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最初に入ってきたのは、その部屋の熱された空気だった。
不快感をあおる熱が鼻腔から入る、その感覚に覚醒した。
優秀なエアコンが、動くものがないと検知して、どうやら勝手に電源をオフにしてしまったようだ。カーテンを閉じた部屋の中は、隙間から差し込む光と外気からの圧力で、すっかりセイロの中のようになっている。
起き上がってすぐに、眠る前とは違った頭の痛みを感じて、莉子は顔をしかめた。
肌や髪がべたついていて、解熱後のだるさもひとしお。カーテンを開くために腕を伸ばしたところで、下着のままだったことに気づく。いつも朝感じる気怠さとは違う体の重さも、前日の体調不良によるものと思い、莉子はやるべきことを続けた。
リモコンでエアコンを強で入れて、チェストの取り出しやすい場所に入っていたロングワンピースを頭からするりとかぶる。下着を抜き取りながら、洗濯機へ向かい投げ入れ、新しいものに着替えた。不快感が少しマシになったところで、口の渇きが気になって流しに向かった。
流しには、昨日ハルが入れた牛乳を飲んだグラスが二つ、中身がからからに渇いた状態でそのままになっていた。その乾燥しきった流しを眺めながら、新しいグラスを出して、うがいをして、そのまま注いだ水道水を一口含んだ。それを喉の奥へと飲み込むと、体が、水を欲しがった。一気に飲み干して、空になったグラスに冷蔵庫から出した牛乳を並々と注ぐ。
流しを背にしてその淵に少し体重をかけたまま、ふと見渡した部屋から、何かの違和感を莉子は思った。うっすらと積もる気配に、いつもとは違う何か、気づけそうで気づけない何かがあるような気がして。
牛乳を入れたグラスを持ってソファーへ移動していると、スマホのバイブが聞こえてきた。グラスをローテーブルに置いて、ベッドの枕の横に置いてあるそれに、莉子は、急ぎ手を伸ばした。
「やっと出た!」
昨日と同様に、生命力あふれる葵の声が聞こえる。
「あのさぁ、もう昼なんだけどぉ」
そう葵に言われて、莉子は思い至った。
「…あ!」
今日は平日だった。サボるということに縁のない莉子にとって、それは驚きの事実で。
「うっそぉ。どぉしよう…」
「何回、電話したと思ってる?心配したんだから」
「ごめん…。…あと、送ってもらって助かったよ」
「送ったのは樋口さんだし、それは良いの。それより、昨日は、あいつも午前中休めって言ってたから、体調悪いってことで有給で処理してくれたけど。今日もってなると…。ごまかしておいたけどさ、明日はどうする?それに、どこに居るの?私、昨日、そこまで行ったんだよ。何度鳴らしても、スマホにも出ないし、部屋にもいないみたいだし」
牛乳を飲みこみながら、葵の話を何とか理解しようとして、莉子は眉間に皺を寄せている。
「何?何の話?」
昨日は、葵に送ってもらった後、ハルが消えてすぐ眠った。それ以降に、葵が部屋に来たということだろうか。葵の話が腑に落ちない。
「今は、部屋にいるのね?昨日は?」
「昨日って…葵に送って帰ってもらってから、すぐ寝たよ」
そう話す莉子の言葉を、葵は頭の中で反芻する。何かがおかしい。そう考えて、まさかと思いつつも、葵は莉子へ次の質問を投げた。
「…今日、何曜日?」
「え?水曜日でしょ」
まさかと思っていたことが、莉子のその答えで、葵の予想を裏付けた。
「違う…木曜日よ」
そう答えた葵に、莉子は一瞬言葉を失った。
そして、起きてから感じる小さな違和感の正体が、それだと気づいた。
わずかに積もる埃の感じや、渇ききった流しや、体の重さや口の渇き、部屋の淀んだ空気、小さな違和感が積もり積もっていた。それが、葵の答えで、ようやく理解した。
それでも、まさか二日間も寝て過ごしたとは信じがたい。その言葉を疑う訳ではないが、何か客観的な確証がほしくて、莉子はテレビのリモコンに手を伸ばした。番組表を出してその日付を確認する。
「うっそっ」
「ほんと。だよねぇ、私も、うそって感じ」
「…どういうこと…?」
「そういうことでしょ…。あんた、40時間ほど寝てたってこと」
「…計算、早いね」
「そういうことじゃないでしょー、ないない、そんな寝ないから、普通は!病院行って。明日も休んで。上野さんには私が言っておいてあげるよ」
莉子の上長の名前を、葵は覚えていたようだ。社内からの電話では「ハゲ」とは呼び難いのだろう。
「電話は、自分でするから大丈夫…もう、起きたし」
「体調が戻ったからって、食べて治すとか言わないで、ちゃんと病院行ってよ」
葵のその言葉に、莉子はぎくりとした。
「…だって、ほんとに、今は大丈夫だから…」
小さな子どもの言い訳のように、段々と声を小さくしてそう答える莉子に、葵は肩を落とした。
「やっぱり、行く気なかったかぁっ。あ~、あの日、病院連れて行けばよかった」
「送ってくれた日?それは樋口さんに迷惑だったでしょ。その方がヤダワ、私」
「…そう言うだろうとも、思ったんだよ。それで、やめたんだよねぇ…。じゃ、今日、仕事早めに終わりそうだから、帰りに寄るね。それはヤダとか言わず、甘んじて受け入れなさいよ」
「…部屋、汚いし…」
「あんた、病人だから!汚くて良いのっ」
「…イエス、マム」
そう答えた莉子に、葵は鼻で笑って答える。
「そういうこと言えるってことは、元気になったんだろうと思うよ、思うけどね…。まじで、人間、そんな寝ないからね!何か必要なものあったら夕方までにメッセージ送って。重い物も、誰か捕まえて乗せてってもらうから」
また樋口のような被害者が出るのかと思うと、欲しい物は色々と思い浮かんだけれど買い物リストを送る気にはなれなかった。葵の媚に抗える男もそうそういないとは思うし、頼られて喜ぶ男の方が多いのかもしれない。いやいや、病後の自分なんて、そうそう他人に曝したくはない。病院にも行こうか、ついでに買い物と散歩をしても良いかもしれない。
この淀んだ部屋から少し外へ出た方が良い気もするし。
葵の言葉に曖昧に笑いながら時計を見ると、もうすぐ昼休みが終わる時間だった。
「そろそろ昼休み終わるね。午後もお仕事、がんばって」
「あんたは、病院行きなさいよぉ」
そう言って、葵は通話を切った。
ずいぶんと怒っていたな、その葵の表情を想像して、莉子は笑った。
きっと、ランチを流し込んで作った時間を充てて、非常階段にでも陣取って、こっそりと連絡をよこしてくれたんだろうと想像できる。随分前にも同じようなことがあったと、莉子は思い出す。その記憶を丸ごと捨て去ろうとしていた自分を、少し、残念に思った。いつか、その全てを受け入れることができるだろうか。その時になれば、こみ上げる真っ黒な思いを押しとどめて、記憶のピースとして扱うことができるのだろうか。
ふと、去年の冬、この部屋に引っ越してきたばかりの頃に、インフルエンザの予防接種を近所で受けたことを思い出した。財布から出てきたその病院の診察券に、今日の午後の診察時間を確認する。
莉子は立ち上がって窓を開け放った。
「今日も、暑いわねぇ…。」
流れる雲は秋の様相でありながら、なかなか夏日が抜けない。毎年のように話題になる気候は、このところの秋と言ってしまって良いような気もした。病院へ向かうことをためらうような気温だとも思った。でも、一度向かおうとした気持ちへ添うことが、今日はできそうな気がして。
向かった内科で、莉子は、ただの夏風邪と告げられた。ほぼ二日間も眠ってしまったことは伏せていたので、
「こじらせた夏風邪が治ったところですかね、喉の腫れもありませんし、肺の音も問題ありませんよ。…少し水分が不足している様子ですが、自力で飲めるようですので、大丈夫でしょう。今日は、気を付けて少しずつ継続して水分を飲んでください。念のため、抗生物質の弱いのを出しましょうか…。もし、悪化することがありましたら、点滴などで対応しますから、また来てください。」
中年の医師にそう言われ、その道中にあるドラッグストアで処方箋の薬を出してもらい保存食とパンと飲み物を買って帰宅した。
帰宅すると当然のようにハルが玄関へと駆け付けた。
「おかえり!」
元気に奥から走り込んできたハルに、莉子は「ただいま」と答える。
そして、ハルからも葵と同じようなことを言われる。
「昨日、朝と夜と、来たけど、リコ起きないんだもん」
「ハルも来たんだ…。よっぽど、眠たかったのよ」
そう莉子が答えると、
「そうだね!寝てたもんね!」
とハルが元気に答えた。
「お前は、素直だね」
「すなおって、何?かっこいい?」
「かっこいいよ、たぶん」
「たぶん、が、つくの?」
「…かっこいいよ」
「そっか。えへへ」
「で、今日はどうしたの?」
「ねぇ、ねぇ、リコは?今日は、お仕事ないの?」
「ないよ。お休み。明日も、休んじゃう」
「やったぁ~!ねぇねぇねぇ、一緒に寝ても良い?」
「…良いよ。良いけど…どっかに連れていかないでね」
「うん?行かないよ。だって、ここが楽しいもん」
「そう」
その真意を理解しているとは思えないが、ハルに悪いものは感じられない。次の言葉を言って、今の自分にはそれほど思い残すこともない。むしろ、それで膿が癒えるのならば…と自虐めいて思ってしまう。そんな都合の良いこともないだろうけれども、きっと、これ以上の悪いことは起こりがたいような気がした。何より、ハルのまとう空気は居心地が良い。
「いらっしゃいませ。我が家へようこそ」
莉子はそう言ってハルを受け入れることにした。
それを聞いたハルも「おじゃましまーす」と、おままごとで遊んでいるようなノリで、元気な声をあげる。
ハルからは言質を取ったような気配は感じない。気負い過ぎているのか…と莉子は思った。
「そうそう、今日は、夜、友達が遊びに来るから」
「分かったぁ。でもぉ、一緒に寝てくれるんだよね?」
「良いよ。友達が帰ったら、おいで」
聞いても「分かんない」と言うんだろうけれど、葵が帰ったことをハルはきっと察して、その後でやって来るのだろう。
「分かった!」
子どもらしいハキハキとした物言いで答えるハルに、莉子は微笑んだ。