第141話 甲州征伐⑩高遠での交渉
天正10年(1582年) 3月9日 信濃国 伊那郡 高遠城
本丸の広間にて勝頼ら武田家主従は、織田家の軍使と正対していた。
軍使の目的は、受け入れ前からわかりきっていた。『高遠開城』そして、その条件は『勝頼を始めとする武田一門と主な武将の切腹』であろう。
ここを死に場所と定めた勝頼主従にとっては、目的のわかりきっている軍使など、最初から追い返しても問題はなかった。
しかし、軍使を受け入れれば、軍使が滞在している間は敵の攻撃が止まる。その間に最後の突撃の準備をすればよい。また、軍使を受け入れれば、予定どおり手切れとなったとしても、交渉次第で女子供や老人、怪我人などを救ってやれるかもしれぬ。
このような思惑から受け入れた軍使であった。
が、その顔ぶれを聞いたとき、勝頼主従は度肝を抜かれることとなったのである。
「武田勝頼様。このたび、主君織田信忠より副使を仰せつかりました、川尻秀隆にござる」
「同じく、里見信義にございます」
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
今日は『高遠城開城交渉』の副使として、城の本丸に来たんだ。織田の副将、川尻秀隆さんが「副使」って言った時点で、勝頼さんちょっと顔が引きつってたけど、俺の名乗りを受けて、表情が死んだね。家臣もいるんだからあんまりみっともない顔をするのはどうかと思うけど……。あ、周りの連中も呆然としてるから、誰も気付かないか(笑)
敵地に直接乗り込むなんて何を考えてるんだ、って?
そう言われちゃうと、何も言えないんだけどさ。でもさ、俺、言い出しっぺだし。だって、何事も口だけのヤツって信用されないじゃん?
それに、武田の方としても、受け入れたってことは何かしらの条件闘争を考えてるってことだろう? だから、多分、襲われることはないんじゃないかな?
あと、実は供回りとして風魔衆を連れてきてるんで、もしもの時の脱出経路もバッチリだよ!
それにしても勝頼さん。まだ『正使』が控えてるのに、俺ごときに驚いてていいのかね?
お、正使の挨拶が始まるよ!
「勝頼殿。久しいな。正使の武田豊信じゃ。甲斐の衆には『西保三郎』の方が通りが良いかの?」
あんぐりと口を開けて、しばらく固まってた勝頼さん。流石に気付いて動き出したけど、色々とギクシャクしてる。
ははは! 狙いどおり! 最初からこっちの流れに引きずり込めたよ。後はこのペースをどれだけ維持できるかだね!
「武田豊信殿、御無沙汰しております。して、此度はどのようなご用件でございましょうか?」
「うむ、お主もわかっておろうが、間もなく総攻撃が始まる。甲斐の衆は一騎当千、杖突峠での土屋惣三の働きは『片手千人斬り』とも称されておる。雲霞のごとき大群に囲まれようとも、この城とて容易くは落ちまい。
しかしじゃ、我らは既に10万を超えておる。さらに、信長殿の率いる数万の大軍が既に安土を出陣したそうじゃ。たとえ漢の項羽や呂布がここにいたとて、今のこの状況を打破することは出来まい。
お主らは、よう戦うてきた。しかし、このまま抵抗を続ければ、新羅三郎様以来の武田の社稷が途絶えることになりかねん。それを惜しむからこそ、今日ここに儂が出張ってきたのじゃ」
「用件については想像通りでござる。ただ、正直なところ、軍使殿には『お断り申し上げる!』と言おうと思っておりました。
ですが、豊信殿がいらして、しかもその口から『武田の社稷を保つ』という言葉が出ては、お話を伺わぬ訳には参りますまい。
開城の条件をお伺いしましょう」
「よくぞ堪えてくれたの。では、川尻秀隆殿、お願いいたす」
「は、これが織田信忠からの書状にござる」
川尻秀隆さんが、一通の奉書を差し出すと、側に控えていた小姓が、さっと勝頼さんにそれを手渡した。
ちなみに内容はこんな感じ。
一、勝頼を含む武田家の男性は逃げ隠れすることなく切腹すること。
ただし、現時点で僧籍にある者、元服前の者はそれに含めない。
一、元服前の男児は出家することする。
また、場所は畿内に近い大寺院とし、傅役の帯同も認める。
一、女性に関しては危害を加えることなく全て助命、身分に応じて化粧料を与える。
一、命を助けられた武田家の者は、織田家の許可なく甲斐・信濃への入国を禁ずる。
一、墓を暴くなど、武田家の父祖を辱める行為は誓って行わない。
一、武田家の家督は武田兵部少輔豊信が継ぐものとする
また、御旗・楯無も織田家では接収しない。
一、松姫を織田左近衛中将信忠室として迎える。
一、高遠城内の武田一門以外の者については、老若男女関わらず全てを助命する。
なお、希望があれば武田兵部少輔豊信への再仕官を認める。
※ただし、必ずしも所領安堵を認めるものではない。
一、高遠城攻防戦以前、あるいは開城以後に降伏した者は、武田家への仕官は認めない。
一、開城後に抵抗した者については、以上の条件を適用しない。
真剣に目を通す勝頼さんに、豊信さんが声を掛ける。
「一応言うておくが、御旗・楯無は儂が新府で預かってきたゆえ、勝頼殿が使いたいなら城内に運ばせよう。出来ることなら残してほしいが、現在の当主は勝頼殿じゃ。好きなようになさるがよろしい」
「豊信殿、かたじけない! これで、信勝を男にしてやれまする! ところで、この条件は……」
「大筋は譲れぬそうじゃ。ああ、1つだけ。儂が継ぐのがダメなら穴山梅雪の息子に家督を継がせてもよいとのことじゃ。アレも血筋は悪うない。儂も武田姓を名乗っているとは言え、一度分家を継いだ身じゃからな」
「最初から敵味方に分かれておった豊信殿ならともかく、裏切り者の息子などに家督を継がれたとあっては、父祖に申し訳が立ちませぬ。使者の皆様、仮にこの話がまとまらずとも、それだけは御容赦願いたい」
そう言うと勝頼さんは俺たちに頭を下げた。それを見て、武田の家臣たちも一斉に平伏する。
ふふふ。勝ったね!
なんで「勝った」んだ、って?
だってさ、話を蹴ったら穴山勝千代が武田家を継承するかもしれないんだよ。人間、敵が勝つよりも、裏切り者が得をする方が許せないもんだ。そんな感情を抱かせることが出来た時点で、こっちの土俵に引きずり込めたってことじゃん?
ちなみにね、実はコレ、無事に生還するための切り札でもあったんだ。だって、豊信さんがいなくなれば、「穴山勝千代が武田家を継承する」って悪夢が現実になっちゃうじゃん? 勝頼さんも豊信さんを五体満足で返そうと必死になろうってもんだよ。