第136話 甲州征伐⑤勝頼の決断 ※地図あり
※後書きに地図を載せました。
天正10年(1582年) 2月26日 信濃国 伊那郡 藤沢城
武田勝頼は、織田との決戦に備え、9千の兵を率いて、上原城と高遠城の中間に位置するこの城に入っていた。
高遠城には、従弟の武田信豊率いる5千を先行させた。元々高遠には弟仁科盛信が3千の兵と共に立て籠もっている。援軍と併せて8千の兵がいれば、如何なる大軍が現れようと、簡単に抜かれることはないだろう。
そして、織田が攻めあぐねているところを、自ら兵を率いて間道伝いに背後に回り、城方と呼応して挟み撃ちをかける。これが勝頼必勝の策であった。
そんな勝頼の下に早馬が2騎、立て続けに駆け込んできたのは、既に日が西に傾き、山の陰が長く伸びた夕刻のことである。
「一大事にございます! 小山田信茂、昨晩のうちに新府城で人質を奪い、逐電いたしました!!」
「なんだと! さては、小山田信茂め、裏切りおったな!!」
「御屋形様、至急対応をしませんと! 都留郡より甲府盆地に北条勢が雪崩れ込んで参りますぞ!!」
「小山田めは人質連れ、早くは動けまい。騎兵隊を編成し、追撃を……」
床几から立ち上がり、追討令を出そうといきり立つ勝頼であったが、その言葉を遮って、もう一人の伝令が話し始めた。
「御屋形様、お待ちくだされ! 私の話も聞いてからご決断をお願い申し上げまする」
「なんだ! お主の話は小山田の裏切りよりも大事なことか」
「勝るとも劣りませぬ。市川に徳川勢が来寇いたしました」
「市川だと! 富士川沿いに攻め寄せたと申すか!? 河内を領する穴山家からの連絡は来なかったのか?」
「一切入っておりませんでした!」
「御屋形様、富士川沿いには狼煙台も備えられておりますれば、本来でしたら全く連絡が無いなど考えられませぬぞ! 確たる証拠はございませんが、穴山梅雪様は捕らえられたか、それとも寝返ったか……」
「恐れながら申し上げます。昨晩、新府城から連れ出された人質は小山田家の者だけではございませぬ。穴山家を含め一緒に多数の人質が連れ去られております。逃亡の盾とするためと思うておりましたが、あるいは……」
「…………何としたことだ」
話を聞いていた勝頼は、こう呟くと、崩れるように床几にその身を沈めた。
主君のあまりの意気消沈ぶりを見かねて、側近の長坂光堅、跡部勝資らが口々に声を掛ける。
「御屋形様、まだ第一報でござる。小山田はともかくとして、市川の徳川勢は、各所の攻勢への対応で山脈沿いの間道に手が回らなくなったところを突かれた可能性もございます」
「光堅殿の仰るとおりでござる。それに、我らには、まだ高遠の谷間だけで1万7千の兵がおります。さらに上州や北信濃、越後の勢力を合わせれば5万は集めることが可能です。落ち込んでいる暇はございませぬぞ!」
「光堅、勝資。済まぬ。小山田信茂ばかりか、一門の筆頭である梅雪斎までもが裏切ったと考えると力が抜けてしまった。このような体たらくでは父上に笑われてしまうな。
しかしだ、ことここに至っては、我らも覚悟を決める必要がある。しかも、もはや取れる手は少ない。
今、ワシが考えつくのは、この3つだ。
1つ目は、騎馬の部隊を先行させて、人質連れで逃げる小山田を絡め取るとともに、高遠城の兵も引き連れて、ほぼ全軍で甲斐にとって返し、徳川を追い払った後、改めて織田とまみえる策だ。
この策ならば本国甲斐は守れる可能性がある。しかし、小山田が既に北条を引き込んでいた場合や、穴山が裏切っていた場合は、今の信濃以上の敵に相対することになる。
また、伊那谷の諸将の体たらくを見れば、織田も早々に甲斐に現れるは必定だ。それに敵を目の前にして退けば、追撃がかかるであろうし逃亡者も増えよう。このような問題がある。
2つめは、杖突峠を押さえて後背を安定させた後、予定どおり高遠城で織田と戦う策だ。
この策ならば本来の予定していた内容を実践するだけであるから、混乱は少ないはずだ。杖突峠に兵を残す必要があるが、この天嶮ならば多くの兵は必要あるまい。とにかく織田信忠を打ち破ることだけに力を注げばよい。
とは言え、この策を採れば一時的にも甲斐が蹂躙されてしまうことは必定。将兵の動揺は避けられまい。
3つめは、捲土重来を期し、まだ敵が来ておらず、援軍も求めやすい北信濃や上野に撤退し、粘り強く戦い続ける策だ。
甲賀の山中に逃れて10年近くも信長に抗った六角承禎入道の例もある。武田家の命脈を保つためにはこの策が一番であろう。
しかし、この策のためには、一度甲斐本国を完全に捨て去る必要がある。仮に織田が倒れても、甲斐の衆は我らを簡単には許すまい。
どれを選んでも我らの前にあるのは茨の道ぞ。最後の決断はワシが行うが、できるならより良いものにしたい。忌憚なく皆の意見を聞かせてくれ」
「恐れながら……………………」
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議論は夜まで続いた。しかし、その間にも凶報が次々と入る。
「笹子峠・御坂峠に三つ鱗の旗が翻っております」
「富士山の西側を里見の大軍が進んでおります。本栖の城に続いて右左口の砦も陥落いたしました」
「徳川勢の先頭に三つ花菱の紋が。里見勢の中には武田菱の旗も見えました」
「富士川沿いは敵兵で溢れかえっております。そればかりか川船を利用して物資を運んでいる様子も見えまする」
「皆の衆、残念だが、甲府盆地にこれだけの敵軍に入り込まれてしまった。ことここに至っては、もはや甲斐で戦うことは不可能だ。ワシもあまり無様な真似はしたくはない。死中に活を求めるべく高遠で織田を迎え撃つことといたす。力を貸してくれ」
「……我らも覚悟を決め申した。このようなところで命を惜しんでいられましょうか。最期まで御屋形様に従いましょうぞ。のう、皆の衆!」
「「「「「応!!」」」」」
「其方らの忠誠、有り難し! 神仏も見届けてくれようぞ!
では、土屋昌恒、お主は、兵500を率いて杖突峠を守れ」
「はっ! 一兵たりとも背後は突かせませぬ」
「頼んだぞ! 次に、横田尹松。新府城に急行し、信勝に伝えよ『自身が大将となって、全ての壮丁を引き連れ、高遠に馳せ参じよ』とな。また、残った人質や、城内の女房衆、老人は本丸に集め、其方が監督しながら狼藉者から守れ」
「はっ! 敵が押し寄せましたらいかがいたしましょう?」
「その場合、残った者の助命が認められれば降伏して構わぬ。認められぬ場合は、辱めを受けぬようにしてやってくれ。辛い立場だろうが頼むぞ」
「はっ! 命に替えましても!!」
「残りの者は、明朝、高遠に向けて出発する。ここまできたら小細工はせぬ。正面からぶつかるのみだ。皆の衆気張れよ!!」
「「「「「応!!」」」」」
天正10年(1582年) 2月28日 甲斐国 巨摩郡 新府城
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
碌な抵抗もなく、新府城下まで来たと思ったら、なんと、いきなり降伏の使者が送られてきたよ。これ、どうなってるの!?
それにしても穴山梅雪は役立ったね。なにせ、武田の部隊が現れても、ちょっと顔を出して一喝すれば、すぐに降伏しちゃうんだもん。ビックリしたよ!
まあ、出てきた武田の部隊長にしても、こっちはどこまでも続く雲霞のような大軍だろ? まともに戦ったら一瞬で全滅なのはわかってる。だから、梅雪は降伏の後押しをしてくれるありがたい存在だったのかもね。
ちなみに、甲斐への侵入は、里見・徳川連合軍の他、里見義頼軍、北条氏規軍、北条氏直軍がほぼ同時だった。でも、その後の侵攻スピードは俺らが一番先行してる。一番距離が短かったし、大きな峠越えがなかったからね。
北条家の軍は、甲府の手前の石和辺りで合流したみたいで、この後、甲府に入るらしい。里見義頼さんは笛吹川を渡った辺りにいて、明日には新府に入城できそうな具合だ。
そう言えば、降伏の使者は横田尹松さんだったよ。条件が『城内にいる人の助命』だったんで、「誰がいるの?」って聞いたら、「人質と横田尹松の郎等以外は、女性と老人しかいない」って言うじゃん。これ、断ったらみんなで自害するパターンだよね。
目の前で自害されるのは寝覚めが悪いからさ、条件付きで認める予定だよ。確か勝頼さんの奥さんは氏政さんの妹のはずだし、北条家に恩も売れるから一石二鳥だよね?
勝手に決めたら信長さんが怒るんじゃないか、って?
大丈夫じゃないかな? 信長さんも何もしてない女性には結構寛容だったはずだし。それに、占領したのはこっちの方が先なんで、後付けで文句言われてもねぇ。ま、いざというときには全力土下座だね!
「信義様、信義様!!」
「おお、失礼、横田尹松殿。ちと考え事をしておりましてな」
「そうでしたか、それは失礼いたしました。ところで、信義様、先ほど仰った『条件』とは如何なることにございましょうか?」
「横田殿に私の家臣になってもらいたいのだ。『今、すぐに』という訳ではない。仕官はこの戦が終わった後で構わぬぞ。太方様(※勝頼の祖母)や奥方様とも相談し、結論を出すがよかろう」
横田尹松さんの仕官は女性たちの身の振り方が決まった後になったけど、夕方、無事に新府城は開城したよ。本丸に籠もってた人たちは、二の丸に移ってもらって、引き続き尹松さんに警護をお願いしといた。
それにしても、この辺は歴史が完全に変わったね。悲劇的な最期を遂げたはずの女性たちにとって見れば良かったんだろうけど、甲斐に撤退したことで士気が崩壊して、軍の体をなさなくなった勝頼さんの本隊がまだ保たれてるんだ。このせいで戦自体はちょっと面倒なことになるだろうね。
まあ、それも甲斐に逃げ場をなくしちゃった里見北条徳川連合軍のせいなんで、文句は言えないんだけどね。