第10話 (閑話)松の方
永禄11年(1568年)2月 上総国望陀郡 久留里城
~里見義弘継室 松の方~
「梅王丸に嫌われてしもうた……。奥よ。ワシはどうしたら良いのじゃ」
義弘殿は、大変憔悴した様子で項垂れていらっしゃいます。これが板東無双の武士と讃えられた里見左馬頭様とは……。情けないやら呆れるやら、なんと言って良いものやら見当も付きませぬ。
ま、子煩悩なのは、悪いことではございませんし、見ようによっては、可愛らしくもあります。英雄であっても我が子を顧みなかった、漢の劉邦や蜀漢の劉備のようになるよりは、遥かに良いことでございましょう。
とは言え、このまま放置しては気を病んでしまうかもしれません。政務を滞らせたり、梅王丸を避けるようになったりしては大変です。ここいらで助け船を出しませんと。
「殿。梅王丸は殿のことを嫌いになったわけはございません」
「む?」
「考えてもご覧なさいまし。殿を見てあのように嬉しそうにしていたではございませんか。皆の者もそう思うであろう?」
「「「「はっ!」」」」
脇に控えていた近習や侍女が、口々に同意します。そして、一人の侍女が、口を開きました。
「恐れながら申し上げます」
「なんじゃ? お富。申してみよ」
「私は弟妹が多く、これまでも多くの赤子に接してまいりました。ですからわかるのですが、生まれたばかりの赤子と言えば、泣くか、寝るか、乳を飲むかぐらいしかできないのが普通でございます。しかし、梅王丸様は、私どものような卑しい者にも笑いかけてくださいます。このような聡明な赤子は今まで見たことがございません」
「「見たことがないほど聡明とな!流石は里見(足利)の子じゃ!」」
「梅王丸様は、私どもを見かけたときにも微笑みかけてくださるのですが、あのように声を上げて笑われたのは、殿とのご対面が初めてでございます。これは、殿が大好きであらせられる証でございましょう」
「そ、そうか! そうであろう、そうであろう!」
「「「「殿。おめでとうございます」」」」
「奥よ! わしは嫌われていなかったぞ」
義弘様のご機嫌が直ったようで何よりです。……でも、そうなると1つ疑問が生まれます。
確かに梅王丸は、今まであれほど喜ぶことはありませんでしたが、逆に、あれほど泣き叫ぶこともありませんでした。笑ったのは「義弘様がお好きだから」というのは理屈に合います。しかし、なぜ、義弘様が近寄ったときだけ、あのように泣き叫んだのでございましょうか?
ふと、ある事に気付いた私は、義弘様のお顔を両の掌で挟むと、顔を近づけました。
「ま、ま、待つのじゃ! い、嫌なわけではないのだぞ! た、ただな、白昼に、しかも、このような衆人環視の前で……」
納得です。私は、顔を赤らめて、早口でしゃべり始めた義弘様の頬から手を離しました。そして、袖で顔を覆い一言。
「……くさい」
またもや崩れ落ちた義弘様を立ち直らせるのは大変骨が折れました。
体臭のことではない。体は良い香りであると、なだめすかして、やっと話を聞いてもらえるようになりました。本当に手がかかるお方だこと。
ちなみに、何が臭いのかと言えば、義弘様は『酒臭い』のです。
御酒を召し上がる方の息は臭います。寝所をともにする際は、私も御酒をいただくことが多いので、これまでは気付きませんでした。しかし、義弘様は昼間から御酒を召されるほどのかなりの酒豪。素面の今は、相当酒臭さがきつく感じました。
慣れているはずの私ですら辛いのですから、赤子である梅王丸が苦に思うのは致し方ないことでございましょう。
こう申し上げると、義弘様は途端に機嫌が良くなりました。しかし、「梅王丸と会うときは御酒は控えてくださいませ」と言うと、またしょぼくれてしまいました。
ですから、「いきなりやめるのではなく、飲む量を減らすとか、時々飲まない日を作るとか、してみてはいかがですか?」と話すと、少し顔色が良くなりました。でも、まだウジウジしていらっしゃいます。ですから、「殿は、今は、梅王丸に大変好かれているご様子。でも、ずっと御酒の臭いをさせていると、顔が見えただけで泣かれるようになってしまうかもしれませんよ」と言ってさしあげました。
『酒は百薬の長』と申しますが、『飲み過ぎは毒』であるとも聞きます。周囲の方と比較しても、義弘様は間違いなく飲み過ぎです。これを機会に御酒の量が減れば、お家のためにもなるというもの。それに気付かせてくれた梅王丸は、もしや神仏の加護が付いているのかもしれませんね。




