第101話 伊王野合戦・逃走(閑話) ※地図あり
※後書きに地図を載せました。
天正6年(1579年)7月 下野国 那須郡 伊王野
岩城親隆が命を落としたちょうどその頃、伊達輝宗は奥州街道を北に向かって馬を駆けさせていた。此度の戦では、伊達勢は蘆名勢と並ぶ連合軍の主力となる予定であった。
しかし、なにぶんにも出羽 米沢は、ここ下野とは遠く離れている。その上、阿武隈川下流域を巡って争う相馬義胤が、小賢しくも里見と呼応して蠢動を始めており、その対処の必要もあって着陣が遅れてしまったのである。
幸い着陣の際には、未だ大戦にはなっておらず、胸をなで下ろしたものである。しかしながら、伊王野宿の陣所は既に満杯。仕方なく城の西側の街道沿いに後詰めとして陣を張ることとなったのだ。
この時は屋根のある宿がないこと、後方に配置されたこと等、不満でしかなかったものだが、まさかこれが己を助けるとは思ってもみなかった。
今朝がた薄明のころから始まった戦は、気付けば一方的に攻めていたはずの味方が次々となぎ倒されていた。しかも、本陣には四方八方から砲弾が降り注ぎ、遂には、里見本陣の裏手の山から、洪水のように敵兵が湧き出してくる始末である。
里見は『1万5千』と号していたと言うが、どう見てもあの数は3万は下るまい。
輝宗はすぐに気付いた「我らは完全に嵌められたのだ」と。
流石は奥羽に覇を唱えた伊達家の当主である。そこからの輝宗の決断は早かった。
『三十六計逃げるにしかず』全てをうち捨てて撤退を開始したのである。
この決断の早さは伊達主従を死地から救うことになった。
里見の本隊は、敗走する奥州連合の兵に遮られて、伊達勢には届かず、城から出てきた追撃の兵も、伊王野宿の本陣への突撃に注力したためか、こちらにはほとんど向かってこなかったのだ。
身軽になった彼らは四里の道を駆け抜けて、無事、国境を越えた。そして、小峰城の南方一里、革籠原にて、初めて一息つくことができたのである。流石の里見と言えども、陸奥は未知の領域。ここまで一度に追撃してくることはあるまい。
また、万が一追撃してくるならば、山間の隘路から平野に出てきたところを押し包んでやればよい。
とにかく今は、ここで逃れてくる兵をまとめ、白河小峰城で糧食を摂り、体制を整えなければならぬ。
こんなことを考えながら体を休める輝宗主従のもとに、四半刻ほど前、小峰城への入城許可をもらうべく送り出した使者が血相を変えて戻ってきた。
「申し上げます! 小峰城下には軍勢が雲霞の如く溢れておりました!」
「なんだと!」
「旗印は、土岐に宇都宮に大田原、里見の別働隊かと思われます」
「くっ、那須衆の手引きで北側から回り込んだか! 里見の手はどこまで長いのじゃ!! グズグズしてはおられぬ。里見は小峰城を落とせば、奥州街道を扼すべく、すぐにこちらにも向かってこよう。すぐに発つぞ!」
慌てて再び出立の準備をする伊達勢であったが、その時、無情にも北の小丘を越えて、里見の先鋒が姿を現した。
もはやこれまでか。輝宗の胸に一つの諦観が浮かんだ時、脇に控えていた一人の将が声を上げた。老将、鬼庭良直である。
「殿、お願いにござる!」
「鬼庭良直いかがした!」
「この良直めに、殿の兜を拝領したく存じまする!」
「……良直」
「殿! 良直殿の忠義を無駄になさいますな!」
「遠藤基信、わかった……。良直、我が兜を取らす。その忠勤、子々孫々まで忘るるまいぞ!」
「ありがたき幸せ! それでは殿、永のお暇にござる。御免!」
1千の手勢を率いて革籠原の陣を出た鬼庭良直は、輝宗の名を名乗ると、猛然、矢の如く里見の先鋒に襲いかかる。あまりの勢いに里見勢が後退した隙を突き、鬼庭隊は奥州街道を扼す小山を占拠した。
その後、一刻にわたって里見の猛攻を食い止め続けた良直であったが、里見の別働隊が間道を通り背後に回ったことで、遂に力尽きた。
しかし、良直が稼いだその一刻のおかげで、輝宗は里見の追撃をかわしがら、米沢に帰り着くことができたのである。
当主が無事だったとは言え、伊達勢の被害は甚大であった。逃避行の間の戦死・脱落・逃散は実に総勢の過半に達し、1か月前に米沢を発った7千の将兵のうち、無事に米沢に帰り着いた者は、ただの3千余であったという。
また、時を同じくして、敵対する相馬義胤が里見からの援軍を得、伊具郡・亘理郡に侵入してきた。抑えの兵が残っていたとはいえ、想定の倍の兵力で襲いかかられてはひとたまりも無い。
結局、1か月の戦闘で相馬勢に阿武隈川以東を完全に切り取られ、領地の面でも伊達家の勢力は大きく減退したのであった。




