5
ハルは、見計らったように、莉子の帰宅後にやってくる。
数日は顔を見ては逃げ出した。「こらっ。」と莉子が玄関へと追いかけ、玄関を開けるといなくなっているので、そこで追いかけっこが終わる。その後の一週間ほどは、追いかけても戻ってきて、また追いかけて。
莉子の部屋にいるのは、数分。長い時間ではなかった。
初めて顔を合わせて一月ほどすると、ハルは話しかけてきた。
遠慮がちに近づいてきたハルに気づいた莉子が追いかけようと立ち上がると、
「ね、ちょっとだけ、遊んで行っても良い?」
と、小さな小さな声でつぶやいた。
「なんだ、話せるの。…ママかパパは?」
「いない」
ネグレクトかとも思ったが、痩せすぎてもいないし、汚い風貌でもない。少々顔色が悪いような気もするが、事情があるのかとも思った。保護者が夜働いているため夜に強いとか、昼寝をし過ぎて寝つきが悪いとか、何かしらあるのかと思い…それなら夜中にこんなところに上がり込むことも仕方がないのか…と、辻褄を合わせるような感じで莉子は思いを巡らせる。
「おばあちゃんと一緒とか?」
「違うけど。僕もよく分かんない。でも、ここは気分が良くて。居たいなって思ったの」
「そう…」
そんなかわいいことを言ってくれる子どもを追い返してはいけないような気分になった。自分はチョロい。莉子は探るように見つめ返す瞳を見つめた。
そうは言っても、夜、子どもが一人うろついて良い時間ではない。
「でも、夜遅いからダメ。ちゃんと帰って。一緒に行ってあげる。怒られないように連れて帰ってあげるから」
「…分かったぁ。ねぇ、次は、早い時間に来るね。それなら、良い?」
そう言うと、手を取ろうとした莉子からきびすを返して、いつにない早足で玄関の方へとハルは駆けていってしまった。その後ろを追おうとして廊下へと顔を出し「明日は残業だけど…」とつぶやいても、時すでに遅く。ハルはもう外へと出てしまっていた。
おかしなこと辻褄の合わないことが、この時点でたくさんあった。にもかかわらず、それを莉子は受け入れていた。思った以上に違和感なく。
こうしてハルは莉子の部屋への切符を手に入れた。
「おはよう!」
翌日、宣言通り、ハルはとても早い時間にやってきた。
「…おはよう…」
寝ぼけているのかと思い、莉子はスマホに手を伸ばして時間を確認する。5時過ぎだった。厚いカーテンの縁から部屋に滲む光で、外の明るさが知れる。その日も暑くなりそうだな、そんなことを考えて、再び足元に目をやると、先ほどと同様にハルがニコニコと笑って立っている。
「ねー、早いでしょ。これなら良いでしょ」
子どもって、上げ足とるつもりじゃなくて、真面目に言ってんだよね、こういうこと、きっと。
「…ふうぅ。」
長い溜息を吐き出して、小さな苛立ちを鎮めた。だから子どもってヤナンダヨ…とは、言いにくい、言ってはいけないことだ。
「こんなに早いと、お家の人が、心配するよ。勝手に出てきたんじゃないの?」
「んんん…勝手には出てきてないよ!」
これくらいの子どもの言っている内容をどこまで真に受けて良いのか、莉子は知らない。
「そうなの?それにしても…」
今日は残業予定だからもう少し寝たかったのに…。
「ね、おばさんは、子どもいないの?」
「あ~、もう」
部屋に上がり込んでいたずらされ、早朝に無理やり起こされ、その上の『おばさん』発言に、莉子は頭をかきむしる。
「もうさぁ、朝から、人の眠りを邪魔した上に、おばさんって」
「なあに?お名前、呼んでほしいの?お名前、教えてよ」
首をかしげながら聞いてくるハルの表情は悪びれていない。悪いことをしている自覚はない。この苛立ちは、ハルからすれば大人の事情なのかと、莉子は不機嫌な頭で考えた。
「莉子よ」
「リコ!」
ベッドから立ち上がった莉子は、ハルの横を通り抜けてトイレへと向かう。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ」
トイレの中に入った莉子に対して、扉の外からそんな風に話しかけてくるハルを、莉子はどうしたものかと考えた。
「あのさ、お前は、なんて名前なの?」
「ハル」
「ハル、まず、私くらいの女の人を、おばさんて呼んじゃだめ。鼻をへし折りたくなるから。あと、早く来るって言っても、この時間はダメ。幼稚園とか学校とか行ってないの?朝ご飯とか準備とか、何かやらないといけないことあるでしょうに…」
「えー、おばさんじゃん」
半分も話を聞いていないハルの返事に、莉子は大きなため息をついて、何か言おうとした時だった。
「ね、ね、明日また来るね」
そう言うハルの声は、遠ざかるようにどんどんと小さくなっていく。用を足した莉子がトイレから出ると、ハルはトイレの扉の前から姿を消していた。