っててやったな、だって?
うん、ここで原油が出るってことは最初から知ってたよ。現代で言う相良油田だね。
深さがわからなかったから、上総掘りで掘ってみたんだけど、意外と浅いところで掘り当てたんで、わざわざ技術導入する必要は無かったかもね。
ちなみに、今掘ってる場所の山1つ向こうには、もっと有望な場所もあるんだけど、現時点ではまだ産業化できないから、経験を積む意味でも規模の小さい方から開発を始めたんだ。
論功行賞の地割りを見て気付いた人もいると思うんだけど、本当は、今回の恩賞は、富士川西岸の庵原郡と、清水港付近の有度郡に加えて、静岡市周辺の安部郡が領地になる予定だったの。
でも、駿河近辺でどこを貰ったって、里見にとっては飛び地じゃん? それだったら役に立つところが良いんで、徳川信康さんに頼んで遠江のココと取り替えてもらったんだ。もちろん信長さんに許可をもらった上でね。
一応名目としては『相良港と御前崎港を上方に向かう際の、風待ちの寄港地にしたい』って理由を付けてるよ。
信康さんも、街道から外れた御前崎近辺より、どう考えても大都市駿府の方が実入りがいいと思ったんだろうね。だから、信長さんから内定が出た後で事前交渉をしたら、二つ返事で了承してくれたんだ。
里見家の与力同然だった武田豊信さんが甲斐に入ったこともあって、連絡と援助のために清水港と富士川の河口の蒲原城は確保させてもらったけど、将来的には駿河の領地は信康さんに譲ることも考えてる。庵原郡を酒井忠次さんに任せたのもその布石だよ。
正直言うと、最初から富士川以西の全てを徳川家に譲っても良かったんだけど、あんまり譲り過ぎると、北条家との扱いに差が付きすぎて、色々軋轢が生まれそうだったんで、こんな感じで収めといた。
欲が無さ過ぎるんじゃないか、って?
あのねぇ、今がどんな状況か、わかってる?
織田家がほぼ天下を手中に収めた状況だよ? そんな中で外様大名が大領を持ってたら、間違いなく排除の対象になるじゃん。
かなりの体力差があるのに、佐竹家とか小田家とかを、あえて『従属大名』に留めてるのとか、千葉家や庁南武田家を、わざと『同盟者』のままにしてたのは、いざって時に、
「彼らは独立した大名家です。里見とは関係がありませんので、織田家の裁量で自由に扱って構いません」
って、切り離すためだよ。
だから、里見家は勢力圏としては軽く250万石ぐらいはあっても、本家と直属の家臣の『直轄』と言っていい領地になると半分ぐらいに激減するんだ。130万石ぐらいなら、ギリギリセーフじゃないかな?
他にも『桃の婿の織田信貞くんに家督を譲る』とか、生き残りの策は幾つか考えてるから、仮に織田家がこのまま拡大を続けたとしても、里見は大丈夫だろうとは思ってる。
ま、本当にどうしようもなくなっても『グアム島とかに逃げる』って策もあるし(笑)
……ごめん。だいぶ話が飛んじゃったね。
油田の話に戻すと、実はここ相良の原油って、ゴミとかを濾したら、そのままバイクのエンジンが動いちゃうような超高品質の油なんだよ。まあ、蒸気機関の開発もできてない状態じゃあ内燃機関の開発なんて夢のまた夢なんで、動力源としての用途はまだ考えてないけどね。
じゃあ何に使いたいのかって言ったら、まずは平炉の燃料用だね。
実は里見家では、つい最近、平炉に先んじて転炉の開発に成功したんだ。この転炉なんだけど、耐火物として下野産のドロマイトを利用した、中々の優れものだよ。
転炉の何が素晴らしいって、空気を吹き込んでやれば、燃料がなくても、勝手に銑鉄中の炭素が酸化反応を起こして取り除かれるってとこなんだ。本当は酸素を単体で吹き込めれば、30分ぐらいで精錬ができちゃうんだよ。
鋼に窒素が混じらなければ最高だけど、今の技術じゃ、分離はちょっと無理なんで、我慢するしかないんだよね。
ただ、そんな優れ物の転炉があるのに、わざわざ『平炉を造ろう』って考えてるわけだから、当然ながら転炉にもデメリットがある。実は、転炉は動かすことが前提の炉なんで、戦国時代の技術じゃあ大きな物は造れないんだよ。
それから、鉄が溶けた状態で空気を送り続けないと炭素の酸化反応は起こらないから、鉄鉱石を溶かすための高炉に隣接したところにしか置けないのもネックだね。
だから、反射炉の一種で、場所を選ばない平炉に頼りたいんだけど、平炉は平炉で炉内の熱を上げるために燃焼ガスを吹き込んでやる必要がある。で、その燃料として大量の油が必要になるんだ。
この時代の油は主に灯明用か食用で、間違いなく値は張る。だから、平炉はとんだ金食い虫ってことになる。それでも里見家は捕鯨をやってる都合上、鯨油は比較的手に入りやすいんで、それを使って細々と実験はしてたんだ。
それにしたって、今は沿岸捕鯨しかできないから、鯨が獲れるって言っても限界があるし、鯨油には他の用途もあるから、今のところ平炉での製鉄を産業化するレベルでは使えてない。
そんなこんなで、この時代だと灯明ぐらいにしか用途のない石油を活用したいんだよね。
もう一つ、これは今後の研究次第だけど、できれば海戦用にナパームを造りたいなと。
ナパームは粘着性のある可燃物で、いつまでもその場にとどまって燃え続け、水をかけても消えないって特徴がある。いわゆる焼夷弾とか、火炎放射器とかの中に入ってる物質だね。
当然、爆撃とか火炎放射は難しいけど、壺に入れたヤツを投石器とかで敵船に放り込んだら相当えげつないと思うんだ。なにせ、この時代の船は全部木製だからさ。
ま、こんなことを考えてはいるけど、どちらも結果が出るのはだいぶ先になると思う。当然、次の上洛までには間に合わないんで、現存するもので何とかするんしかないんだけどね。




