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クロスロード  作者: 粟吹一夢
第一部 西の国〈フランツガルト帝国〉編
22/30

第十九話 契約破棄

 馬車は赤の宮殿の目立たない所にある裏門のような入り口から中に入った。

 貴族や市民たちに説明できないような大金をつぎ込んだ少女を「納品」するのだ。できるだけ秘密裏に行いたいのだろう。

 警備の兵士に停められることなく、馬車は宮殿の裏手にある建物の玄関前に停まった。

 すかさず御者が馬車のドアを開けてくれた。

 俺たち三人が馬車を降りると、「お帰りもこの馬車で宿屋までお送りするように仰せつかっておりますので、ここで待機しております」と御者が告げた。

 建物の入り口には護衛の兵士ゴンゾが待っていた。

「こちらに」

 建物の中に入っていったゴンゾを追って、俺たちも中に入った。

 玄関や廊下には赤い絨毯が敷き詰められ、高い天井には豪華なシャンデリアがいくつもぶら下がっている。

 長い廊下の突き当たりに鉄製の両開き扉があり、その両脇に槍を持った近衛兵が立っていた。

 近衛兵に敬礼をしたゴンゾは振り返り、「ここから先は、殿下とヒルダ様のような女官しか入ることができないエリアだ」と教えてくれた。

 後宮と呼ばれる女の園だ。

 ゴンゾは鉄製の扉の手前にある部屋に入った。

 その部屋も十分に広く、豪華な応接セットが置かれていて、そのソファに座っていた女官長ヒルダが立ち上がった。

「座られよ」

 ヒルダの勧めに従って、対面するソファに座った。俺を真ん中にして、右側にレイ、左側にコーネリアが座った。

 レイを初めて見たヒルダが目を見張っていた。

「ほんに! 殿下が夢中になられるのも納得じゃ。まれに見る美少女じゃな」

「あんたも子供の頃もそうだったんじゃないのか?」

「ふん! つまらぬ世辞などいらぬわ」と言ったわりには、ヒルダもまんざらでもない顔つきであった。

「それでは契約を実行してもらおうかの」

 ヒルダが姿勢を正したのに併せて、俺もきちんと座り直した。

「契約書は作成しないが、念のため、契約内容を確認したい」

 俺も現金決済が基本であるので、契約書の作成はあまりしないが、契約内容の確認は、高額な金額をやりとりする際には必ず行う、商人の鉄則だ。

「そうじゃな」

 俺の提案にヒルダも同意した。

「売り物はこの娘だ」

 右に座っているレイの頭に手を置いて示した。

「価格は金貨三百枚。一銭たりとも値引きはしない」

「うむ。ここに金貨三百枚分の小切手を用意しておる」

 ヒルダがテーブルに置かれた小箱を開けて、中にあった小切手を持ち、俺に示した。

 帝国の収支を管理している中央銀行が振り出したもので、金額欄に金貨の単位で百と書かれているのが三枚あった。

 これを受け取った後は、俺が口座を持っている旅商人の組合ギルドにこの小切手を示して、自分の口座に入金すれば良い。今まで三十年間で貯めたかねが金貨三百枚。それにこの金貨三百枚を加えた金貨六百枚があれば、ここ帝都クラウンズヒルの一等地に店を持つという夢が現実のものとなる。

 複数の旅商人を雇い、西の国以外の国から仕入れた品物をその店で陳列し売るのだ。豊富な品揃えで西の国一番の評判になるはずで、俺の懐には座っているだけで金が舞い込んでくることになる。

 ヒルダが小切手を俺に差し出した。

 金貨三百枚という大金を手にする興奮を隠しながら、できるだけ冷静に小切手を受け取った。

 金額を再度、確認する。「1」の後に「0」が二個。そして金貨の単位。それが三枚。間違いない。

「それとこれが、そなたが所望の確認書じゃ。わらわは既にサインをしておる」

 俺と赤の宮殿との間にはお互いにいかなる債権債務も存在しないことを明記した書面だ。契約の内容についてはひと言も触れていない。おおっぴらにできる内容ではないからだ。

 同じ内容の書面二通に俺もサインをして、一通をヒルダに渡した。

「レイ」

 俺は、右側に座っているレイの顔を見た。

 俺の顔を見上げたレイは、今にも泣きそうだった。

「笑え、レイ。おまえは、これからどんどんと幸せになるんだ。そうだな、ヒルダ?」

「もちろんじゃ。殿下はこの日を待ち望んでおられたのじゃ。金貨三百枚などという大金を支払ってでも欲しいと思われたのじゃからな。そなたはそれだけ殿下のお気に入りなのじゃぞ」

 最後の言葉は、レイの顔を見ながら言ったヒルダが立ち上がり、「では、その子を引き渡してもらおうかの」と言った。

「分かった」

 俺も立ち上がり、一緒に立ったレイの肩を押すようにして、ヒルダの前に連れて行った。レイは安っぽい本を二冊持ち、水筒もそのままたすきに掛けたままであったが、ヒルダは特に何も言わなかった。

「幸せにしてやってくれ」

「申すまでもない」

 俺がすぐそばまで連れてきたレイの手をヒルダが握った。

「ギース!」

 コーネリアが俺の後ろから叫ぶように呼んだが、俺は振り向かなかった。

「本当に良いの? レイは星の王女様なんだよ!」

 オグナスのネタを持ち出すことしか反対意見をすることができないコーネリアを無視して、俺はヒルダに手を引かれたレイから後ずさりして離れた。

 レイは涙をいっぱい浮かべた顔で俺を見ていた。しかし、そこには怒りはなかった。

「レイ、俺が憎いか?」

 レイはゆっくりとかぶりを振った。

「おまえはニジャルの部族で一生を終えるより、はるかに幸せな人生を手に入れることができたんだ。俺に感謝しろ」

 何を言っているんだ、俺は?

 ――そうか。俺はレイに憎んでほしいんだ。そうすれば、すっきりとレイと別れることができる。

 そうだ! もっと、俺を睨むようにして見ろ! あんなキモい男の元におまえを売った俺を憎め!

 ……なぜだ? なぜ、そんな悲しげな顔をする?

「以上で契約は成立じゃな?」

「あ、ああ」

「ヒルダ様、刻印を」

 ヒルダが握っているレイの左手の刻印を、コイゾが指さした。

「おお、そうであったな。刻印のある者をここに招き入れるなど、今までなかったからのう」

 ヒルダは握っているレイの左手を俺に差し出した。

「ギース。そなたの刻印を消してもらおうか。そなたの持ち物のまま殿下に差し出すわけにいかぬでのう」

 俺は懐から刻印器を取り出した。

 刻印器に何も記載せずにレイの左手の甲に当ててスイッチを押すと、刻印されていた俺の名前が消えた。

「レイ、これでそなたはギースのものではなく、皇太子殿下のものとなるのじゃ」

 再び、あのキモい男の顔が頭に浮かんだ。

「さあ、レイ。わらわと一緒にまいれ」

 レイの手を引いたヒルダがゴンゾとともに部屋を出て行った。

「レイ!」

 コーネリアが後を追いかけるように部屋を飛び出したが、ゴンゾに立ち塞がれて、レイの元に行けなかった。

 少し遅れて俺が廊下に出た時には、ヒルダの指示で、鉄製の扉が重々しい音を響かせて、左右に開かれたところだった。

 あの扉の中に入ると、レイは二度と出てこられないかもしれない。

 おとなしくヒルダに手を引かれてドアの所まで来たレイが再び、振り向いて、俺を見つめた。

 レイの目には、やはり涙がいっぱい貯まっていた。

 ――本当にこれで良いのか?

 実の娘と同じ名前を付けた、まだ、幼気いたいけな少女だぞ!

 火の玉とともに天から降ってきた娘だぞ!

 天から降ってきた?

 まさか。本当に星の王女とでも言うのか?

 俺は、握りしめていた小切手を見つめた。

 こんな紙切れ三枚で、レイを手放して良いのか?

 こんな紙切れで……。

「レイ。参るぞ」

 ヒルダが、中に入るのを少し渋っていたレイの手を引いて、ドアの中に入ろうとした。

「ちょっと待て!」

 俺の大声で、ヒルダもレイも立ち止まって振り返り、俺を見た。

「何事じゃ?」

「何だ、この小切手は?」

「何を言っておる? 金額もそなたの言い値じゃぞ」

「確かに金額はそうだ。しかし、その下に小さく、支払日として、別々の日が書かれているぞ」

 三枚の小切手の振出日は今日だが、一枚には、支払日として五十日後、もう一枚には百日後の日が書かれていた。

「俺は金貨三百枚からビタ一文まけないと言ったはずだ!」

「だから約束をたがえてはいないぞ」

「いや、二回目は五十日後、三回目は百日後の支払とある」

「金貨三百枚もの大金はいくら我々でも一度に用意することはできぬ。それに、市民向けの目もある」

「そんなことは、あんたら側の都合じゃねえか! こっちは知ったことじゃねえ!」

 俺は一歩、ヒルダとレイに近づいた。

「良いか! 利息を付さない分割払いは実質的に値引きだ! 即時に手に入れた金を運用して得られたはずの利益が得られないのだからな!」

「一括でなどとは、そなたもひと言も言っておらぬぞ!」

「だから、値引きはしないと言ったじゃねえか! もう一度言うが、利息を付さない分割払いは実質的に値引きだ!」

「今さら、そんなことを言われてもどうにもならぬ!」

「だったら、契約は破棄だ!」

 俺は、手に持っていた小切手と確認書を目の前にかざして、ビリビリと破り捨てた。

「レイを返してもらおう」

「貴様! 下手に出ておれば、つけあがりおって!」

 ゴンゾが俺を睨みながら剣を抜いた。

「皇室を侮辱するなど、不敬であろう! この場で切り捨てることもできるのだぞ!」

「やってみろよ! 小さな娘一人に金貨三百枚という国家予算をつぎ込もうとした事実を公表するが良いのか?」

「我らを脅迫するか?」

「脅迫じゃねえ! 自衛手段だ!」

「この場で貴様らの口をきけないようにしてやる!」

「コーネリア! だとよ!」

「良いのかい、ギース?」

「ああ、こうなりゃやるしかないだろ!」

「がってん~」

 次の瞬間!

 コーネリアがコイゾに飛び掛かると、コイゾの剣が宙を舞ったが、その行方を見定める前に、後宮の扉の警備に当たっていた二人の近衛兵にも飛び掛かり、つごう、はじかれた一つの剣と二つの槍が近くの床に突き刺さった。

 皇室を狙った刺客など噂ででも聞かない。実戦の経験のない近衛兵が、盗賊と戦うことが茶飯事のコーネリアに敵うわけがない。

「契約の不完全履行は解除できるというのは、商人の世界の習わしにのっとった正当な行為だ! 法廷に訴えてもらってもけっこうだぜ」

 税金の無駄遣いと市民たちのみならず、貴族たちからも批判されることは必至で、この事実を公にすることなどできるはずがない。

「レイ! おまえは、まだ、俺のものだ! 戻れ!」

 俺が大声で言うと、レイはヒルダの手を振り切って、全速で駆けてきた。

「レイ!」

 コーネリアが両手を広げてレイを抱きしめようとしたが、レイは少し横にずれて、俺の腰に抱きついてきた。

「ギース!」

「お、おい!」

 レイは俺に抱きついて泣きじゃくるだけだった。

 レイにスルーされたコーネリアもしゃがんで、レイの肩を後ろから抱きしめた。

「良かった! 良かったねえ、レイ!」

 コーネリアが泣くのを初めて見た。

 合計では金貨三百枚という大金が確実に手に入ることは間違いないのだから、分割払いなど目をつぶれば良かったはずだ。

 どうしちまったんだ、俺?

 

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