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クロスロード  作者: 粟吹一夢
第一部 西の国〈フランツガルト帝国〉編
13/30

第十一話 絵本

 久しぶりにベッドで寝た俺は、体力の回復を確かに感じていた。

 だが、百パーセントの回復とは言いがたい。

 長い間の旅に次ぐ旅は体にかなりの負担を掛けてきているはずで、その負担が疲労となって体に蓄積されてきているのだろう。

 こんなところでも体の衰えを感じてしまうのは悔しいが、まだ体が動く限り働かなければ、バラ色の老後はやって来ない。

 俺は勢いを付けてベッドから起き上がった。

 着替えて、食堂に行き、コーネリアとレイを待っていると、二人が手をつないでやって来た。

「ちょっとちょっと! ギース、聞いてよ!」

 俺の顔を見るなり、うれしそうにコーネリアが話し出した。

「レイったらさ、ベッドが柔らかすぎて眠れないって言って、床で寝るって言ったんだ。でも、アタシ一人がベッドで眠るのもレイに申し訳ないと思って、アタシも一緒に床で寝たんだよ。そしたらどっこい! アタシも熟睡できた気がするんだ。それでえ、夜中にレイが寝ぼけてアタシに抱きついてきてさあ。近くで見るその寝顔が可愛いのなんのって! 申し訳ないけど、レイのファーストキスはアタシが奪っちゃったからね」

 レイは初めて「ベッド」なるもので横になって、その柔らかすぎる弾力に慣れなかったのだろう。

 そして初めて部屋の中でレイと一緒に寝たコーネリアは、更にレイの魅力にノックアウトさせられたようだ。

「レイのファーストキスを奪ったことを誰に謝っているんだ?」

「ギースにさ」

「まあ、そうだな。俺の商品に勝手に手を付けたわけだからな。それでレイを値引きせざるを得なくなったら、おまえの給料から天引きだ」

「そ、そんなあ。あっ、今度からはこっそりとレイを襲っちゃおう。うんうん、そうしよう」

 コーネリアが夢中で話す横では、レイが照れくさそうにうつむき加減で顔を赤らめていた。

「とにかく、飯を食おう」

 一緒に食堂に入ると、焼きたてのパンとミルク、スクランブルエッグにサラダという朝食が出てきた。

 レイはパンをやわらかくて美味いと大喜びで食べた。初めて食べたパンが乾パンならそう思うだろうぜ。

 しかし、レイはミルクを飲むと首をかしげた。

「どうした?」

「あ、い、いえ」

「良いから、遠慮せず言ってみろ」

「こ、これって、牛の乳なんですか?」

「そうだ。初めてか?」

「はい」

 レイも羊の乳は毎日飲んでいただろうが、牛の乳は初めてだったようだ。

「羊の乳とどっちが美味い?」

「よく分からないです」

「分からない?」

「この乳は、少し時間が経っている気がします。だから比べられません」

「なるほどな。おまえの言っていることは正しい」

 ここは街のど真ん中にある宿屋だ。今、食卓に出ている牛乳は、おそらく、昨日、郊外の牧場から仕入れた牛乳だろう。俺にはまったく分からなかったが、毎日、絞りたての羊の乳を飲んでいたレイには、その「古さ」が分かったのだろう。

 そう考えると、レイの食べていた食事は質素だが、ある意味、ご馳走だったのかもしれない。

 食堂に女将が入ってきた。そして、レイを見つけると、脇目も振らずにレイの後ろにやって来て、レイの肩を抱いた。

「おはよう、レイちゃん。よく眠れたかい?」

「おはようございます。は、はい」

 レイは、救いを求めるような目でコーネリアを見たが、コーネリアはニコニコと微笑みながら「うんうん」とうなずいただけだった。

「レイちゃん、また、おいでよ。待ってるからね」

 言葉の最後には、女将は俺を睨むようにして見た。

「また、連れてこい」と無言の圧力が掛けられたように感じた。それは、「レイを売るな」ということだ。

「そうそう。レイちゃんにこれをあげようと思って持ってきたんだよ」

 俺からレイに視線を戻した女将は、レイに一冊の本を差し出した。

「こんなおっさんと一緒だと退屈だろうからね。馬車に乗りながらでも読めるだろ?」

 モノクロの絵本のようで、その表紙には「物の名前」というタイトルが印刷されていた。

 百年前に東の国で発明された印刷術は、あっというまに四つの帝国に広がり、それほど上等な紙を使っていないものや彩色をしていない本は、市民層でも気軽に買えるものになっていた。

 本を受け取ったレイがページをめくると、中には簡略化された「物」の絵とその名前が大きな字で印刷されていた。

「昔、孫に買ってやったんだけど、孫ももう読まなくなったから捨てようと思っていたんだ。だけど、昨日、ご飯を食べている時に、レイちゃんが字のことを訊いていただろ? だから、これをあげようと思ってさ」

 昨日の夕食時。

 レイは、テーブルの上にあった、夕食のメニューが書かれていた紙を見て、何と書いているのかと俺に訊いた。その会話を女将が聞いていたのだろう。

 俺や女将のように商売をしている者には文字と算術の知識は必須だ。だから、女将も孫にこんな絵本を買い与えていたのだろう。

「ありがとうございます!」

 初めて「文明的」な贈り物をもらったレイは、本を大事そうに胸に抱えて立ち上がり、女将に深く頭を下げた。



 俺とコーネリアの二人旅の時には、女将は宿屋の玄関の中で見送りをしてくれたが、今日は玄関を出て俺たちが見えなくなるまで手を振ってくれた。まるでレイと別れることが辛いかのようにだ。

 シャーケインの街中を走っている間は、やはり見慣れぬ景色に夢中になっていたレイも、城門を出て、次の都市に向かうまでの田園や草原の風景が広がるようになると、そわそわとしだした。

「何だ? 小便か?」

 問いかけた俺にかぶりをふったレイは、御者台の背もたれと背中の間に挟んで置いていた本を取り出して、両手で持ち、俺に示した。

「これ、読んで良いですか?」

「どうして、俺の許しを請う?」

「ギースはずっと馬車を御しているのに、隣で私が本を読んでいて良いのかなって思って……」

「俺は心が広いんでな。少々のことでは腹は立てない。本も自由に読んで良い。俺にいちいち伺いを立てる必要もない。だが、俺が用事を頼んだ時は、本を置いて、その用事を優先してやってくれ」

「はい!」

 満面の笑みでうなずいたレイは、膝を立てて、その膝を本立てのようにして、夢中になって本を読んでいた。

 もっとも、簡略化された物の絵と名前が書いているだけだから、「読む」までもないのだが、食い入るように本を見つめていた。

「面白いか?」

 俺が訊くと、レイは絵本から目を離さずに「はい」とうなずいた。

 しばらくしてから、レイはそれまでずっと見ていたページを俺に示して、「ギース」と呼んだ。

「何だ?」

 レイが示したページには、ナイフとフォークの絵が描かれて、大陸の共通公用文字で「ナイフ」と「フォーク」と書かれていた。

「これ、昨日、ご飯を食べた時に使った『ナイフ』と『フォーク』ですよね?」

「そうだ。その絵の近くに書かれている文字が、『ナイフ』と『フォーク』という字だ」

 満足げにうなずいたレイは、再び、絵本に視線を戻して、字を指でなぞりながら、小さな声で「ナイフ」、「フォーク」と繰り返し呟いていた。

 その後、俺は、レイから絵本に描かれている物の名前を訊かれ、答えた後には、絵本を見ながら、その物の名前を何度も繰り返しつぶやくレイのつぶやきを聞き続けて旅をする羽目になった。

 ちなみに、この大陸の四つの帝国は同じ言語と文字を使っている。

 昔から旅商人が四つの帝国を行き来して、いろいろな交流があったから、自然と言葉が統一されたという説が一般的に信じられていて、俺も旅商人の功績として当然、その説を信じている。



 さて、この「西の国」こと「フランツガルド帝国」は、国の形ができて以来ずっと、皇帝の一族を頂点に戴いているが、その時々の皇帝が常に最高権力者であったいうわけではない。

 古来から血縁的に皇室とつながりがある「貴族」と呼ばれる一族が大勢いて、それぞれが支配する領地である街を砦化して、その勢力を増大させるために貴族同士が争う「戦国時代」と呼ばれる時代があり、その中で他の貴族を滅ぼしていって最大領地を手に入れた貴族が、皇帝の権威を利用して、執権や宰相として自らが実権を握るという時代が繰り返されてきた。

 そのため、この国の街はすべて城壁で囲まれている。

 もっとも今は、皇帝の持つ権力が貴族どもを圧倒していて、争いのない時代が続いており、貴族同士の争いに市民が巻き込まれることもなくなっている。

 しかも、貴族どもの収入源である街から上がる税金を安定的に確保するため、貴族たちも自らが有している軍事力で不法な侵入者などを討伐するなどして、街の治安も保たれている。

 街の住民に食料を供給してくれる、街の近くにある農園や牧場もその街の領主たる貴族が守ってくれるが、街と街の間にあり、利用価値がない草原や森林は、盗賊どもが跋扈している無法地帯だ。

 帝都に向かう街道沿いでは、皇室の兵士どもが巡回警備をしてくれているが、広い領土をくまなく警備できるはずもないし、賊の方からしてみれば、十字路クロスロード高原ハイランドと違い、近くに街があり、奪った金などで酒場や歓楽街に繰り出せることもできる。だから賊の数も多く、実は十字路高原と同じく、いや、もっと警戒を怠ることができない場所であるのだ。

 一方で、十字路高原と違い、荷馬車で移動することができる距離に何か所も街があるから、夜には街の宿屋に入り、安全かつ快適に夜を過ごすことができる。

 国境の街シャーケインを発ってから、帝都クラウンズヒルまで順調に走っても十五日掛かる。つまり、街道沿いのそれぞれの街の宿屋で十四泊するのだが、すべての街に馴染みの宿屋ができていて、今回も予定どおりその宿屋で泊まった。

 どこの宿屋でも、初めて連れて行ったレイが可愛がられた。

 普通は子どもが泊まることのない旅商人御用達の宿屋だからということもあるだろうが、それぞれの宿屋の主人や女将から、揃いも揃って、「レイを売るなんて」と苦情めいたことを言われた。

 シャーケインの宿屋で初めて一つの部屋で泊まってから、ずっとレイにぞっこんで、まるでレイの母親か姉のように振る舞うようになったコーネリアも、宿屋の主人の言葉に「そうだよ、ギース」と念を押してくる始末だ。

 同じ人族として、レイがたぐいまれなる美少女なのは分かるが、種族を問わずここまで可愛がられるレイは、単に可愛い顔つきだけではなく、みんなに愛される何かを持っているのかもしれない。

 

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