第二話 子連れ旅の始まり
ずっと旅をしている遊牧民には、当然のごとく、毎日入浴する習慣はなく、泉があれば水浴びをするくらいだ。
そんな遊牧民の奴隷として育てられたこの少女は、生まれてからこのかた、水浴びすらしたことがないのかもしれない。
長い金髪はボサボサでほこりまみれだし、顔にもところどころ泥のような黒ずみが付いている。
しかし、そんな状態であるにもかかわらず、緑色の大きな瞳で俺を見つめるレイからは、非の打ち所がない可愛さや可憐さが隠しようもなく出ていて、汚れを落とすと、きっと眩しいばかりに輝くはずだ。
「ニジャル。俺はレイを『育ててくれ』と言ったよな?」
俺は、邪な心を顔に出さないように気をつけながら、ニジャルに尋ねた。
「ああ」
「つまり、おまえにレイをくれてやったわけではない。そうだな?」
「うん? どういうことだ?」
「この娘は俺のものだ」
「……」
「今日、レイは返してもらう。もちろん、今まで育ててもらったお礼はする。そうだな。荷台半分の乾燥果物でどうだ?」
この部族の女性全員が毎日食べても食べきるのに一か月は掛かるほどの量だ。
「そうしようよ、ニジャル! レイはどんくさいし、人の半分の働きしかできないからさあ!」
この条件で、奥方は簡単に陥落した。
個人的にレイをそばに置いておきたい事情がない以上、ニジャルも反対できないはずだ。
「分かった。特に俺が反対する理由はない。しかし、相手はまだ子どもだ。妾にするには、まだ」
「おい! 変な誤解をするんじゃねえよ! 俺には少女趣味はねえから! それにそもそも俺には女房もいないんだから、妾って何だよ! この娘は商品として仕入れるのさ」
「そういうことか。分かった。しかし、ギース」
「何だ?」
「レイは素直で真面目な子だ。幸せになれるようにしてやってくれ」
ニジャルは、リーダーたる資質を持ち、かつ、情にもろい男だが猪人族だ。他種族である人族の少女にそんなことを言うのは少し意外であった。
「心配するな」という俺の返事を聞いて、ニジャルが懐から刻印器を取り出した。
手にすっぽりと収まるサイズで長方形の白い板のように見えるそれは、特殊なインクで奴隷の体にご主人様の名前を刻むものだ。
過去、奴隷にはご主人様の名を入れ墨で入れていたが、ご主人様が変わった場合、その名を容易に変更できるようにと、刻印器が発明されたのだ。
「ギースは刻印器を持っているのか?」
「あいにくと奴隷を持つ身分じゃなかったのでな」
「分かった。では、ここに自分の名前を書いてくれ。俺の名前に上書きする」
俺はニジャルが差し出した刻印器の白い面に、ニジャルから借りた専用の小さなペンで自分の名前を書いた。
「レイ、こっちにおいで」
レイがニジャルの隣に立つと、ニジャルは刻印器の裏側をレイの左手の甲に押しつけた。
「少し痛いが我慢しろ」
ニジャルが刻印器の側面にあるスイッチらしきものを押すと、「痛い!」とレイが一瞬、顔をしかめたが、痛みはすぐに消えたようで、「あれっ?」という表情のレイの左手からニジャルが刻印器をはずした。
レイの左手の甲にあったニジャルの名前が消え、その代わりに俺の筆跡で俺の名前が青く刻まれていた。
夕餉が終わると、それぞれの家族ごとにまとまって、毛布にくるまった。
俺もニジャルたちから離れると、レイを連れて、先に荷馬車の近くに戻っていたコーネリアの元に行った。
「コーネリア。新しい連れだ」
「えっ? ……ギース、今夜は、アタシ、少し離れて寝ようか?」
「だから違う! こいつは商品として連れて行くんだ」
「ああ、そういうこと」
この大陸では、四つの国はもちろん、十字路高原の遊牧民の世界にも、その全域で奴隷制度がある。
賃金を払うことなく食料を与えるだけで朝から夜まで働かせるために。
若い女だと、ご主人様の夜伽をさせるためだけに。
その生殺与奪もご主人様の心一つに委ねられた存在。それが奴隷だ。
もともとは、現在の四つの国に統一される過程で起きた、それぞれの“団子”の中の戦争における敗者の一族が奴隷にされたのが始まりだが、現在でも犯罪者とその一族が奴隷にされることがあり、奴隷は絶え間なく世の中に供給されている。そして、それに伴って奴隷売買も盛んに行われている。
レイのような身寄りのない子どもも奴隷階級にされることが多い。そもそも、レイは捨て子だった。そして、ニジャルの部族は、全員、猪人族で、そんな部族の中に人族のレイを部族民として入れることは部族のまとまりに亀裂を入れることになりかねない。ニジャルがレイを奴隷として扱っていたことは、何ら責められることではないのだ。
「西の国に着いたら、すぐに売るの?」
「すぐに売れれば良いが、もう少し育ててからでも良いだろう。そうすれば、ニジャルの奥方に差し出した、荷台半分の乾燥果物で儲かるはずだった金の、そうさな、百倍は堅いだろうな」
女性の奴隷は、メイドのように家事をさせることが多いが、若い女性の場合には、その器量の善し悪しで、価格はいくらでもふっかけることができる。この世には愛人を、それもとびきり美人の愛人を持ちたいという輩は山ほどいる。俺だって贅沢ができる身分ならそうしたいと思う。
だが、レイは少々若すぎる。まだ青くて固い蕾だ。熟させることで、その値段は何倍にも膨らむだろう。
もっとも、今のレイが良いという少女趣味の金持ちもいるはずだ。
レイを高く買ってくれるのであれば、その目的を俺が気にする必要はないということだ。
レイは、突然、ニジャルの部族から引き剥がされて、何が何やらよく分からずに、ぽかんとした顔で俺とコーネリアを交互に見つめていた。
「俺は旅商人をしているギースという。こっちはコーネリアだ」
「レイです」
素直にぺこりとお辞儀をしたレイだったが、不安を隠せないのは当然だ。
「レイ、おまえは草原の真っ只中に捨てられていた」
「族長から聞いています」
族長とはニジャルのことだ。
「そのおまえを見つけたのが俺だ。落とし物は最初に見つけた者のものとなる。それがこの世の決まり事だ。だから、おまえは俺のものだ」
「……はい」
「明日から、おまえはニジャルの部族から離れて、俺たちと一緒に旅をすることになる」
一緒に旅をさせることで、特に西の国に入ってからは「商品」を見せびらかすこともできる。
「は、はい」
いきなり現れて、これから一緒に来いという俺の言葉に、レイは戸惑いを隠せないでいた。
「とりあえず、今日はいつものところで寝ろ。仲間たちともお別れをしてくるが良い。明日、日の出とともに出発する」
翌朝。
レイは、奴隷仲間らしき者らと一緒に、俺のところにやってきた。
猪人族の他にも、猫、犬、熊の各種族がいて、人族はレイだけであった。
犬人族の老婆がレイの手を引いて、俺の前に進み出た。
「レイちゃんをよろしくお願いします」
深々と頭を下げた老婆に、「心配するな。レイには幸せになってもらう。約束しよう」と、俺が告げると、老婆はうれし涙を流しながら喜んだ。
嘘でも方便でもない。真実だ。
レイは売り物だ。当然、高く買ってくれる奴に売る。高い金を払ってでもレイが欲しいという奴はそれだけレイのことを気に入ってくれたということだ。だから、レイは買い主たる金持ちのご主人様から寵愛されるだろう。少なくとも今の境遇よりは、レイは幸せになれるはずなのだ。
「レイ、持って行く荷物はないのか?」
昨日と同じ、薄汚れた白いチュニックの腰を荒縄で縛り、足下は裸足という格好のレイは手ぶらだった。
「荷物はこれだけです」
レイは、紐でたすき掛けにしている水筒を示した。
俺やコーネリアが持っているものと同じ、羊の胃袋で作られた物で、サイズはかなり小さめだ。
十字路高原は細長い地形だけに河川はそれほど多くないが、あちこちで湧き水が泉を成している。といっても旅を続けていると、いつも泉の近くを通れるとは限らない。だから、水筒は旅の必需品で、奴隷のレイが唯一持つことが許されている「荷物」、つまり「自分の物」なのだ。
「あと、これもです」
レイはチュニックの首元に入れていたペンダントを取り出して、俺に見せた。
編み込みのカラフルな紐の先に緑色の石が付けられていた。
「その石は知っている。おまえの近くに落ちていた石だ」
宝石の一種かと思って、一旦、懐に入れたが、光っていたのは見つけた最初の時だけで、その後はまったく光らなくなり、ただの石ころでしかなくなったことから、もしかしたら、レイの身元が分かる物かもしれないと、俺がニジャルに渡したのだ。
「族長がペンダントにしてくれたんです」
ニジャルもレイの身元が分かれば、すぐに奴隷解放宣言をして、親族に引き渡すつもりだったのだろう。
ニジャルに別れを告げてから、俺は荷馬車の御者台に座った。
「レイ! ここに座れ」
俺は、俺の左隣を指差した。
この荷馬車の御者台は、荷台部分と同じ幅があり、寝転がって休憩できるようにその全面にクッションを貼り付けている。
「ば、馬車に乗っていいんですか?」
レイは信じられないという顔をしていた。
ニジャルの部族では、馬車は部族民の「家」であり、奴隷たちはそれには乗せてもらえず、ずっと歩いていたはずだ。
もっとも、ニジャルの部族は、牧草がある場所を探しながら、羊とともに移動をして、豊富に牧草がある場所には一定期間留まるので、ずっと歩きっぱなしというわけではない。だからこそ、小さなレイでも歩いてついて行けたんだ。
しかし、俺は商品を届けるために旅をしているのであって、昼間はほとんど移動のしっぱなしだ。小さなレイが徒歩でついてこられるわけがない。
「ああ、早く乗れ」
「は、はい」
高い位置にある御者台によじ登るようにして乗ると、レイは、おずおずと俺の左隣に座った。
「行くぞ!」
振り向き、荷台の後ろに座っているコーネリアに言うと、振り向いたコーネリアが「あいよ!」と元気よく言って、右手の親指を高く上げた。
軽くムチを入れた荷馬車は、ゆっくりと走り出した。




