「消えない過去、遠い未来」2
「――雪だ」
病室から外を眺めていると、雨が雪へと変った。雪が激しくなり、雪が積もり始める。銀世界へと姿と変えていく。そういえば、昼のニュースで、初雪が降ると言っていた。
初雪に見舞い手に来ていた子供たちが、はしゃいでいる。子供たちがはしゃいでいる姿を見たくない。今はそんな気持ちにはなれない。楓は窓のカーテンを閉めた。思い出せば、今日は誕生日である。毎年、祝ってくれた家族はもういない。抱きしめてくれる腕も――笑顔をもう見ることができない。
会えることはない。声を聞くこともできない。こんなに早く家族と別れることになるとは、思ってもいなかった。幸せな日々が簡単に崩れ落ちていくとは、考えもしなかったのである。この平穏をたやすく壊されるとは、予想もしていなかった。
暗闇と絶望の中で――。
夢も希望もない中で。
どうやって、生きていけばいいのだろうか?
何を信じればいいのだろうか?
どこへ向かえばいいのだろうか?
「どうして、僕だけをおいていなくなってしまったの? 死んでしまったの?」
一人残された孤独感と戦うぐらいなら――。
どうして、一緒に死ねなかったのかと――自分だけが生き残ってしまったのかとそんな思いが胸をよぎっていく。涙は泣くだけ泣いて、乾いてしまっていた。
泣き方すら忘れてしまった自分がいる。治療を受けて、幸い声だけは回復したけれど――寂しさだけが募っていく。それに、気がついてくれたのが、葵と蓮だった。
仕事も忙しいだろう。それなのに、頻繁に顔を見せに来てくれる。お見舞いに来てくれる。今年はこんな物が流行っていると、たわいのない会話をするだけだった。
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「入ってもいいかな?」
ドアの向こうから、蓮に遠慮がちの声が聞こえてくる。
「はい――どうぞ」
「雪が降り出したな。寒くないか?」
「大丈夫です」
蓮は近くにある椅子に座り、小さな箱をテーブルに置く。箱には有名なケーキ店の名前が書いてある。どうやら、蓮はここで楓の誕生日を祝うつもりらしい。
「ケーキですか?」
「嫌いか?」
蓮は苦笑する。
「好きです」
上半身だけを起こして、背の高い蓮を見上げた。バランスを崩した楓の身体を、蓮が支える。
「今日、誕生日だろう?」
まさか、覚えていてくれたなんて――。
「覚えていて?」
「一緒に暮らすかもしれない子の誕生日を忘れるわけがないよ」
そう言い切った蓮の声は、とても優しいものだった。
「ありがとうございます。長谷さんは?」
「葵なら先に仕事に行かせたよ。なぁ、楓」
「――はい」
蓮に呼ばれて、楓は背筋を伸ばす。
「俺たちは傍にいる――そのことを、忘れないでいてほしい」
蓮は楓の頭を撫でる。楓は一瞬――身体を強張らせたが、素直に受け入れた。祝ってくれた人は違ったけれど――久しぶりに感じた人の温かさだった。
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どれぐらい、立ち尽くしていただろうか?
(寒い……冷たい)
両肩に積もった雪の冷たさと感触で、現実に引き戻された。周囲もうっすらと、雪化粧をしている。弥生も雪が好きな人だった。よく二人で雪合戦をした記憶がある。
この先、雪を好きになることはない。好きにはなれないだろう。楽しかった時間が霞んでしまう。
(それでも、自分で決めたことだ)
後戻りは出来ない――今更、思い出しても戻れない。戻れないところまで、来てしまっていた。
(仕事中に私情を持ち込むなんて失格だな)
楓の口元に失笑が浮かぶ。
楓の姿は夜の闇へと消えていった。
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「今、時間いいか?」
「――はい」
楓は携帯端末で勉強していた手を止めた。勉強と読書をするためだけに、かけていた眼鏡をはずす。青灰色の瞳が瞳の加減で、不思議な色合いへと変化していく。何て綺麗な色をした瞳なのだろう。
蓮は吸い込まれそうになる。
引き込まれそうになる。
見つめていると、心の奥まで読み取られてしまいそうだ。今はこの感情を楓に晒すわけにはいかない。へたすれば、楓に伝わってしまう。
蓮は読み取られないように、身体に力を入れた。
「名前のことで話がある」
「いつか、言われると思っていました」
「お前の勘のよさには負けるよ」
蓮は小さくため息をつく。
「今日からお前は桐原楓だ。無理ばかり言ってすまない」
「予想はしていたことです。桐原さんが謝ることでなはいでしょう?」
「俺たちに気を遣う必要はないだろう?」
楓の腕を握りしめた。
それでもしないと楓がどこか遠くへ――手の届かないところにいってしまいそうで不安になったのである。それに、この世界から消えてしまいそうで、蓮は怖かった。
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「お願いがあります」
楓は蓮の腕をそっとおろす。引き取って十年がたつが、楓は自分の望みを言うことはなかった。わがままなど、聞いたことがない。不満も言わない。窮屈な思いをさせている実感はある。自覚はある。楓は普通に振る舞い――そのような態度を、見せることはなかった。
むしろ、葵と蓮が心配してしまうほどの優等生である。
「何だ?」
「部隊への入隊手続きをお願いします」
「今、何と言った?」
「部隊に入ると言いました」
「どうして?」
その場の空気が凍りつき、蓮の眼差しがきつくなった。楓には戦争に関わってほしくない。できるだけ、離れていてほしかった。部隊を率いる長として――楓に、苦しい思いをさせるつもりはない。
このような思いをするのは、蓮と葵――二人だけで充分だった。楓には手を血で汚してほしくない。これ以上、傷ついてほしくない。静かに暮らしていてほしかった。これは、葵と蓮の願いでもある。
希望でもあった。
**********
「力がなければ、何もできないでしょう?」
家族の仇がとれるなら、ここにいる人たちを自分の力で守れるのなら、この手が血で染まってしまってもかまわない。
「武器を扱う重さを分かっているのか?」
「蓮さん」
楓が桐原さんではなく、蓮さんと呼んだのは初めてのことだった。
冷静で落ち着いた声色をしている。
「どうした?」
「家族の仇をとりたいと思うのは、いけないことなのでしょうか?」
「楓、お前」
「お願いします。僕も一緒に戦わせてください」
楓は蓮に頭をさげる。楓も頑ななところがある。引こうとはしないだろう。
蓮はまたため息をつく。
「分かった。入隊への手続きをしておこう」
「――ありがとうございます」
不器用な楓のお礼に蓮は苦笑するしかなかった。