第三話 命の売買
「レイ」
しばらく無言で荷馬車を走らせて、ニジャルの部族が見えなくなってから、俺は隣に座るレイを呼んだ。
「は、はい」
奴隷としてずっと生きてきたからか、レイは常にビクビクとしている雰囲気であった。
まあ、あのニジャルの奥方の怒り方から言うと、些細なことでもすぐに叱られていたのだろう。
「おまえはこれから俺と一緒に旅をするが、俺はおまえの新しい主人ではない。確かにおまえの体には俺の名前を刻んだが、おまえは俺の商品だ。そして、俺が見つける新しいご主人様におまえを売る」
「売る?」
「おまえは金というものを見たことはないか?」
レイはかぶりを振った。
「まあ、そうだろうな」
基本的に、ニジャルの部族のような遊牧民たちは、自給自足の生活をしていて、部族の中での生活では「金で物を買う」ということはしていない。
しかし、遊牧民から羊毛や羊肉を買い取ってくれる専門の旅商人がいて、貨幣を手にすることはある。それらの貨幣は、普段の遊牧生活では手に入れることができない物、例えば、砂糖や塩などの調味料、戦士たちの武具や馬具、生活必需品の雑貨類を別の旅商人から買う資金にするためだが、そんな貨幣は族長が管理をしていて、奴隷のレイが目にすることはなかったはずだ。
俺は手綱を操りながら、ベルトにぶらさげている小銭袋から銅貨一枚を取り出し、レイに差し出した。
「持ってみろ」
左右の手を合わせて上向けたレイの手のひらに銅貨を置いた。
レイは銅貨を顔に近づけ、銅貨に彫られている西の国の先代の皇妃の肖像をマジマジと見つめて、「きれいです」と呟いた。
「そうだろう。でもな、金の価値は貨幣そのものの美しさではない。何でも手に入れることができることだ」
「何でも?」
「そうだ。人の命もな」
奴隷売買などは人の命を売買しているに等しい。つまり、俺はレイの命を売ろうとしているのだ。
この大陸の四つの帝国はそれぞれ貨幣を発行しているが、大昔から旅商人が往来して盛んに貿易を行っていたことから、その交換価値、すなわち両替相場は、ほぼ等価で固定されている。例えば、西の国の金貨一枚は、他の国の金貨一枚と両替できる。それはすなわち、四つの国の物価はほぼ同じということだ。例外は各地の特産品だ。産地では安いがそれを産出していない国では高い。そこで利益を得ているのが、われわれ旅商人なのだ。
俺が南の国で仕入れて、今、西の国に運んでいる乾燥果物は、南の国では庶民の子供のおやつとして売られているが、西の国では贅沢な嗜好品として人気が高く、南の国の仕入れ値の十倍以上の値で売れる。
そんな乾燥果物を、レイを仕入れるために、荷台の半分という量をニジャルに「支払った」のだ。南の国での仕入れ値でいうと大した金額ではないが、西の国での売値、すなわち、それで得られたはずの利益はけっこうな金額になる。レイはそれ以上の金額で売らないと実質的に損害を被ることになるのだ。
レイは、俺から渡された銅貨を手のひらの上に載せたまま、俺の話に耳を傾けていた。
「物を相手に渡し、相手から金を受け取ることを『売る』と言い、その逆を『買う』と言う。今、おまえが持っている銅貨一枚で一食分のパンが買える。十枚もあれば肉や魚を使った少し豪華な飯が三食、食える。銅貨が百枚集まれば銀貨となり、銀貨が百枚集まれば金貨となる。つまり金貨一枚で千日分の食事がまかなえる勘定となる。レイ、後ろを見ろ」
レイは素直に振り向いて荷台を見た。
「この荷台には、はるばる南の国から運んできた乾燥果物を積んでいる。おまえを仕入れるために半分はニジャルにくれてやったが、残りの半分でも、これを西の国で売り切ると銀貨七十枚ほどが手に入る。経費を差し引いて、銀貨五十枚は儲けることができる。おまえを仕入れなかったら、その倍、つまり銀貨百枚、すなわち金貨一枚の儲けが出るところだったんだ」
「百……、千……?」
レイが不思議そうな顔をして首をかしげた。指を使えば何とか数えることができる十の位までしか分からないのであろう。
「分からなければそれでも良い。おまえが数えることができないくらいの大きな数だということが分かれば良い」
銅貨すら見たことがないレイに「銀貨」や「金貨」と言っても分からないだろうし、そもそも奴隷のレイが算術を習っているはずがなかった。
レイは、俺の話の半分以上は理解できていないだろうが、レイ自身が金に代わる商品だということを、最初にしっかりと自覚させておくことが必要だと考えた俺は、話を続けた。
「つまり、おまえは銀貨五十枚と引き替えに手に入れたんだ。だから、おまえを最低でも銀貨五十枚以上の値段で売らなければ赤字だ。赤字とは、俺が損をしてしまうということだ」
「……」
「もっとも、俺は、おまえをもっと高く買ってくれる奴に売る。おまえなら銀貨どころか、金貨を十枚、いや、二十枚出しても買いたいという奴もいるだろう。そんな買い主が見つかるまでは、おまえは俺と一緒に旅をする。良いな?」
レイは、今まで奴隷として育てられており、自分がどうされようと何も言えないことは分かっているはずで、俺の細かい話は理解できていなくても、「はい」という返事はすぐに返ってきた。
「だから、いつまで俺と旅をすることになるのか分からないが、一緒に旅をしている間は、おまえにもいろんなことを手伝ってもらうぞ」
「はい」
「だが、おまえができそうな仕事を選んでしてもらうつもりだ。心配するな」
「は、はい」
少しだけレイが微笑んだ。
「これから西の国に向かう」
「西の国?」
「ずっとこの高原で育ったおまえは知らないだろうが、この高原は四つの国に囲まれている。そのうち西にある国だ」
「あ、あの」
「何だ? 遠慮せずに何でも訊け」
「国って、何ですか?」
「……そうだな。ここよりも人が多くて、建物が建ち並んでいる所だ」
「建物って、何ですか?」
「……」
この高原には、国も街も、そもそも建物すらない。
こりゃあ、金持ちであるはずの将来のご主人様との会話が支障なくできる程度には教育する必要があるな。
まあ、しばらく側に置いておくだけで、自然と身についてくるだろうが。
荷馬車は見渡す限りの草原を駆けて行った。
俺たちが今、走っている十字路高原は、地図で見ると細長い「+」字形であるが、実際には、一方の海岸線からもう一方の海岸線まで荷馬車で走っても丸三日掛かるほど幅があり、今も、四方、見渡す限りの草原が広がっている。
また、「高原」と名付けられているとおり、全体的に標高は高く、海岸線はどこも切り立った崖だが、その地形は平坦で、十字に交わったその中心部を除き、何日走っても景色が変わらない草原の中を走ることになる。
そんな、ずっと変わらない景色と、ゴトゴトという単調な車輪の音と揺れで、眠気に誘われる。俺だって人が運転している馬車に乗っていれば、コーネリアと同じく、居眠りしているかもしれない。
俺の隣に座っているレイも、ときどき首ががくんと下がることがあったが、すぐに姿勢を正して、大きく目を開けた。
「眠ければ眠っても良いぞ」
俺は優しく言ったつもりだったが、レイは叱られたのかと思ったのか、すぐに「ごめんなさい!」と俺に頭を下げた。
「なぜ、謝る?」
「なぜって……。ギースさんが起きているのに、私が眠ってしまって……」
レイは、申し訳ないという表情で目を伏せた。
「おまえに起きていてもらう必要はない。後ろを見てみろ」
レイが振り向いた先、荷馬車の後ろには、こくりこくりと舟を漕ぐコーネリアの後ろ姿が見えた。
「コーネリアもいつも居眠りしている。おまえが遠慮する必要はない。してもらいたい用事がある時には叩き起こすから、それまでは眠ってても良いぞ」
ニジャルの部族では、移動時には歩いていただろうし、牧草地での滞在時にはいろいろな雑用を言いつけられて、眠る暇などなかったはずで、居眠りすることは叱られることという刷り込みがされているのかもしれない。
「わ、分かりました」
「それと、俺のことは、ギースと呼び捨てで良い。コーネリアのこともだ。俺もおまえのことはレイと呼ぶ。一緒に旅をしている間は、いろんなことを協力しあわなければならない。この少ない人数で旅を続けるためには、他人行儀ではやっていけないからな」
それから、しばらく無言で荷馬車を走らせた。
後ろの席のコーネリアはずっと爆睡していたが、レイはコクリコクリとし始めると、すぐにハッと頭を上げ、前を見つめていた。
まあ、居眠りに罪悪感を覚えることは、将来のご主人様にも好印象を与えるだろう。何度も「眠っても良いぞ」と言うまでもあるまい。
太陽が頭の上から照りだした頃、コーネリアが背伸びをして、長い昼寝から目覚めたのが分かった。
それにしても、あいつの腹時計は正確だ。
「ギース! そろそろお昼にしようよ!」
後ろの席から大きな声でコーネリアが言った。
「そうだな」
俺は、手綱を引いて、荷馬車を止めた。
4つの国における貨幣制度は、金貨1枚=銀貨100枚=銅貨10000枚で統一されており、銅貨1枚は現在の貨幣価値で約100円と設定しています。
したがって、銀貨1枚=1万円、金貨1枚=100万円に相当することになります。