第123話 徳川家への援軍
天正9年(1581年)3月 遠江国 城東郡 小笠山砦
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
たった今、軍勢を率いて、陸路、徳川領の遠江に着陣したとこだよ。
馬揃えも終わったのに、なんでまだ関東に帰ってないんだ、って?
だって、仕方ないじゃん。持ってった船が使えなくなっちゃったんだもん!
実は熊野の御札が大好評でね。早くも熊野詣をしたがる人が出てきたの。でも、この当時の旅って安全じゃないじゃん。
信長さんが犯罪者を取り締まったり関所を廃止したりしたから、織田家の分国内では比較的安全に移動ができるようになってきてるんだけど、それにしたって限界がある。特に紀伊半島の西部や山間部は、織田家に反抗的な雑賀衆や高野山の勢力が強いから、厳格で有名な織田家の分国法が行き届いてない。
伊勢方面からも熊野地域にはアクセスできるよ。だけど、リアス式海岸特有の、山がちで峠越えを繰り返す伊勢路は、難所が多くて熊野へのメインルートじゃなかったんだよね。
ちなみに、史実で言えば、尾鷲近辺の海沿いを走る国道311号なんて、全線開通したの2,001年になってからだよ?
まあ、それでも人は住んでるから、一応、人が通れる道はあるにはあるんだけど、まさにリアル『熊野古道』なわけよ。しかも、『戦乱の世』ってこともあって、ここのところ通る人が少なかったから、街道の整備状況は酷い有様だった。そして、ほとんどの集落で宿泊客を吸収できるだけの旅籠がない。と言うより、民家すら疎らなくらいなんだよ。
だから、事前に「周辺住民に金品を与えて街道整備をさせるように」って指示はしといたんだけど、予想以上にブームの到来が早かった!
険しいうえに、宿泊場所もほとんど無い道に人を集めてみなよ。史実と同様に大量の野垂れ死にがでるか、山賊にジョブチェンジする輩が大量生産される未来しか俺には思いつかないね。
だから、仕方ないんで、乗ってきたガレオン船のうち、2隻を客船、1隻を護衛艦としておいてくことにしたんだ。で、その3隻で、桑名―鳥羽―尾鷲―新宮 間を往復させてる。ちなみに、桑名―尾鷲間は九鬼嘉隆さん麾下の志摩水軍に、尾鷲―新宮間は熊野の水軍衆に水先案内人兼護衛を有料で依頼してるんで、みんな喜んでくれてるよ。
まだ始めたばっかりなんで、今は持ち出しが多いけど、思った以上に客が多いんで、黒字転換も近いんじゃないかな? まあ、航路を運営すること自体が、周辺の安定化と税収増に繋がるから、多少の赤字でも止めるつもりはないけどね。
と、いうことで、去年元服式のために乗ってきた10隻のガレオン船のうち、3隻は信長さんに献上し、3隻は伊勢―熊野航路の貨客船に使うことになっちゃった。さらに、徳川家にも連絡用として1隻あげてく予定なんで、俺が自由に使えるのは、たったの3隻になるんだよね。
定期航路の乗務員や、代官としてこっちに残していく連中もいるから、全員が一度に関東に帰るわけじゃないけど、流石に3隻じゃあ、今残ってる人数を乗せきるのは無理だ。
いや、正木堯盛の話では「無理すればいける、かもしれない」ってことだったんだけどさ。でも、大量に人を乗せて、重量オーバーで沈没でもした日には、目も当てられないだろ?
だから、残った3隻は、一旦関東に送り返して、新しく軍船を追加して戻ってきてもらうことにしたんだ。
でも、なんで遠江にいるのか、って?
安土にいても良かったんだけどさ、あっちにいると信長さんがいちいち構ってくるんだよ。何をさせられるか分かったもんじゃないからね。それに、安土にいたらさ、迎えの船が来ても、すぐには反応できないじゃん。
海の側が良いなら、熊野にいればいいんじゃないか、って?
あっちはあっちで面倒くさいんだよ。食糧生産力が弱いから、あんまり大軍で長期間は滞在できないんだけど、『里見信義が滞在する』ってなったら、安全のためにそれなりの兵力は必要だろ? だから、尾鷲に築いてる城と食糧備蓄倉庫が完成するまでは、俺の再度の熊野入りは避けるつもりだよ。
関東に帰れない、安土にも熊野にもいられない。こんな俺が取った第4の方策が……。
おっと! お出ましだ!
「徳川信康殿。梅王丸改め、里見信義にござる。元服の挨拶が遅れ、誠に申しわけございませぬ」
「信義殿、なにをおっしゃる! 当方こそ、元服式に顔も出せず。申しわけござらぬ。それにしても立派になられた。しかも、初陣から既に2か国を攻め取られたとか。私もあやかりたい物でござる」
「いやいや、私が相手をいたしたは、中小の土豪でござる。信康殿は、最初から武田を相手に勝ちきられたではございませぬか! 私などとは比べものになりませぬ。
此度はその武田相手の戦と聞き、『援軍を』と思い、馳せ参じたのですが、この包囲網を拝見するにつけ、『もはや援軍など蛇足であったのではないか』と恥じ入るばかりで……」
「とんでもござらぬ! 城の窮状は甲斐にも伝わっておりましょう。いつ武田勝頼めが、後詰めに出張ってくるやもしれませぬ。勝頼めとの決戦ともなれば、これまでの戦果が水泡に帰す可能性すらありました。そんな大事な時に里見家の皆様が援軍として駆けつけてくださったのです。徳川家としても心強い限りでござる」
「そう言っていただけると、里見としてもありがたい限りでござる。なお、参ったからには落城を見届けるまでは戦い抜く所存。如何様な指図にも従いますゆえ、よろしくお願い申し上げます」
「ありがたきお言葉かな! 既に主将の岡部元信も音を上げ始めておりますので、そう長くはかかりますまい。落城の際には、信義殿と轡を並べて入城したいものでござる」
「何と! 落城を見届けるのみならず、信康殿と共に高天神城に入城できるともなれば、一生の宝にございます」
「ははは、嬉しきお言葉にござる。さて、長旅でお疲れにござろう。ささやかながら宴の席を設けましたゆえ、今日はゆっくりとおくつろぎくだされ」
「はい」
と、いうことで、俺たち、これから高天神城の攻撃に参加します。今日が3月16日なんで、史実ではあと1週間もしないうちに落城するんだけど、色々変わっちゃってるから、どうなるかわかんないからね。せいぜい駄目押しをさせてもらいますよ。
翌日、俺たち里見勢は小笠山を下りて南下し、高天神城を見下ろす楞厳寺山に陣を敷いた。そして、迎えと物資補給のために遠州横須賀湊にやってきたガレオン船に指示を出し、移動しやすいように車輪を付けた大砲を2門、二日がかりで山に引き上げたんだ。
で、着陣4日目の3月20日、その大砲が火を噴いた。置いた場所が場所なんで、弾薬を大量には持ち込めなかったから、あんまりたくさんは撃てなかったけど、それでも城に何発も着弾してたから、損害も大きかったんじゃないかな?
その晩、岡部元信さん以下、生き残った城兵のほとんどが、包囲する徳川方に突撃を敢行、壮烈な戦いの後、玉砕した。のちに聞くところによると、主将の岡部元信さん自らが先頭に立っての突撃だったという。




