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夜空のハル  作者: 里村
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 葵と樋口を見送った直後の玄関で、莉子は、横に並ぶハルを見下ろした。

 サラサラな髪が玄関のライトに照らされて輝いていた。小さなつむじが見えてつついてみたくなる。

「ハルの髪ってきれい。よしよししたくなる」

 そう言われて、不思議そうな顔で莉子を見上げて、ハルはニッと笑った。

「ねぇ、今日は早かったねぇ」

「そうね」

「なら、良いでしょ」

「…良いけれど…」

 施錠しても入り込むハルに、もう、莉子は慣れてしまっていた。まさか、先に入っていて『ただいま』と声をかけられることがあるとは、思いもよらなかったけれど。しかも、自分以外の人間がいる時に。

「ねぇねぇ、あの人たちは、お友達?」

「そうね、大きな意味ではお友達かな」

「お友達に小さいのがあるの?」

「…そういう意味じゃないけどね」

 二人の目に、自分が映っていないことを、ハルは気づいているのだろうか。

 何から聞けば、小さな子どもに理解できて傷つけずにすむのか莉子には見当がつかない。そもそも、この存在に、気を使うとか、配慮するとか、そういうことをして、良い物かどうかも分からない。

「今日ねぇ、今日ねぇ、すごく、楽しい!ずっと大変だったことが、できたんだよぉ」

 そう話しながら、部屋の奥へかけていくハルを追うように、莉子も短い廊下を進んだ。

「ほら」

 そう言って、得意げにローテーブルをハルは指差す。

 そこには、グラスが二つあった。

 牛乳がなみなみと注がれている。

「牛乳ね」

 何を喜んでいるのか分からない莉子は、眉を寄せてそうつぶやく。

 牛乳が減り始めて数か月、まさか、こんなことが理由だなんて、初めは思いもよらなかったな。莉子はそんなことを思った。

 それを見て、あからさまに落胆の表情を浮かべるハルを、莉子は苦笑して見つめた。

「上手に注げたってこと?」

「そう!」

 顔を上げたハルの目は、思った通りの反応をもらって、きらきらと輝いている。『そうでしょ、そうでしょ』とでも言いたげで。褒められたことを素直に喜んでいる様子に、莉子の心は少し凪いだ。

「すっごく、たいへんだったんだよ。でも、今日はできるの!」

「そう、良かったね」

 喜んでいるハルを見ていると、自分が訝しんでいる物事が、細事に思えた。それでも、聞かずにはいられない。

「…あのさ、私、鍵を閉めて行ったんだよね。ハルはどうやって入ったの?」

「う…ん…。わかんない」

「玄関から?」

「…ううんっと…。わかんない。それより、牛乳飲もうよぉ」

 莉子の手を引いて座らせようとした時、その手が、すっと莉子の手を通り抜けた。空振りをした勢いで、ハルはだんっと転がってしまった。起き上がりながら両手を眺め、表情を硬くしている。

「…うん?なんで?」

 莉子を見上げてそう言うハルは、少し怯えているようにも見えた。

「牛乳は持てるの?」

「うん」

「じゃあ、飲もうか」

 飲めるのだろうか?そんな疑問もあったけれど。他にこの子を慰める方法が、思いつかなかった。

 一口飲んで、それがとても冷たいことに気づく。冷蔵庫から出したばかりのそれは、解熱しきっていない莉子の喉を、その存在を存分に伝えながら胃まで落ちてゆく。

 それが、まぼろしではないこともまざまざと感じた。

 莉子はハルを見た。

 ハルは、両手でかかえるようにコップを持って、口までそれを運び、一口ふくんで、なんとか嚥下している。喉が少し上下したように、莉子には見えた。

 飲めるんだ…。

 莉子とは手も触れ合えないのに、牛乳を飲んでいるハルを、莉子は心底不思議に思う。これは何と言う存在なんだろうと。

「良かったね。上手に飲めたじゃない。」

「へへへ。」

 褒められて照れ臭そうに笑う、そのあどけない表情が、莉子には少し痛々しくも映った。

 いつか…いつか…、気づいてしまうだろうに…。

 グラスを傾けて、莉子は残った牛乳を飲み干した。それを見たハルが、嬉しそうに言う。

「パパも、あのね、僕の入れた牛乳をね、喜んでたの。えっとねぇ、疲れた時に良いなって。リコも、リコも、疲れてたでしょ、近頃。だから、だからぁ、今日は、牛乳入れてあげられて良かった…」

 そう一息に話したハルは、微笑みながら姿を薄く透けさせて、どんどんと後ろにあるものの境界を伝える。

ハルは、消えた。

「そう、そういう…こと…だよねぇ…」

 それを見て莉子は、そんな風につぶやいて、なんとなく深いため息を吐き出した。

 ハルが居なくなった空間を脱力して眺めていると、思い出したかのようにこめかみに痛みが戻ってきた。ズキリズキリと、痛みが増す。薬の入っているケースを開けて、頭痛薬を探した。それを口へと投げ込み、動くたびに響く痛みに耐えながら水を求めて流しの方へと向かう。ベッドまでの数メートルが遠くに感じて、こんな時に気軽に呼び寄せられる人が自分には居ないことを考えて心も重くなってしまった。だからと言って、そこで立ち止まるわけにはいかないのだと、思う。ただのベッドまでの距離を、苦行の一環のように位置づけて、自分の脳と足を動かした。莉子は、のろのろと近づくベッドへ向かいながら、シャツとスカートを脱ぎ捨ててどうにか下着だけになると、ブランケットの中に潜り込んだ。


 ここではないどこかへ、できれば、何も考えなくて感じなくて良いところへ。


 眠りに落ちる前に思う呪文のような言葉を心で唱えて、莉子は静かに目を閉じた。






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