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クロスロード  作者: 粟吹一夢
第一部 西の国〈フランツガルト帝国〉編
23/30

第二十話 逃避行

 女官長ヒルダが天井からぶら下がったヒモを引こうとした。おそらく非常事態を知らせるものだったのだろうが、それを許すコーネリアではなかった。レイと抱き合って泣いていたはずなのに、気配を感じてのか、すぐに立ち上がり、投げたナイフがそのヒモを引き裂くと同時に、ヒルダに飛びかかり、みぞおちを打って気絶をさせた。

 剣や槍を弾かれて呆然としていた護衛の兵士三名もついでに気絶させると、俺とコーネリアは、レイを連れて、後宮がある建物から出た。

 来た時に乗せてきてくれた馬車が約束どおり待機してくれていた。

 御者にはレイを売りに来ている話はされていなかったのだろう。レイを含めた三人で戻った俺たちを見ても、御者は何も言わず、赤の宮殿を出て、宿屋に向けて走り出した。

 ときどき後ろを振り向いて、馬車の窓から見てみたが、追ってくる者は誰もいなかった。

 それにしてもまずいことをしたものだ。

 金貨三百枚をどぶに捨て、しかも皇室から睨まれる存在になってしまった。

 ここは、一旦、西の国を出て、少しほとぼりを冷ますのが良いだろう。

 ということで、宿屋に戻るとすぐに、鉄鉱石を満載している荷馬車に乗って宿屋を発った。

 城門が閉まるぎりぎりの時間に間に合って、俺たちは帝都クラウンズヒルを跡にした。

 城門を出る際もすんなりと通過することができた。ヒルダたちがまだ気絶から覚めていないのか、覚めていたとしても、向こうも俺たちに弱みを握られている。領土内でおおっぴらに俺たちを始末しに来ることはできないだろう。

 しかし、適当な罪をなすりつけられて、捕まえに来る可能性はある。

 俺は、馬たちの負担にならない程度にスピードを上げて、街道沿いの明かりが消されていった真夜中まで荷馬車を走らせた。

 その日の夜は、街の宿屋に泊まらずに、森の中で野営をしたが、追っ手の気配は感じられなかった。



 次の日の朝も、俺たちは朝早くに出発した。

 御者台の俺の隣に座っているレイは、昨日からずっと機嫌が良い。そんなに俺たちと旅を続けることがうれしかったのだろうか?

 旅は楽しいことばかりではないことは、ニジャルの部族とともに十字路クロスロード高原ハイランドで遊牧の旅をしていて、理解しているはずなのにだ。

 その後、西の国の領土内をずっと野営をしながら進んだが、明日には西の国を出るという所まで来ると、少し安心感もわいて、国境の街「シャーケイン」の宿屋「朝日亭」に泊まることにした。

 レイの顔を見て、熊人族ベアノイドの女将が満面の笑みで出迎えてくれた。

「ギースも子煩悩な一面が出てきたのかな?」

「たまたま契約が成立しなかっただけだ。それで女将」

「何だい?」

「帝都から指名手配の通知とか来ていないか?」

「ギースのかい?」

「ああ」

「人相が悪いから、いつかは来てもおかしくはないと思うけど、まだ来てないよ」

「そ、そうか。実は、皇室とちょっとしたトラブルになってな。近衛兵たちが追ってくるかもしれないんだ」

「もしかして、レイちゃんのことでかい?」

「ああ」

「もし、ここに来たら知らんぷりしてあげるよ」

 皇室がらみのトラブルと聞いても、女将はぶるっているようではなかった。

「恩に着る。明日の朝も早く発つつもりだ」

「分かったよ。じゃあ、朝ご飯も持って行けるように準備しておくよ」

 まったく、この女将の肝っ玉と人情には若い頃からいろいろと助けられている。

 女将は、レイが自分の渡した本を抱きしめるように両手で持っているのを見て、更にうれしそうな顔をした。

「うちがあげた本を大事にしてくれているみたいやね?」

「はい! おもしろいです!」

「そうかい、そうかい。孫に買ってやった本がまだいっぱい余っているから、明日の朝にまた持ってきてあげるよ」

 レイが本当にうれしそうな顔をして「ありがとうございます!」と女将に頭を下げた。



 その日の夕食後。

 前回と同じように、女将自らが、レイのデザートを俺たちのテーブルまで持ってきた。

「はい、レイちゃん。今日はね、アップルパイにしたんだよ」

「あ、ありがとうございます!」

 前回、泊まった時とは比べものにならないほど器用にナイフとフォークを使って、レイはお行儀良くアップルパイを口に入れた。

「おいしい! おいしいです!」

 社交辞令など知らないレイの笑顔に、女将もうれしそうであった。



 次の日の早朝。

 女将が朝食にと、ハムを挟んだパンを持たしてくれた。

 そしてレイには二冊の本を手渡してくれた。

 一つは、前回もらったものよりも少し高等な言葉の参考書。そしてもう一つは簡単な算術の本だった。どちらも絵入りで子供向けの参考書というところだ。

「今度、ここに来た時には、算術のテストをするからね。それに正解したら、お菓子をいっぱい食べさせてあげるよ」

 レイに話す女将のうれしそうな顔からは、きっと正解でなくてもお菓子をくれそうだった。

「気をつけるんだよ」

 見えなくなるまで手を振って見送ってくれた女将に対して、レイも御者台から身を乗り出しながら大きく手を振り続けた。



 国境を隔てる城門の手前で、俺は荷馬車を停めた。そして、懐から刻印器を取り出した。

「レイ、国境を越える際にまた身分証明書の提示が求められる。おまえには俺の刻印をしておかなければいろいろと面倒だ。だから刻印をするぞ」

 皇太子に引き渡すため、レイの刻印を消していた。刻印がなければ、レイはどこかの国の市民ということになるが、レイは市民証を持っていない。市民ではないから当然だが、そのことで出国に時間を食うのも嫌だ。

「はい」

 レイは素直に自分の左手を差し出した。

「ちょっと痛いらしいが我慢しろ」

「はい」

 俺は刻印器の上の白い面に専用のペンで自分のサインを書き、レイの手の甲に当てて、スイッチを入れた。

 少しだけレイの顔が歪んだが、刻印器をはずすと、レイの左手の甲に俺の名前が青く刻印されていた。

「ギ・ィー・ス。ギースの名前も読めるようになりました」

 レイが笑顔で俺を見た。



 シャーケインでも城門で止められることなく、西の国から出ることができた。

 しばらくすると、レイが女将にもらった本のうち、算術の本を開いた。

 足し算や引き算の計算式が絵とともに大きく印刷されている。

 レイは時折、自分の手の指を伸ばしたり折ったりしながら、計算式を確かめているようであった。

 正式な算術を習っていないコーネリアも合計額が十以下の足し算や引き算くらいならできるようになっている。物覚えが良いレイならもっと高度な計算式もできるようになるかもしれない。レイが計算をできるようになると、俺の商売の手伝いもやらせることができるかもしれない。

 てか、レイがずっと一緒にいる前提で考えているじゃねえか!

 西の国では売れなかったが、これから向かう東の国でもレイを気に入ってくれる富豪がいるかもしれない。いや、きっといる。

 条件さえ整えば、レイを売るということを諦めてはいないのだ。

 俺は自分の考えを自分に言い聞かせていた。

 


 まだ、日は高かったが、湿地帯の手前で野営をすることにした。

 湿地帯で過ごす夜を極力少なくしたかったから、明日の日の出前でも辺りが明るくなれば出発するつもりだ。

 また久しぶりに炙った干し肉の夕食となった。

 濃い塩味でそれなりに食えるが、これからずっとこれかと思うと、少し萎えてくる。もっとも二、三日もすると慣れてしまうが。

 食事が終わると、就寝までの休憩タイムだ。

 俺は寝転がって満天の星を眺めていたが、近くに座ったレイとコーネリアは算術の話で盛り上がっていた。

「お兄さんと妹が二人で買い物に行って、お兄さんがリンゴを十三個にオレンジを二十四個、妹がリンゴを十五個とオレンジを十六個、買ったんだって」

「そんなにいっぱい買ったら重くて持って帰れないじゃない」

「うふふふ」

 コーネリアのマジなボケに、レイが面白そうに笑った。

「それで問題は、家に帰った二人がリンゴとオレンジをお母さんに渡したら、お母さんの手元にはリンゴが何個、オレンジが何個あるでしょうか? っていう問題なの」

「待ってよ」

 コーネリアが自分の手の指を駆使して計算に挑戦していたが、「十を越えるじゃない! 無理無理!」と早々に計算を諦めた。俺としては「今、気づいたのかよ!」と突っ込みたくなった。

 レイは女将からもらった算術の本を閉じて、コーネリアの前の地面に、算術記号を使った計算式を小枝で書いた。

「えっとね。リンゴは十三個と十五個でしょ。まず、一の位の三と五を足すんだって」

「三と五! それなら分かるよ、えっと……八だ!」

 指が足りて良かったな。

「次に十の位の一と一を足すの」

「簡単簡単! 二だよ!」

「うん。十の位だから二の後に十を付けて、二十になるでしょ。それに一の位の八を足すの」

「二十に八……。二十八?」

「そう! 思っていたより簡単だった」

 おいおい。

 レイは今朝、シャーケインの女将から算術の本をもらったばかりだぞ。今回は俺も何も質問されていない。確かに今日一日、食い入るようにレイは算術の本を見ていた。それだけでレイは理解したのか?

「オレンジはね、一の位が四と六でしょ。足すと十になるんだ。そんな時は一の位はゼロになって、十の位に一を足すんだって」

「う~んと、……待って待って! 十の位に一を足すってどういうこと?」

「オレンジの十の位は二と一だから足して三でしょ。それにさらに一を足して四だよ。だから答えは四十!」

「……分からない」

 無理なことはやめておけ。

 俺は上半身を起こしてレイを呼んだ。

「レイ」

「はい」

 レイがうれしそうに振り向いた。

「算術は面白いか?」

「はい! 面白いです!」

「どんなところが面白い?」

「さっきの休憩時間に二十四足す十六が本当に四十になるのかどうかを、小石を使って確かめてみたんです」

 確かに小石で何か遊んでいるとは思ったが。

「本当に四十になって、びっくりしました。指を使わなくても、計算だけで答えが出るんだって感激しました」

 今まで算術をしたことのないレイが、本を読んだだけで、ここまで理解することができたことに驚くとともに、レイには無限の可能性があるような気がしてきた。

 

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