序――「呪術とは何だと思う?」
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「呪術とは何だと思う?」
あまりに唐突な問いに身体が固まった。
特殊講義棟の端の端、物置と化した旧教室ばかりの埃っぽい廊下の先にある部室。ノックをして……しかし返事がないので引き戸を開けて。
その鼻先に飛び込んできたのが、その言葉だった。
「えっと……」
言葉に詰まりながら、僕は視線をさ迷わせる。
部屋の中は意外と片付いていて、明るい雰囲気だった。普通教室の二分の一ほどの広さで、本棚と机、椅子が並び、開け放たれた水色のカーテンを春風が揺らしている。
部活動の怪体な名前からして、怪しげな物品が山と積まれて暗幕カーテンが下ろされた、おどろおどろしい空気の場所かと想像していたのだが、そんなことはなかったらしい。
とはいえ、そこでひとり読書する少女から投げかけられた問いは、表に掲げている「呪術部」の名に恥じぬ如何わしさに溢れていた。
僕はひとつ息を呑み込んで、
「……呪い、とか?」
パタン、と少女が本を閉じた。
そして顔を上げ、初めてこちらを見る。黒い双つの瞳が水晶のように澄んでいた。
制服のリボンの色から、ひとつ歳上の二年生だということがわかる。
「なるほど」
彼女は机上に分厚い本を置くと、向かいの席に掌を向ける。
「まあ、座りたまえ」
曖昧な返事をして、僕はようやく部屋の中へと立ち入った。
後ろ手で戸を閉め、ぐるりと室内を横断する。青空がのぞく窓を背に、促された椅子へと腰を下ろす。
少女が両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた。
「さて、呪いと言ったが……」
片耳に掛けられていた黒髪が、はらりと落ちた。
大きな瞳が、ジッとこちらをのぞき込む。
「呪術と聞いて、どんなものを想像したかな」
美人だな……と瞬間だけ呆けてから、慌てて答えた。
「それは、あの、やっぱり丑の刻参りとか……」
「ふむ」
視線は依然と見つめてきており、なんだかドギマギとしてくる。そして、どうやらまだ続きを求めているようだ。
「……その、他人の不幸や災いを願うような……もの、でしょうか」
語尾が疑問調になってしまった。
少女は瞳を閉じると、小さく頷いた。
「なるほど」
再びこちらを見やり、
「ところで君は、文化人類学には明るいかね」
「えっと……」
戸惑った声を出す。話題が飛躍していないだろうか。
「人文科学……人間の営みや本性を研究する学問のひとつだよ。その文化人類学では、西欧の伝承に出てくるような魔法や魔術、それをmagicと呼ぶ」
「はあ」
「日本のサブカルチャーでも魔法は登場するだろう。そこでは人を陥れるようなものを黒魔術、人を癒すようなものを白魔術という風に区分することがあるが、知っているかい」
曖昧に頷いた。
アニメや漫画、コンピュータゲームなどの中では確かに邪悪な魔法を黒魔術と呼び、怪我を治す回復魔法などを白魔術と呼ぶことがある。
というよりも、普通に魔法は英語でmagicだろう。当たり前の事ではないのか。
「つまりmagicには、善い作用と悪い作用の二つの側面があるわけだ」
先輩はそこでひとつ間を空けて、
「だが、こと文化人類学において、magicは魔法とは訳さない」
では、なんと呼ぶというのだ。
僕が疑問符を浮かべたところで、彼女は呟いた。
「呪術だよ」
少女がにやりと口角を上げる。
「日本でも同じなのさ。考えてみたまえ。人に災いするノロイも、人を助けるマジナイも、どちらも同じく『呪』という漢字を当てている」
「……なるほど?」
わかったような、わかっていないような感覚で首を傾げる。
まとめると彼女が言いたいことは、西欧の魔法のように、日本においても呪いの一側面だけが「呪術」ではない……ということだろうか?
瞳を微かに歪ませて、少女が三度問いかけてきた。
「改めて問いたいのだが、君は呪術という物は何だと思っている? 昔の人の、単なる迷信だと思うかい」
「それは、まあ……」
素直にうなずく。
「こういう部活にいる先輩に言うのもなんですけど、呪術だなんてものは科学が発展する以前の、大昔の間違った知識観念じゃないですか。正直なところ、この科学の時代にいまさらオカルトなぞを信じる人の気が知れません」
自分では理解できないからこそ、僕はこんな怪しげな場所へと態々頼りにやってきたのだ。
「……ふむ、古典的な文化進化主義かな」
少女は首を振った。
「間違っているなどと一方的に断ずるのは嫌いでね、ただ……ひとつ、新しい視点を君に授けよう」
言って、唐突に身を乗り出した。
広くもない机の上を、彼女の柔そうな上体が迫りくる。
「――いいかい」と囁くその顔は、ともすれば息がかかりそうなほどに近い。
秘密を告げるような声音で、
「呪術とはね、非科学的だと非難されるべき観念でもなければ……むしろ現代を生きる我々にとってこそ、顧みるべき重要な知的システムなのだ」
そうして、するりと身体を戻す。
改めてこちらを見た少女の目尻が、少し優しくなる。
「よしよし、興味が湧いてきたようだね」
いや、多分それは別のものに対する興味です……などとは言えなかった。
「もう少し語ろうか。例えば……そうだな。君はドラクエを知っているね?」
「はい」
いまや押しも押されもせぬ国民的RPGである。
「ドラクエでは、モンスターを倒すとドロップアイテムが出るね。どんなものを思い浮かべる?」
「お金とか……あとは、モンスターの魔石とか、皮とかの素材でしょうか」
「うむ、そのあたりだろう」
少女はうなずき、
「最近ね、思い至ってネット小説など読んでみたのだ」
また話題が飛躍したぞと思ったが、今度は素直に相槌を打った。
どうも彼女の論調というのは、あっちこっちに跳びながらまとめていくものらしい。
ひとまず黙って聞いておこう。
「剣と魔法にモンスターの、いわゆる中世風ファンタジーというジャンルが随分と人気なようだが……。まあ、これこそがドラクエなどのコンピュータRPGの影響なんだろうけどね」
ちらりとこちらを流し見る。
「これらの作品には、敵役がいるね。人を襲うモンスターに、邪悪な魔術を扱う魔人。そしてそれらを束ねる魔王であったりと、作品によって様々だ。……しかし、これらに必ずといっていいほどに共通するファクターがある。何だかわかるかい?」
少し考えてから、首を振る。
彼女は指を一本立てた。
「モンスターの中には魔石がある――これだ」
そして、がたりと椅子から立ち上がった。
「モンスターの中には魔石がある。魔人の中には魔石がある。人ならざる力を行使するモノには、人にはない異物的な器官がある。そういう設定を、先進国だと自負するこれほど多くの人々が、いとも容易く受容している。これはとても興味深い」
語りながら部室を歩き、少女は本棚から一冊の地図帳を抜き取った。
「かつて、人類学者エヴァンズ=プリチャードは、アフリカ大陸中部に住むザンデ人の調査をするなかで、彼らの社会における呪術、信仰、政治……文化の形態を解き明かした」
そう言って、ある頁を見開きにして机の上に広げる。
アフリカ大陸のちょうど中央、南スーダン共和国から中央アフリカ共和国の辺りを囲むようにして少女の指が滑る。
「この辺りだ」
僕が頷くのを確認して、彼女は椅子へと座りなおした。
「それまでの文化人類学では、呪術を単純に善い性質のwhite magic、悪い性質のblack magic……白い呪術と黒い呪術という二つに大別していたが、アザンデの分析をしたE=Pによって、そこに新たにwitchcraftとsorcery、すなわち妖術、邪術という分類が提唱された」
「妖術と、邪術ですか……」
「邪術のほうは従来の黒い呪術とそう変わりないがね、注目すべきなのは妖術という分類だった。アザンデの社会において、日常のありとあらゆる不幸は妖術によるものだと説明されるが、この妖術を操る妖術師は、必ずしも自覚的な犯人ではないのだよ」
すぐには呑み込めずに首を傾げれば、先輩は嬉しそうに続ける。
「妖術師が誰かを呪おうとせずとも、彼が誰かに憎しみを抱いたときに、妖術は自動的に発動するんだ」
「……迷惑な話ですね」
「そして彼らを見分ける方法について、ザンデ人はこう述べる。妖術師の腹の中には何かしら常人とは異なる器官、すなわち妖物が存在するというんだ。解剖学的にはね、それは腸内に出来た腫瘍だったりするんだろうが……」
彼女の黒い瞳が、ジッとこちらをのぞき込む。
「なんにしても彼らはこう考える。人ならざる力を行使する者の中には、人ならざる器官が存在するのだ」
思わず息を呑んだ。
コロコロと転がっていた話題が――繋がった。
「よく似た事例としては、日本の憑き物筋があるな。彼らの周囲の人間は、日常の不幸はすべて憑き物による悪さだと考える。憑き物筋の家の人間がふと妬ましいと思っただけで、彼らに憑いている犬やら狐やら蛇やらが、主人の願いを叶えようとその誰かを障りに飛んで行く。人ならざる力によって成功を収める彼らには、当然のように人ならざる器官、憑き物がその血筋に宿っている」
憑き物筋……というものは僕も聞いたことがあった。いわゆる犬神筋だとか、そういうものだ。
少女は一息にそこまで喋ったが、ふと思いついたようにして更に続ける。
「あるいは生霊もそうだな」
「……生霊?」
「『源氏物語』で六条御息所の生霊が光源氏の妻、葵の上を祟ったエピソードなんかは有名だろう。これもまさしく、本人に自覚なくとも、ただ思っただけで他人を呪ってしまう性質のことだ」
彼女は、口元を隠すようにしてゆっくりと両掌を重ねた。
「不幸の因果の説明として、人間は誰かからの呪い心を感じ取る。そしてそれら超常的能力を行使する人間に対して、古来の日本人は憑き物や生霊を持っていると考え、ザンデ人は妖物を持っていると考え、そして現代、呪術など迷信だと信じ切っているはずの人々、科学の光に照らされた、先進的なはずの人々が、なんら疑問を挟むことなく怪物には魔石があると考える」
気がつけば、口早に語る少女の半身がまた乗り出すようにしてこちらへと傾いてきている。
その大きな瞳に、吸い込まれるようにして視線が集う。
「これらの符号はね、けして偶然じゃない。すべて、人間存在の根幹で連なっている事象なのだ」
言葉に熱が籠っていく。その腰は最早浮いていた。
「呪術というシステムはそこに根付いている。太古の昔から現在まで、人類が時空を貫いて保持する生来の宇宙観、そこで呪術は稼働しているわけなのさ」
先輩の顔が、熱い吐息が、再びにすぐそこまで近づいてくる。
なぜだか体は動かない。迫りくる彼女から目が離せず、わけもわからずに唯々動悸だけが早まっていく。
そして、――ばさり。
少女は一転、グイと身を戻すと両腕を勢い左右に広げた。
「――我々呪術部はつまり、そういう人間の本質的な精神、思考の構造を追究しようと活動している」
呆けたように固まっている僕を見下ろして、彼女は悪戯げに微笑んだ。
「さて。一頻りに講釈を垂れたところで、本題に入ろうか。君はどういう用向きで訪問してきたのかな。……いや、それよりも自己紹介が先か」
そう言い、己の胸に手を当てる。
「私は神野。神野あかりという。ここの部長だ。君は?」
聞かれ、そこでようやく金縛りから解放される。僕は大きく息を吐いた。
……なんだか、どっと疲れてしまった。
だけれど、ともあれようやく本題に入れる。気持ちを入れ替えなきゃならない。
やや置いて、すっと椅子の上で背筋を伸ばす。
「稲生、稲生忠です」
少女は頷き、改めて言った。
「それでは稲生君、聞かせてくれ」
その口の端がにやりと不敵に持ち上がる。
「――君が、何を求めて来たのかを」
・古典的な文化進化主義
西欧を中心地として、人類の文化はより高度なものに順次更新されていっているという主義思想。『金枝篇』の著者として有名なジェームズ・G・フレーザーはこの視座に立ち、人類社会はまず間違った知識観念たる呪術が先行して発生し、それを否定する形で次に宗教が生まれ、更にそれを否定する形で科学が生まれたと主張した。
しかし現代の都市部でも呪術や宗教は実践されているし、むしろ近現代は資本主義経済の高度成長と共にオカルトが隆盛しているという指摘もある(オカルト・エコノミー論)。
・アザンデ(ザンデ人)
エドワード・E・エヴァンズ=プリチャード(E=P)が研究したことで有名な民族(『アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術』)。彼らの社会では、妖術によって不幸が起こり、呪術によって復讐し、その復讐は託宣によって証明される(妖術・呪術・託宣の三角形)。そしてそれらの意味付けの内から最も望ましいものを選択する。
・それまでの文化人類学では~(白い呪術、黒い呪術という分類)
より正確に述べるなら、他にも先述のフレーザーによる「類感呪術(模倣呪術)」と「感染呪術」に別ける分類も有名だった。
・人ならざる力を行使するものには、人ならざる器官がある
ザンデ人の妖物と日本人の憑霊、コンピュータRPGやなろう小説における魔石を並べて語るところから含めて作者の自論。論文では書く予定がないのでここで書き散らす。
・呪い心
この表現は小松和彦の著作から。
・科学の光に照らされた
啓蒙主義。
・神野あかり
神ン野悪五郎。主義主張はたぶん作者の分身。話題が飛躍しがちなのは勝手ながら南方熊楠をイメージしている(偏見)。
・稲生忠
稲生平太郎。イメージはラノベ的な「普通の男子高校生」。