第八話 家族の記憶
西の国の手前には広大な湿地帯がある。
地面はどこもぬかるみだらけで、馬車の車輪も空回りするなど、思うように進めないことから、この湿地帯を抜けるのに最短でも三日は掛かる。
ところどころ、足を踏み入れると深く沈む所もあるらしい。
注意深く地面を見ると、旅商人たちの荷馬車で踏み固められた轍がある。とりあえず、自分の荷馬車の車輪がそこを通るように、地面の状態を注意深く見つめながら進む必要があり、それで更に時間が掛かる。
また、夜、野営をするにも、湿った地面に横たわることは気分的に避けたいから、湿地帯を抜けるまでは、荷馬車の御者台や椅子に座って休むしかない。
ここは、西の国に入る、あるいは西の国から出る旅の最大の難所なのだ。
その難所に、レイを連れて旅をし始めて二十日後に到達した。
突然、荷馬車が傾いた。
左隣に座っていたレイがそのまま俺の方に滑ってきたくらい、大きく右側が沈んだ。
「あちゃ~、やっちまったね」
振り向くと、既にコーネリアが荷馬車から降りて、右側の車輪のそばにしゃがんでいた。
俺もすぐに荷馬車を降りて、コーネリアのそばに行った。
足がぬかるみにとられて、足首辺りまで沈んだ足を引き抜くにもかなり力がいるほどの所で、右側の前後の車輪が地面に食い込むようにして沈んでいた。
今までこの湿地帯で車輪を落としたことはないのに、これも年齢で集中力が衰えたからか?
「くそっ!」
悪態をついたが、自分が落としたのだから仕方がない。
「レイ!」
俺が呼ぶと、レイは御者台から降りようとしたが、俺はすぐに「そのまま乗っていろ!」と止めた。
「おまえは手綱を操ることはできるか?」
俺の問いに、レイは首を左右に振った。
「そんなに難しいことじゃない。俺が教えるから、おまえは俺の代わりに手綱を操れ。いつも俺がしているようにすれば良い」
こくりとうなずいたレイは、前を向いて、おそるおそる手綱を握った。
「コーネリア! 馬車を持ち上げるぞ!」
「あいよ!」
俺が右の前輪と後輪の間に、コーネリアが後輪の後ろに立ち、荷馬車の車体を持ち上げるようにして持った。
「レイ! 手綱で馬を叩くようにしてみろ! 優しくな!」
振り向いて、うなずいたレイは、前に向き直ると、両手で握った手綱を揺らした。
しかし、馬は動かなかった。
「もう少し強くだ!」
レイが少し強めに手綱を揺らすと、二頭の馬は、前に歩こうと踏ん張り始めた。
「今度は手綱を手前に引っ張るんだ!」
前を向いたままのレイが、手綱を引っ張ると、馬は歩みを止めた。
「そうだ! 良いか、レイ! 俺が『進め!』と言えば、手綱で馬を叩け! 馬車が前に進む。『停めろ!』と言えば、手綱を手前に引っ張るんだ! 馬は停まる」
前を向いたまま、レイがうなずいたのを見た俺は、コーネリアと息を合わせて、馬車を持ち上げるように力を込めた。
「進め!」
俺の指示で、レイは手綱で馬を叩き、馬は前に進もうとしたが、荷馬車は前に動かなかった。沈んでいない左側の車輪側もぬかるみで、ちゃんと地面をグリップできていないようだ。
「停めろ!」
レイが手綱を引いて、馬を止めた。
「その調子だ、レイ!」
初めて手綱を握るにしては上出来だ。
「コーネリア。上に引っ張るよりも前に押した方が良さそうだ」
「了解だあ」
俺とコーネリアが荷馬車を押すように体勢を変えてから、「進め!」と指示を出した。
馬が前に進もうと歩き出す。それに併せて、俺とコーネリアが荷馬車を押した。
それで荷馬車が滑るように少し前に進むと、右側の車輪が固い地面をつかんだ感触がした。
「よし、いけるぞ!」
俺とコーネリアが満身の力を込めて荷馬車を押し続けると、右側の車輪がスリップしつつも少しずつ地面から浮かび上がりながら、前に進んで行った。
車輪の全部が姿を現すと、荷馬車は俺とコーネリアを置いて、前に駆けだした。
「レイ! 停めろ!」
レイが手綱を引くと、荷馬車は止まった。
すぐに荷馬車に駆け寄り、御者台に座り、手綱を握った。
「良いぞ、レイ! よくやった!」
自分が役に立てたことがうれしかったのか、レイは照れ笑いをした。
日が落ちた。
ただでさえ危険な路面を、真っ暗な状態で走るのは自殺行為だ。
また、湿った地面では焚き火もできない。
一つだけ安心できるのは、こんな場所には盗賊もやって来ないということだ。
俺たちは荷馬車に乗ったまま、干し肉を炙ることなく食べると、俺とレイは御者台に、コーネリアは後ろの椅子に座ったまま、毛布にくるまった。
神経を使いながら荷馬車を走らせてきたから、それなりに疲労感も貯まっていたようだ。
俺はすぐに眠りに入った。
誰かにもたれ掛かられて、俺は目が覚めた。
レイだった。
俺の腕にもたれ掛かり、親指をしゃぶりながら眠っているレイは、まだ七歳だ。
普通であれば、母親に甘えたい年頃だろうが、初めから父親も母親もいないレイは、家族の愛情というものを知らない。
「家族か」
俺の脳裏に過去の記憶が蘇った。
西の国の帝都クラウンズヒルで近衛兵をしていた父親と母親の間の一人息子として生まれた俺は、小さな頃から父親に武芸を教え込まれた。将来は、俺も近衛兵として取り立てられることを親子ともども夢見ていたが、俺が十六歳の時、クラウンズヒルは大地震に襲われた。
西の国には火山があちこちにあり、地震も再々、起きていたが、この時の大地震に匹敵するものは、それ以前も、またそれ以降も起きていない。
そんな大地震で、両親は倒れた建物の下敷きになって、あっけなく死んでしまい、ちょうど、落ちてきた瓦礫の隙間に入った俺は生き延びた。
クラウンズヒルでもあちこちで建物が倒壊して、人口の十分の一に当たる住民が死んでしまうなど、大きな被害が出たが、被災した市民に対して、帝国は何の援助もしてくれなかった。むしろ、同じ地震で壊れた宮殿の修復のために、市民に対して臨時徴集がされたくらいだ。
宮殿の修復への財政出動で雇用が生み出され、それが復興対策になるという一面もあったのだが、その頃にはそんなことも分からずに、帝国の冷徹さに腹が立った。
だから、近衛兵になるという父親との約束は反故にして、父親が残してくれた財産を元手に商人をすることにした。
街の中で仕入れて市民に売るという小売りもそれなりに利益は出るが、俺は旅商人の道を選んだ。
冷たい仕打ちしかしなかった西の国にとどまることが嫌だった。とにかく、その時には、西の国を飛び出したかった。
そして、いつかは帝国を相手に商売ができる身分になって、さんざん、帝国から利益を搾り取ってやると、ささやかな復讐心を心に灯していた。
ゆがんでいることは分かっているが、そんな帝国御用達の身分になれることは、商人として、普通に目標とすることだ。
レイが身じろいだ。
レイは、体を丸めるようにして、あぐらをかいている俺の脚に頭を乗せて寝転がるように体勢を変えたが、目が覚めているようではなかった。
その可憐な横顔を見つめていると、また、過去の記憶が蘇ってきた。
十六歳から旅商人を始めて、何度か四つの帝国を往復して、このまま旅商人としてやっていけそうだと自信がついた二十二歳の時に、同じく震災で孤児になっていた女を妻にした。そして、すぐに女の子ができた。
しかし、俺が家を留守にしている間に、娘は病気に罹り、わずか一歳で死んでしまった。
妻は俺を責めた。
旅に出る前に、娘の体の異変が分かっていたら、俺だって旅に出ることはなかっただろう。しかし、何の予兆もなく、仕事で旅をしていたのだから、俺に何の落ち度があるというのだ?
俺にとっては、まったく理不尽な話だが、最愛の娘を一人で看取った妻の気持ちも分かったから、特に俺も反論はしなかった。すれば、けんかになるのは見えていたからだ。
しかし、妻は、そんな俺の態度を逆に冷淡と受け取ったようで、娘の死後、再び旅に出た俺が久しぶりにクラウンズヒルの家に戻ると、妻の姿はなく、俺の非情さを責める書き置きだけが残されていた。
妻とは、それ以来、会っていない。西の国のどこかの都市で暮らしているのだと思うが、探す気にもならなかった。しばらくして、正式に離婚の手続きもしている。
レイが身じろいだ。
食べ物の夢でも見ているのだろうか?
口をもぐもぐと動かしていた。
「レイか……」
思わず、つぶやいた。
幼くして死んだ俺の実の娘の名は、「レイ」という。
そうだ。火の玉の近くで見つけた赤ん坊に付けた「レイ」という名前は、俺の実の娘の名前から取ったものだ。
赤ん坊のレイを見た時、実の娘のことが思い出されて、無意識にその名をつけたのかもしれない。
今、俺は四十六歳。
もし、実の娘レイが生きていたとすれば、二十四歳。既に結婚をしていて、目の前でスヤスヤと眠っている、このレイくらいの娘がいてもおかしくはない。
そう考えると、このレイは孫娘と言って良い年齢だ。
レイの寝顔を見つめる。
旅の連続で、顔も髪も土埃まみれで汚れている。服もボロボロで、靴すら履いていない。
しかし、それでもレイの可憐さ、可愛さは損なわれていない。
我が子だとすれば、自慢したくなる娘だ。
一瞬、俺は、このレイを養女にして、俺の財産を承継させようかという考えが浮かんだ。
最初の結婚以来、結婚をしていない俺には、血が繋がっている親族は実の娘のレイしかいなかったが、死んでしまった今、俺の財産を継いでくれる者は誰もいない。そして、同じ名前を付けたこのレイに、俺が旅商人を辞める前に会えたのも、何かの運命かもしれない。
しかし、俺だって、まだまだ現役バリバリの男だ。これから妻をめとって、子供を作ることもできる。最初の結婚の失敗を繰り返さないためにも、結婚をするのであれば、旅商人を卒業して、帝国内に店を構えてからにするつもりだ。
そうすると、高い売値が期待できるこのレイを売って、開業資金に当てる方が良いに決まっている。
そうだ。
レイは、商品として「仕入れた」のだ。
俺は、「もっと非情になれ」と自分に言い聞かせてから、再び、眠りについた。