まあ、このくらいが妥当でしょうね
「ナーシャお嬢様。旦那様がお呼びです」
「は? セバスったら、この書類の山を見ても行けというの?」
「ナーシャお嬢様『は?』では、ございません。旦那様が今すぐにと」
「全く。娘に仕事を全部押し付けて、自分は遊んでる癖に仕事の邪魔くらいしないで欲しいわ」
「仰る通りで御座います」
執事のセバスチャンにはついつい素の自分を出してしまう。溜息をつくとセバスチャンが片眉をつり上げる。
はいはい。溜息は駄目ってセバスチャンがお小言を言い出す前に。
「わかった。今行くわ」
「済まない…ナーシャ」
「お姉様ごめんなさい」
まだ昼前だというのに父から呼ばれて客間に行けば。そこには満面の笑みの私の婚約者と妹、困った顔をしている婚約者の親であるクラング伯爵夫妻と父は気まずそうにして、母はにこにこと笑顔で座っていた。
あ、とうとうきたか。
私は今年18歳で、半年後には学園を卒業し婚約者であるオルシュがクラング伯爵家から我が家に入り婿になる予定。うちも伯爵家だから家柄的には問題無い。でもそれを実の妹にブチ壊された。
「どうしてもリリアナに惹かれる気持ちを抑えきれないんだ」
「オルシュ様!」
いや、そこは抑えろよ。
お互いの親が何も言わないのは、既に親同士で話はついているって事。成程、全く馬鹿馬鹿しいにも程がある。
無表情で何も言わない私に焦り始めたのか、オルシュはリリアナとの愛について語り始めていた。そんなオルシュを妹はウットリと聞き惚れている。
そんなオルシュのくだらない話をバッサリ切り捨て質問した。
「それで、私に対しての慰謝料はいかほどで?」
「「え?」」
オルシュと妹はそんな事を考えてもいなかった顔をした。二人共、阿呆顔で笑える。そこにサッと書類を差し出したのはオルシュの父親のラージ・クラング伯爵様だ。
クラング当主様は仕事は出来る人なのに馬鹿息子で苦労してるよね。
「婚約そのものを無効にすると…成程。で、これだけですの?」
俯いている父に問いかける。
「……婚約者が代わっただけではないか」
まぁ、分かっていたけど。相変わらず妹には甘いし大間抜けだわ、この人。母を見れば溺愛する妹が幸せになれたらそれで良さそうだ。
「そうですか。お考え良く解りました。お好きな様になさって結構ですよ。サインはここですね。はいどうぞ」
皆、ポカンとしていた。私が聞き分けなくもっと捏ねると思っていたようだ。
「それでは、どうぞお幸せに。失礼致します」
妹は何か喚いていたが、オルシュが宥めている声が遠ざかる。両親達はこれからの事を話し合うのだろう。だって挙式までもう半年だ。
もう知ったことじゃないけど。
部屋に戻ると侍女と一緒に荷造りをする。ドレスは着回しの出来る3着を手元に残して残りは全て売り払うことにしよう。
執事のセバスチャンはドアの横に控えている。いや見てないで手伝ってよ。
あ、そうだ。
「セバスチャン、ゴルドー商会に遣いをやって頂戴。買い取ってもらいたい物があると伝えて。午後に来てもらえるようにね」
「畏まりました。ナーシャお嬢様」
よし、これで午後には商人が来る。それまでに私の持ち物で売り払える物は纏めておかなくては、この際だアクセサリーと宝石と希少な本も売ってしまおう。
何も言わず手伝ってくれていた侍女がおずおずと尋ねてきた。
「お嬢様これは一体…」
「あぁ、エルザ今迄ありがとう」
「え?お嬢様?」
「私この家を出る事にしたの」
「えぇ!!お嬢様!!そんな無謀な」
「ふふ、貴方達がいてくれたから耐えてこれたの。でももう無理」
「お嬢様…」
「オルシュ様はリリアナが良いそうよ。だからリリアナがこの家に残って家を継ぐと思うわ。どっちに転んでもオルシュ様は婿入りは変わらないけどね」
「な!!なんて非道な真似を」
「と言う訳でさっさと家を出たいのよ」
「…畏まりました」
「それから。セバス」
「はい。ナーシャお嬢様」
「後の事は手筈通りにお願いね」
セバスチャンは恭しく返事をして、私と妹の差別をいつも見ていたエルザは納得したようだ。涙目になっている、優しい子。
そこからはひたすら荷物整理。
これだけバタバタしていても全く反応が無いと言う事は。
「ねぇ、セバスチャン」
「なんでございましょう?ナーシャお嬢様」
「あの人達もしかして何処かへ出掛けた?」
「はい。皆様で食事と仰っていました」
「そう」
複雑な気分になったけど、騒がれるよりはマシだと思い直す。
「お嬢様、ゴルドー商会会長のジビー様がいらっしゃいました」
「随分早かったわね、お通しして頂戴」
手配していたゴルドー商会からはわざわざ会長が来てくれた。私が子供の頃から我が家の商談に来てくれていたっけ。
懐かしいのと同時に居た堪れない。我が家の暗部もキッチリと把握済みだもの。流石商人、我が家の事情を正確に把握していて空恐ろしかったけれど、知っていた分話が早くて助かった。
「それじゃ金貨10枚は今頂くわ。残りは商業ギルドのこの口座へお願いね」
「畏まりました。ナーシャお嬢様にはいつも良くして頂きありがとうございました」
「こちらこそ、今日は大変助かりました。今迄ありがとう」
会長と和やかに別れの挨拶をして、どうせなら我が家の馬車でお送りしますという申し出を受けて夜には既に船の上。
私は海外にいる伯母様に会いに行く。
早業と言うなかれ。
だって知っていたもの。やっぱり、分かっていたらそれなりに準備はするものよね。
半年で卒業だったけれど、既に必要な単位は取ってある。もう既に卒業証書をもらうだけ。本当なら学園に通わなくても良かったのだけれど、婚姻してからも交友を繋ぐため通っていた。セバスチャンには、学園の手続きをお願いしたので後で卒業証書を送ってくれるだろう。
そもそも領地経営も3年前からさせられた。
『将来、何も知らない婿が失敗して損をしないように今からお前が領地経営を学んでおけ』
最初はそんな感じだったけど、あれ絶対に嫌がらせだったと思う。学生でありながら、学業の傍ら領地経営を学んで花嫁修業のマナー諸々。
結果、婚約者との時間を削ってたのがこんな結果になった訳だけど。わかってるのかなあの人。
船の旅は3日。
船酔いもせずに快適な船の旅に見るもの全てが刺激的だ。
ようやく目的地に到着して、雲ひとつなく真っ青な空と、白い外壁に照り返された陽の光がキラキラと輝き眩しくて目がチカチカする。
豪華な客船を降りると船着き場には細身の美しい女性と逞しい男性が笑顔で迎えてくれた。
「もう、来てくれないかと思ったわ!待っていたのよナーシャ」
「マリア伯母様にクライス侯爵様!わざわざ迎えにきてくれたのですか!」
美しい伯母に抱きつき再会を喜ぶ。
マリア伯母様は父の姉で、10年前にお会いして以来だ。私と同じ黒髪と目の辺りはそっくりだと思う。
昔から実の両親よりも、伯母様や祖父母が好きだった。5年前に祖父母が亡くなった時に養女にならないかと伯母様から言われたけれど、その時は断ったのだ。
でも私は今日から伯母様の養女になる。
オルシュと結婚しなければならなくて伯母様の養女の話も諦めたけれど、彼らがご破算にしたのだから、本当に感謝しかない。
伯母様は才女でこのクリアーズ皇国に留学していた時に旦那様であるクライス侯爵様と知り合い、卒業後にすぐに嫁がれて私の従兄弟達を産んでいる。
お屋敷へ行くと、従兄弟のヘイワースとユーリスが出迎えてくれた。
「やぁ可愛いお姫様よく来たね」
「来るのが遅いんだよ」
優しいヘイワースとぶっきらぼうのユーリス。私はここで第二の人生を始めるのだ。
◆◆◆◆
ナーシャが出奔した。
ナーシャの部屋は綺麗に片付けられガランとしている。ドレスもアクセサリーも本も目ぼしい物は全て無くなっていた。妻は卒倒して役に立たない。
「これは、どういう事だ!」
セバスチャンに問いただしても、涼しい顔でわたくしには判りかねますとしか言わない、挙句の果てには使用人の殆どが辞めると言う。
「辞めたければ勝手にしろ!但し紹介状は書かんからな!」
「ええ、結構で御座います旦那様。それでは今迄お世話になりました、失礼致します」
使用人達はその日のうちにバタバタと辞めてゆく。あいつらの代わりなどすぐ見つかる。
「お父様どうしたの?」
怒鳴り声が聞こえたのか怯えたようにリリアナが問い掛けてきた。
「なんでもない。それよりどうしたのだ?」
「ん〜。ねぇお父様ぁ、お姉様はいつ帰ってくるの?」
「大丈夫すぐに戻ってくる。なに少し拗ねているだけだろう」
「ふーん。ならいいんだけど」
「どうした?」
「結婚式は家族皆でお祝いしたいと思って」
「なんて、優しいんだリリアナは」
「うふふふふ」
ナーシャなど世間知らずの小娘が、暫くすれば泣きながら帰ってくると高を括っていたら、ナーシャはなんと姉のところに身を寄せているではないか。
「え?ナーシャが港にいたと」
「ええ、親類を見送りに行った船着き場でお見かけしたので確かですよ」
ナーシャが出奔して1ヶ月が経つ。リリアナの結婚式までもう5ヶ月を切った。準備や購入する品物の確認で商会へ行った時に知人に声をかけられた。
客船で出国したら、行き先はよりによってあの女のところか!
ナーシャはなぜか忌々しい事に我が姉と顔も性格も似ていた。
我が姉のマリア。本当に昔から姉の事が大嫌いだった。何をやらせてもアッサリと弟である自分の上をゆく。父上の口から姉が男であったならと何度聞いただろう。
腹の底から嫌な気持ちが溢れ出す。
「それと、これは聞いた話で定かではないのですが」
訳知り顔で知人が教えてくれたのは。
「なんでも伯爵様の使用人達も荷物を持って船着き場にいたそうで。皆ナーシャお嬢さんの元へ行ったようですね。
ナーシャお嬢さんを心配されて向かわせたのですか?」
「あ…ええ…そうですな」
話を合わせて適当に誤魔化した。辞めていった使用人達はナーシャいや…姉の元へ行っただと。ギリギリと歯を食いしばれば、話し掛けてきた知り合いはニヤニヤと面白そうな顔をしていた。
とっさに取り繕ったが、この噂が広まるのも時間の問題だろう。
そそくさと別れの挨拶をして、知人から離れ品物を確認すると屋敷に戻った。
馬車から降りて、屋敷の違和感に首をひねる。
何か違う。
ようやく何か違う原因に気がついた。
そうだ屋敷に灯りが付いていない。
「アマンダ!リリアナ!」
妻と娘の名前を呼べは、転がるように妻と娘がやって来た。
「貴方!」
「お父様ぁ!」
「一体これは何事だ?」
「とうとう最後まで残っていた使用人達が辞めていったのよ」
「お父様!灯りなんか付け方知らないわ!なんとかして」
「……なんだと」
ナーシャが居なくなり、新しい使用人はやって来なかった。僅かに残った使用人も仕事量が増えて不満がたまりいつ辞めてもおかしくなかったがとうとういなくなってしまっただと?
「貴方!どうなってますの」
「煩い!騒ぐな」
妻がキンキンと耳障りな声を出す。
「取り敢えずクラング伯爵家へ先触れを出して使用人を貸して頂こう…」
「その先触れを出す使用人すらいないのよ!」
「そうだ!御者がまだいたぞ」
馬車で帰ってきたのだ。御者を振り返ると忽然と御者の老人すら居なくなっていた。
「家令がいなくなってから給金も貰っていないって騒がれて、どうなっているの!」
「お父様!お腹が空きましたわ!」
なぜこんな事にと頭を抱える他なかった。
恥を忍んでオルシュの父であるクラング伯爵筋から使用人を紹介してもらったのだが、今迄の倍近い給金で急いで雇い入れた大勢の使用人達は質も悪く手癖も悪く家財が忽然と消えて行く。犯人を探そうにもすでに翌日には辞めていた。
あれから1年、ゴルドー商会の会長が彼らの近況を手紙で教えてくれた。
私が出奔して2ヶ月目には父が領地経営を破綻させた。父の親類は年の離れた大叔父の家族しかいないのに関わり合いたくないと言われ、母の実家は既に没落していて実質クラング伯爵が取り仕切る事に落ち着いたそうだ。
先にオルシュとの籍を入れてオルシュが経営するという建前でオルシュの父親であるクラング伯爵が差配している。
その際には父と母はオルシュ夫婦に任せると言う事で引退して田舎に引っ込んでもらったとか。
ま、クラング伯爵は仕事が大好きだし頑張ってもらうしかないよね。息子が妹を選んだのを許したんだから、それくらいはしてもらわないと。
両親には田舎に引っ込んで貰うのが、虚栄心が強いからいい薬になる筈だ。
私の事を憎んでいた父には、まぁこのくらいの仕返しが妥当でしょうね。
「ナーシャ誰からの手紙?」
「昔お世話になった人からよ。彼らの近況を教えてくれたの」
「そうか…。ナーシャは今幸せかい?」
「勿論よ!あなたの隣にいるんだもの」
そう言って私は最愛の人に抱きしめられる。
ああとても今が幸せだ。既に彼等の事は過去の話。
妹だけ両親に愛されるのも、私だけ憎まれ子供の頃より理不尽な仕打ちをされてきたけれど、もうどうでもいいことだ。
さようなら。