プロローグ
夕暮れの赤が夜の黒に飲み込まれるとすぐに、黒いベルベットの上に銀粉をまき散らしたかのように星が輝き始めた。
新月の今日は、特に煌びやかだ。
俺は手綱を引いて、二頭立ての荷馬車を停め、辺りを見渡してみた。
満天の星の輝きが、遠く草原の地平線を浮かび上がらせていたが、荷馬車が向かう先は真っ暗で何も見えない。これでは崖があっても分からない。
これ以上、進むのは危険だ。
御者台から降りた俺は、車輪止めで四つの車輪をしっかりと固定した。従順な馬たちだが、何かに驚くなどして、俺を置いて荷馬車ごと走り去ってしまわないようにしておくためだ。
荷台の両脇にぶらさげた麻袋から飼い葉を取り出し、馬に与えた。
二頭とも元気よく飼い葉を食らっていることを確認してから、荷台に向かう。
御者台のすぐ後ろは自分の荷物を置くスペースになっていて、毛布や防寒着を置いているほか、三段の引き出しがあるキャビネットを取り付けている。一段目には旅の必需品を、二段目には保存が利く食料を詰め込んでおり、鍵が掛かる三段目には買い付け用の現金や契約書用紙など、商売に必要な品物を入れている。
その後ろに続く荷台部分は、横が俺一人分の、縦が俺二人分の身長と同じ長さがある長方形の箱形で、屋根はないが、直射日光や雨から荷物を守るため、荷物には幌をかぶせて、縄でしばっている。
一箇所の縄を解いて、幌をめくる。
荷台には、北の国で仕入れてきた干しアワビや棒鱈、乾燥昆布といった海産物を詰め込んだ木箱が満載されている。
海産物も新鮮なうちに食べると旨いが、荷馬車で順調に走っても、片道七十日は掛かる距離を走破しなければならないから、乾燥させて保存食状態にして運ぶしかない。
それでも、これを俺の故郷である西の国に持っていくと、北の国での仕入れ値の十倍の値が付く。そこで手に入らない物を手に入る所から持ってきて売るだけで莫大な利益が出る。
もちろん、それだけの利益が出るのは、それを持ってくるのにかなりの時間が掛かることと、旅の途中で体調を崩して行き倒れになったり、盗賊に襲われる恐れもあるなど、常に危険がつきまとっているからだ。
そんなハイリスク・ハイリターンの商売。それが旅商人だ。
積み荷に異常はないことを確認した俺は、幌をかぶせ直して、風ではためかないようにしっかりと荷台に結びつけた。
そして、辺りの地面にいくらでも転がっている灌木の小枝をかき集めて地面に置いてから、引き出しの一段目から小さな石ころのような形の着火石を一つ取り出し、その枝の真ん中に置いた。
羊の胃袋で作られている水筒から少量の水を着火石に垂らすと、すぐに煙が上がりだし、それが消えると石が真っ赤に燃え上がり、辺りに置いた小枝に火を着けた。
この着火石は、西の国の錬金術師が五十年ほど前に発明したもので、俺も良く分からないが「化学反応」とやらで火が起きる仕組みだそうだ。
しかし、この着火石のお陰で火を起こすことが飛躍的に簡単になり、何日も野宿をしなければならない旅商人には、なくてはならない必需品となっている。
俺は、木と布でできた折りたたみ式の小さな椅子を焚き火の前に広げてから、引き出しの二段目から取り出した干し肉を串に刺して、焚き火で炙りながら晩餐をとった。
野宿では、獣たちを近寄らせないためにも焚き火は必須だ。
そして、せっかく火を起こしたのなら、そのままでも食える干し肉も火で炙ることができる。旅の間、ずっと同じメニューが続くが、暖めた飯であれば、少しは食べやすくなるというものだ。
腹がひと息つくと、焚き火の近くに毛布を丸めて置き、それを背もたれにして仰向けに地面に寝転がった。
懐から地図を取り出し、両手で持ち、星空に向かって広げた。
この世界は、一つの大陸とそれを取り巻く大洋でできている。
大陸は「イシュタル」という名前を持っているが、呼び分けるべき別の陸地はないのだから、その呼び名を使うことはまれで、俺も「ここ」とか「この大陸」と呼ぶことが多い。
地図によれば、この大陸は「+」という形の上下左右に突き出た四つの棒の先端に丸い団子が付いているような形をしている。そして、この四つの団子の部分にそれぞれ、国がある。
「北の国」と呼ばれる「ヴァルトリング帝国」は、“+の字の上に付いている団子”を領土としているが、その団子の南端部分にそびえる険峻な山脈が自然の要害となっており、一方が崖になっている、くねくねと曲がりくねった細い山道を抜けて往来するしかない。
「東の国」と呼ばれる「シン帝国」は“+の字の右に付いている団子”を領土としているが、その団子の西端部分に広がる広大な砂漠が自然の要害になっており、砂漠の中に点在するオアシスをたどりながら往来するしかない。
「西の国」と呼ばれる「フランツガルト帝国」は“+の字の左に付いている団子”を領土としているが、その団子の東端部分に広がる広大な湿地帯が自然の要害になっており、足や車輪がぬかるみに取られないように注意しながら往来するしかない。
「南の国」と呼ばれる「オスラロッサ帝国」は“+の字の下に付いている団子”を領土としているが、その北端部分に広がる広大な密林が自然の要害となっており、生い茂る樹木をかき分けながら往来するしかない。
地図で見ると、東西南北に突き出た団子部分は、海を斜めに横切るとかなり近いのだが、残念ながら、これまで海路で団子間を行き来して成功した者はいない。
この大陸を取り巻く海はどこも、沿岸部ではほとんど無風なのに、少し沖合に出ると急に風が強くなり波が高くなる。つまり、陸地沿いに帆船を走らせることは不可能だし、少し沖合に出るだけで難破の危険性が高くなる。したがって、海路で物や人を運ぶことは不可能なのだ。
したがって、四つの国の間を行き来するには「+」の部分を通って行くしかないが、その部分を通り抜けるだけでも、荷馬車では三十日近く掛かる。歩兵を含む軍団だともっと時間が掛かるだろう。
また、それぞれの国の入り口にあたる場所には、山脈、砂漠、湿地帯、密林と、大軍を一気に侵攻させることができない天然の要害があることから、歴史上、四つの国同士の戦争は起きていない。四つの国は、太古からそれぞれの“団子”の中で独自の文化を栄えさせてきた。
しかし、細くとも道が繋がってさえいれば行けないことはない。不思議なことに、遠く離れた四つの国の言語はほとんど同じで、この大陸の人間であれば、どこに行っても意思疎通ができるのだが、それは、文明の黎明期から四つの国の間に人の行き来があり、言語の統一化が自然と図られたからだと考えられている。
そして、その役目を担っていたのが、俺たちのような旅商人だというのが定説だ。
長い距離を移動するのであるから、大規模な隊商を組んで、多くの荷物を一斉に運んだ方が効率的だと思われるだろうが、隊列を組んで移動をしていると目立つから盗賊どもの標的になりやすいし、四つの国の手前に広がるそれぞれの要害を抜けるのに、機動力に優れる単独行動の旅商人よりも倍近い時間を要してしまう。
だから、今、旅商人として活動している者のほとんどは単独ないし少人数で活動している。俺もずっと一人で旅をしてきた。
しかし、一人旅でも運悪く盗賊どもと遭遇する可能性はある。だから、盗賊を返り討ちにできるだけの武芸を自ら身につけたり、あるいは腕の立つ護衛を雇っておく必要がある。
かく言う俺も、武芸大会で優勝できるだけの格闘術は身につけているつもりで、実際にこれまで襲ってきた盗賊どもはすべて返り討ちにしている。
もっとも、齢四十を超えようかという今、少しばかり体力が落ちてきていることも実感していて、そろそろ護衛を雇おうかと思案しているところだ。
俺が今いるのは、四つの国を細長く繋げている「+」の部分だ。
どこの国にも属さずに、四つの国の緩衝地帯として、大昔から変わらずにある「十字路高原」と呼ばれるこの一帯は、どこの国にも属していない遊牧民の部族たちが家畜とともに自給自足の生活をしているだけで、国はもちろん、街もない。
もっとも大昔には、ここ十字路高原に星の王女様とやらが降り立って、「星の王国」と呼ばれる神聖な国が創られたそうだが、十字路高原をもう何度となく往復している俺はもちろん、他の旅商人たちも、星の王国の跡らしきものを見たという者はいない。
星の王国は神話の中にだけ存在する幻の国で、その存在を信じているのは、「星の教団」と呼ばれる小さな宗教団体に加入している一部の夢想家たちでしかいない。
しかし、覆い被さってくるように輝く満天の星を見ていると、ここを「星の王国」と名付けたくなる気持ちも分からなくもない。
上半身を起こして、辺りを見渡す。
たまたま、好意的な遊牧民部族の一団に出会うと、夕餉に招待してくれることもあるが、今日は辺りに焚き火の灯りすら見えない。
明日の朝も早い。辺りが明るくなれば、日の出前であっても出発することはできる。
もう眠ることにしよう。
地図を懐に仕舞うと、丸めていた毛布を平らにして、その毛布の上に寝っ転がった。
季節は春。
毛布をかぶらなくても、ちょうど良い気温で、ずっと馬車に揺られていた体にたまっている疲れが少しずつ染み出てきているようで、すぐに眠気を催してきた。
まぶたを開けていることが次第に苦痛に思えてくるようになり、そのまま眠りに落ちようかとした、その時!
まるで時間を勘違いして太陽が飛び出してきたかのような眩しさをまぶたに感じた。
目を開けた俺の視線に飛び込んで来たのは、俺の頭からつま先の方向に向かって夜空を横切る巨大な火の玉だった!
流れ星なら何度も見たことがあるが、火の玉は初めて見た。
一瞬、俺に向かって落ちてきているように見えて焦ったが、上半身を起こして、火の玉を目で追うと、火の玉は俺の足先の方向に落ちていった。
立ち上がり、その行方を追おうとしたが、すぐに火柱が上がり、爆音が響いた。
同時に、地面が大きく揺れてよろめいたところに爆風が襲ってきて、俺は後ろに吹き飛ばされてしまった。
すぐに立ち上がり、火の玉が落ちた方向を見ると、キノコのような形の煙が立ち上っていた。
俺はすぐに荷馬車に乗り込み、火の玉が落ちたと思われる場所まで走らせた。
すぐに着いたそこは、丸く大きく窪んでいて、手前で荷馬車を降りた俺は、その窪みの淵に立った。
窪みの中心には、赤く輝く大きな岩のような塊があり、もうもうと黒煙を上げていた。
「あれが火の玉の正体か?」
一人、そう呟いた俺は、窪みの中に入ろうとしたが、少し近づくだけで火傷しそうなほど熱くなっていて、とても近づくことはできなかった。
俺は、窪みの淵に戻り、しばらく赤い塊を見つめたが、近づけるほどに冷めるのにもしばらく時間が掛かりそうだ。
明日の朝にでも、もう一度、様子を見に来ようと思い、元いた場所に引き返そうとした俺の目に緑色の光が見えた。
灌木の根元で輝くその光に近づいていくと、光っていたのは緑色の小さな石であった。
「何だ? 宝石か?」
しかし、自ら光り輝く宝石など見たことがない。
おそるおそるその石を拾うと、光はすぐに消えた。
俺の親指の第一関節程度の大きさの石はどこからどう見ても、どこにでもある緑色の石であった。
しかし、また光るかもしれないと思い、その石を懐に入れると、俺の耳に小さな音が聞こえた。
いや、音じゃない。声だ。……それも、赤ん坊の泣き声だ。
その声を頼りに周囲を見渡すと、すぐ近くの地面に置かれた白い毛布が目に付いた。
さらに近づくと、生まれたばかりだと思われる赤ん坊が毛布にくるまれて、弱々しく泣き声を上げていた。