生温かく淀んだ水の底
慣れる。この言葉はいい意味でも悪い意味でも使える。私、朝宮しずくにとって言えば後者なのかもしれない。
がんで闘病中だった母が一年前に亡くなり、その一ヶ月後父が後を追うように病死。半年前には妹がネット上でのいじめを苦に自殺し、とうとう家族はいなくなってしまった。
一年間に三度の葬式。涙も枯れ果て、死に慣れてしまった自分が怖いとさえ思える。
家族がいなくなった後、私はすぐに実家も引き払った。親族たちは反対し、口々に思い出の詰まった家を手放すのかと聞かれたが、思い出が詰まっているからこそもう住む気にはなれなかった。
思い出だけの虚しい家。帰ることが苦痛でしかなく、引き払う以外の選択肢など私にはなかった。あの温かい陽だまりのような日々は夢の中でさえ帰っては来ない。
「ただいま……」
玄関のドアを開ける。住み始めて半年。帰宅を待つ人間などいないのに、ついドアを開ける時に言葉が出てしまう。1LDKの小さな部屋だが、一人暮らしにはちょうどよかった。
「はぁ。疲れた」
ブーツのまま部屋に上がるとベッドの縁に腰を下ろす。そして紐をほどくことなく力任せにブーツを脱ぐと放り投げた。ブーツは弧を描きながらカタンと乾いた音を立てて床に落ちる。
視線を、何もない白い天井から木製の机に移す。パソコン用に購入した机は今や金魚の水槽置き場に変わり果てていた。
この水槽は実家から持ってきた数少ないものだ。
赤よりネーブルオレンジ色に近い金魚たちが水槽の中で尾ひれを広げながらハラヒラと舞うように優雅に泳いでいる。この金魚は妹が飼っていたもので、唯一遺書の中で触れられていたものだ。
「……人の気も知らないで、あんたたちはいいわね」
ベッドに倒れ込むように横になると、視界がだんだんぼやけてきた。疲労感も体温も冷たいベッドに広がっていくような気がした。
『姉さん』
まるで耳元で囁かれたように声が聞こえた。私はすぐにここが夢の中だと理解する。誰もいない台所に夕飯の用意がされている。私の好きなオムライス。何度も繰り返すあの日……。私は助けられないと分かってはいても、急ぎ足で妹の部屋に向かった。ドアノブに手をかける。しかし持つ手が震え、どうしても引くことが出来ない。
「しずか」
ドアの向こうの光景が分かるからこそ、開けれない。中にはしずかがいる。パソコンに遺書を残し、冷たくなって。
「嫌だ、しずか!」
助けて。それは私をなのか、しずかをなのか。
悪夢の中に玄関のチャイムの音が入ってくる。携帯もすぐ横でせわしなく鳴っているようだ。ぼんやりとする意識の端を掴みながら、私は携帯をとった。
「おーいしずく、寝てるのか? 居るなら開けてくれよ」
聞きなれた男の、間の抜けた声。思考は急激に動き出し、携帯を片手に辺りを見渡す。どうやら、私は布団もかけずに小一時間ほど寝ていたようだ。
「また夢。ううん、なんでもない。今開けるから」
肩より長く伸びた栗色の髪をかき上げると、こたつの上に携帯を置き素足のまま玄関に向かった。温かくなりかけた体に床の冷たさが堪える。足がつるつるとした氷の上を歩いているかのようで、思わずつま先立ちになっていた。
玄関を開けるといつもの顔がそこにあった。肉付きのよい体に少しむちっとしたスーツを身につけている。身長は私より頭一つ半くらい高く180センチはあるだろうか。一見するとどこかチンピラのように目つきが悪いものの、これでもれっきとした警察官であり、今の私にとってかけがえのない支えだ。
「誠一郎、今日来るなんて言ってなかったじゃん」
「そーだっけ? うまそうなスイーツがあったから帰りに買ってきたんだ」
にこにことした笑みを見せながら、まるで戦利品のようにケーキの箱を高々と掲げた。しかし、その反対の手にはコンビニの袋いっぱいにビールが入っている。
「そんなこと言って、またうちで飲んでそのまま出勤する気でしょ」
「バレたか……。そう怒るなって。俺は合鍵もらえるの楽しみにしてるんだけどなぁ」
「合鍵渡したら、家、帰らないでしょ」
「まぁ、そうかもしれないが」
「もう」
職場から私の家が近いことをいいことに、ほぼ毎日のように誠一郎は入り浸っているのだ。ただ彼がいることで、悪夢にうなされることが少なくなったのも確かで、本当に必要としているのは私なのかもしれない。
「そう怒らずに、寒いから入れてくれよ」
「帰ってきたばっかでまた片付けてないからね」
知ってると言わんばかり笑顔を返され、部屋の中に入れる。
誠一郎は勝手知ったるとばかりに部屋に上がり込むと、ストーブをつけた。
「おいおい、いい加減靴は玄関で脱げよ」
こたつに入ろうとした誠一郎は私のブーツを見るなり、ぶつぶつと文句を言いながら玄関に片付けに行く。
「玄関で脱ぐには座らなきゃいけないし、寒いんだもん」
「だからってお前なぁ。クリスマスプレゼント、スリッパにするぞ」
「えー」
私は台所からグラスを二個取ると、そのまま彼のいるこたつにすべり込んだ。
「せめてバックとかが欲しいんですけど」
「俺は安月給なんだから、高いのは勘弁してくれよ」
「分かってるけど、誠一郎って飲み代とかに使いすぎなんじゃないの?」
「ここでしか金は使ってないんだけどな」
誠一郎はよれよれになった黒革の財布を取り出し、中を覗いていた。
「コンビニ禁止ね、高いから。ご飯だって、先に言っておいてくれたら作るから」
「仕事、慣れたのか?」
財布をしまいながら、急に真剣な顔つきになる。私はぷいっと視線を外すと、コンビニ袋からビールを取り出し注いだ。泡がまるで蓋のようにコップにのしかかる。部屋の空気までも、私たちにのしかかっているように思えた。
仕事は短大を卒業した後、妹と同じ職種についた。しかし事あるごとにあの子を思い出すのが苦痛で、転職したのだ。
私はこの空気に耐え切れずテレビをつけた。テレビには幸せそうにイルミネーションを見ている人たちが映しだされている。ニュースは目前に迫ったクリスマスとお正月商戦の話題ばかりだ。
テレビからも視線を外し、水曜の横に置かれた写真立てに眼をやる。私としずかが肩を組んで満面の笑みを浮かべている。
「まだ……、そうだよな」
誠一郎はすぐに私の視線の先にあるものに気づく。
「引きずってはいないよ。仕事も今の現状にも慣れてはきたんだもん。だけどね。働けば働くほど、辛いこともあってさ。向いてないのかな」
家族が誰もいなくなった後、少しでも誰かといたくて、誰かの支えに少しでもなれればと思って病院で勤務し始めた。
「嫌なことがあったのか?」
「病院って、治したい人ばかりが来るわけじゃないんだよね。特にうちのような大きな病院は自殺に失敗して運ばれて来て、でもまだ死にたいって」
自然にため息がこぼれ落ちる。ビールを口にしたせいか、自分でも今日は饒舌だと思う。
「自殺者はほんとに増えていってるし、逆に死にたくないと口にした病気の患者さんが数日後になくなってたり。毎日毎日そんな人たちばっかりで」
やりきれない。そんな思いだけが心に平積みされていく。
「考えるのは大切だが、考えすぎるものダメだぞ」
座ったまま誠一郎は近づいてきて、私を包み?こむように後ろに座った。それに甘えるように、私ももたれかかる。
「人間、生きていればいろいろあるさ。俺たちだってそうだろ。生きていることが辛くなって、どうしようもなくなって」
「そうだね……」
「でも、生きていればどうにかなるさ。俺たちのように」
にかっと笑った誠一郎のその顔は、どこか悲し気にも感じる。同じ傷があるからこそ、分かり合える痛み。心地いいのに、どこか距離のあるようにも感じる。
基本的に誠一郎はあまり過去を話したがらなかった。だから、私も聞かない。私だって、聞かれて欲しくないこともあるから。昔、酔った時に一度だけ、ほつりと話してくれたことは、大切だった親友が自分をかばって死んでしまったこと。その親友の夢だった警察官になったことだけ。その時、どんな思いで親友の夢を継いだのか。どうしてそんなことになってしまったのか。あえて傷をえぐるような必要性はないのだから、言わない限りは聞かない方がいいと思ってしまう。
「どこにいるからじゃなくてって、うん?」
ビールを片手に立ち上がった誠一郎が、水槽を目の前に首をかしげている。私もつられるように立ち上がると、水槽の前に来た。
「どうしたの?」
水槽の中は数匹の金魚たちが相変わらす泳いでいる。しかし、金魚の尾ひれによって何かキラキラと光るものが水槽の中を舞っている。それはまるで粉雪のようでもあり、スノードームの中のキラキラしたホログラムのような何か。
「嘘でしょ」
水槽のオブジェの奥に、動かなくなった金魚が見えた。突き回されたのか、無残にも鱗が剥がれ落ち、食べられたのか体の一部がなく、光を写さない眼がこちらを見つめていた。
心臓の音が早い。手指の感覚がなくなるくらい、すっと血の気が引くのに、頭はのぼせるほどの熱を帯び怒りでクラクラする。怒りと悲しみと、それ以上にその目が私を苦しくさせる。
「なんで、どうして?また、私」
「違うだろ。これは、しずかとは違うだろ」
覆い隠すように、水槽の前に立ち誠一郎が私を抱きしめる。頭ではわかっている。これはしずかとは違うと。でも本当に違う?生存競争に敗れて、私はその傷つく様にまた気づいてあげれなかったとするならば、同じじゃないの。また私は気づけなかった。救えなかった。何も変わらない。結局何も……。
涙と共に堪えきれないものがあふれ出す。しずかに託された子すら、私は救えなかった。
「同じだよ……だって、気づいてあげれなかったんだよ。しずかの時と何が違うの?」
「しずかの時も、ちゃんと毎日話を聞いて寄り添ってないがしろにしてたわけではないだろ。この金魚だって、毎日世話をして目をかけていただろ。気づいてたのに、目を背けていたわけでもないだろ。金魚も病死した後に突かれただけかもしれない」
「そうかもしれないけど、だけど」
「しずかの手紙には死にゆく後悔と、しずくへの謝罪しかなかっただろ」
しずかの手紙には恨みではなく、死しか選べない自分の弱さとそれが分かっていても死にゆく後悔と、私へのごめんさいがびっしりと書かれていた。そして、自分のせいで悲しまないで欲しいと切に願うと。いつだって、しずかは自分の思いより他者の思いを大切にしてた。
悲しかったことや、どうしようもなかったことを忘れよう、忘れようとするうちに、いつしか本当に大事な忘れてはいけなかった思いまで、生温かい記憶の底に沈んでしまう。忘れてはいけなかったはずなのに……。でも、悲しみや辛かったあの頃を少しでも忘れられるのならば、それは悪いことだけではないのだと思う。
「うん、そうだね」
「泣きたいなら、ずっとこうしていてやるよ」
誠一郎の胸に埋めた顔は、温かく、全身にその温かさが行き渡るような気がした。
「ありがとう」
「いいさ。これぐらい。俺もしずくに救われているとこもあるから」
「あとで、埋葬したい」
「ああ。付き合うよ」
重たくのしかかっていたビールの泡はいつの間にか消えていた。重苦しい時間と共に。テレビからは相変わらずにぎやかな音が流れている。いつの日か、色あせた写真のようを懐かしみ、ただ愛おしくなる日が来るまでもう少し頑張ってみよう。今は一人ではないから。