第137話 甲州征伐⑥決戦前夜 ※地図あり
※後書きに地図を載せました。
天正10年(1582年) 3月3日 信濃国 伊那郡 富県城
「よくぞお越しくださった。里見信義殿!」
「織田信忠様、私は臣となる身、敬称は不要にございます」
「そうか。では、遠慮無く。信義、よくぞ参った。大儀である」
「滅相もございませぬ。少々荷物がかさばり、到着が遅れましたこと、心よりお詫びを申し上げます」
「いや、そのように謙るものではない。里見義頼殿から事情は聞いておる。そもそも義頼殿がお越しくださらねば、我らこの田舎にて屍をさらしていたやもしれぬ」
「そのような激戦であったとは……。義頼が手勢が間に合い、幸いでございました」
「粗忽者どもが功を焦ってな。おかげで、名だたる侍大将を失うてしもうた。
味方は崩れ始め、我らも覚悟をせねばと考えておったとき、里見殿の先鋒が現れたゆえ、陣を立て直すことができたのだ。
そればかりか、逆に武田の侍大将 小山田昌成、昌貞兄弟を討ち取ることすらできた。おかげで昨日の戦は『痛み分け』となったゆえ、織田の名に泥を塗ることなく済ますこともできた。義頼殿にはいくら感謝しても足りぬ」
「そのようにお誉めを頂けて光栄にございます。私も義頼に負けぬ働きをいたしますので、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「うむ、期待しておる! ……ところで、北条殿、徳川殿はいかがした?」
「北条氏直殿は我らが後ろを行軍しておりましたゆえ、間もなく到着なさいましょう。徳川信康殿は高遠城の後背を突くべく、杖突峠を越える路を選ばれたのですが、杖突峠は諏訪側から見ると壁のような難所でござった。もしや峠の武田勢を攻めあぐねておるやもしれませぬ。ただ、峠から城までは緩い下り坂が続いている様子。峠を落としさえすれば、半日もしないうちに城下まで押し寄せましょう」
「そうか、では、此度の経験も踏まえ、徳川殿が来着するまで、しばらくの間、総攻撃は繰り延べることといたそう」
「わかりました。ただ、徳川殿を待つ間に奇襲を受けぬよう、陣城を築くとともに、周辺の出城を潰しておくのが肝要かと」
「うむ、確かにその通りだ。勝頼めの逃げ道も塞がねばならぬゆえ、念入りに準備をせねばならぬな。さて、其方にも明日からはしっかりと働いてもらおう。ただ、今日は着陣したばかり、陣に戻ってゆっくり休むがよい」
「はっ! それでは失礼いたします」
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
甲州征伐もクライマックス。武田勝頼さんの立て籠もる高遠城にやってきたよ。
まあ、この段階でわかったと思うけど、今、ちょっとどころじゃない誤算が生じてるんだ……。本来の歴史だと、この城に籠もってたのは、勝頼さんの弟、仁科盛信さんを主将とする3千人。ところが、この世界線じゃあ、勝頼さん本人を含め、1万5千人以上がいるらしいんだ。
史実だと、穴山梅雪の裏切りにショックを受けた勝頼さんは、信濃での決戦をあきらめて甲斐に撤退するんだけど……。
この世界線だと、里見・北条・徳川による侵攻が鮮やかに決まりすぎて、甲斐の防衛が勝頼さんの選択肢から外れちゃったらしいんだ。
え? お前がやりすぎたんじゃないか、って?
うん、それは間違いないね。ただ、言い訳をするなら、前半が何から何まで上手くいきすぎたんだよ。当初想定してた計画では、蒲原城に武田を誘い出して艦砲射撃でメタメタに叩いた上で、北条や徳川と一緒に包囲殲滅する予定だったの。ただ、徳川や北条が兵を揃えるのに時間がかかりそうだったから、その間持ちこたえる必要があったんだ。だから、情報統制を敷こうと穴山梅雪を利用したんだけど……。まさかあそこまで上手に立ち回るとは思わなかったよ。
それにさ、武田が甲斐を捨てるなんて完全な想定外だよ!! 勝頼さん、あんた岩殿城と岩櫃城を天秤にかけて、「甲斐を離れられないから」って理由で、岩殿を選んだんじゃないの!?
ゴメン。ちょっとエキサイトしちゃった。
と、いうわけで、勝頼さん、イチかバチかの決戦を選んじゃったらしい。
おかげで武田勢が、ある程度の士気を保ったまま、高遠に集結しちゃってるんだ。そんな理由もあって、緒戦での織田勢の損害がビックリするほど大きくなったんだろうね。
でもさ、そもそも、兵士が倍程度しかいない状態で城を強攻しようなんて、普通だったら絶対しないんだ。言っちゃあ悪いけど『愚の骨頂』だね。
で、何でそんなアホなことが起こったのかって言うと、功に逸った森長可さんとか団忠正さんとかが、勝手に突撃しちゃったらしいの。
当然ながら結果は最悪。先頭に立って突撃した団忠正さんだけじゃなく、武田の反攻を食い止めようとした毛利長秀さんまで討死しちゃったんだって。タイミング良く義頼さんが駆けつけてなかったら、マジでやばかったみたい。
ちなみに、討死した忠正さんと一緒に突撃した森長可さんは負傷で済んだらしいんだ。けど、戦後は相当な針の筵になるんじゃないかな? 俺の見立てでは、この後、かなり大きな手柄を挙げない限り当主交代もありうるね。少なくとも、戦後に川中島4郡は貰えないと思うよ。
おっと、武田が滅んでもないのに戦後の論功行賞を語るなんて良くないね。窮鼠猫を噛むって言うし、武田の連中は何をしてくるかわからないんだ。俺も油断は禁物だね。
天正10年(1582年) 3月7日 信濃国 伊那郡 的場城
あれから3日、やっと周辺の出城を全て陥落させたよ。俺らも頑張ることは頑張ったけど、一番凄かったのは負傷してる森長可さんだった。名誉挽回しようと必死だったんだろうね。これで首の皮は繋がったかな?
ちなみに、俺にとっては、今いる的場城への攻撃が一番の激戦だったよ。
とは言っても、こっそり作っておいた狙撃銃が役立ったんで、思ったほどの死傷者は出なかったんだ。
精鋭100人で構成してる秘密の狙撃部隊に、立派そうな身なりの奴を優先して狙うように指示しといたら、それがバッチリ嵌ってね、何と、敵の主将 長坂釣閑斎さんを射殺しちゃったの。
釣閑斎さん督戦でもしてたのかな? 彼が倒れた途端、守備隊は総崩れ。それ以降はほとんど損害無しに城を占領できたよ。
造っといてよかったミニエー銃擬き!
あ、そう言えば! 徳川信康さんが合流できたのは、なんと今日になってからなんだ。攻撃開始の日から逆算すると、実に10日近くも杖突峠で抑え込まれてた計算になる。
それだけじゃないんだ。峠の戦いはかなりの激戦だったみたいで、先鋒として道案内を務めてた穴山梅雪が討ち取られるっていう、特大のおまけつきだったよ。
峠の守将? 聞いたら、何と土屋惣三さんだった!
最終的には間道から別動隊を峠の裏手に回らせて、惣三さんを討ち取ったみたいだけど、500人程度の敵に3千人以上の死傷者が出たんだって。
歴史が変わっても『片手千人斬り』は変わらなかったみたい。惜しい人を亡くしたもんだよ。
さて、徳川家の軍勢も揃ったんで、明日からは本格的な攻城戦が始まる予定だよ。
武田は1万以上、でも連合軍は10万もいる。戦力的には負けっこない。
でも、10万人の軍勢が一度に攻めかかれるわけじゃないし、武田の兵力も多いし士気も高い。だから、上手く立ち回らないと手ひどいしっぺ返しを受けることもあり得る。
いずれにしても、明日が大きな山だと思う。できる限りの準備は整えたんで、後は明日を待つばかりだね。
さあ、今回も『いのちをだいじに』頑張りますか!




