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「あのさ、私って、どこか…変化ある?」
社食でのランチ中、前置きなしでそんな質問を投げてきた莉子に、葵は目を見開く。
「は?」
口を開けたまま、その顔で見つめてくる葵に、莉子は眉を寄せる。
「漠然としすぎてるわ。何?きれいになったとか?痩せたとか?ニキビでもできた?まさか、男ができた?」
「葵の方が、飛躍しすぎ」
「じゃあ、何」
「う…ん…。あのさ、無意識に、冷蔵庫の中の物、飲んだり食べたりしたことある?」
「は?」
葵は、再び、目を開き口を「は」の状態のまま、莉子を見つめた。
「この質問は、答えやすいと思うけど?」
「前の質問と今の質問の、間がなさすぎ」
「…そう、ねぇ…」
歯切れの悪い莉子をしばらく観察して、葵はそれに答えることにした。
「ないよ。あるわけない。私、夢遊病でもないし疾患もないし。寝ぼけてそんなことしたことない」
「だよねぇ…」
莉子のその返事を聞いて、葵はふーっと一息、息を吐き出した。
葵も、莉子が痩せ衰えてゆく様子を知っている一人だ。その理由ももちろん知っている。冗談でも「男ができた?」と問えるほどに回復したことを、喜んでいる。二か月ほど前までの数か月、予定のない週末は、できるだけ莉子の部屋か葵の部屋に泊まって、莉子を一人にしないようにしていた。支えたとまで豪語するほど恩着せがましくはないが、心配をしている身の上だ。入社してもう数年だが、これほど気の合う友人ができるとは思っていなかった葵に、莉子の存在は大きい。莉子が平常を取り戻しているのだとしたら、そのまま浮上してほしいと、葵は願っている。だから、この話を掘り下げて良い物かどうか迷う。あまり根ほり葉ほり聞くようなことをすると、莉子は逃げを打つから…。
もう少し様子を見てからにしよう、そう葵が決めて、定食の生姜焼きに箸を戻した。
「牛乳がさ、なくなってくのよ」
その脈絡のない話に、葵は睨むように莉子を見て、生姜焼きを噛み砕きながら問いかけた。
「分かるように説明してくんない?なんか、とんちか何か?価値観とかの話じゃなくって、現実に牛乳が減ってくってことで合ってる?」
「そう」
「説明する気、ないでしょ、莉子」
「…私も、説明しがたい…ん、だよねぇ。牛乳って、夜中に飲んでも、困ることって太るくらいだから。ビールとか飲んでるわけじゃないからぁ…って思って」
「…話が見えないんだけど。自分の部屋の冷蔵庫で牛乳が減ってくのって、自分が飲んでるからでしょ?で、それを覚えてないってこと?」
「そうね、そういう話になっちゃうよね」
まるで他人事のようにそう言う莉子に、怪訝な表情で葵が答える。
「体重が恐ろしく増えたら考える?…もしくは、夢遊病を疑って病院に行く?」
「夢遊病って、牛乳を夜中に飲んでるみたいなんですけど~って診察してもらうのかな?」
「それも…なんか…あれだね」
「でしょ、話せば話すほど、たいしたことじゃあないんだよねぇ…」
「泊まりに行ってる時に、そんな素振りなかったけど?」
「…だよねぇ…」
「久々に、泊まりでどーよ?今週は、莉子も残業少ないんじゃない?」
そう言いながら、葵がにやりと笑ってビールジョッキを上げる素振りを見せた。
「ほんと、そう言えば、最近、家飲みしてないね。葵の仕事は?」
「週中で一段落して、たぶん、今週は大丈夫」
「じゃあ、金曜か土曜に、家飲みしよう、よ」
その週中で終わるはずの葵の仕事が長引いたため、場所が莉子の家へと変わった。葵に相談して数日、その間も、牛乳が減る。それだけが、莉子が自分の部屋に葵を招くことへの気がかりだった。
帰宅した後に、ビールと買ってきたおにぎりで夕食を食べて、どうにかシャワーを浴びてベッドへ転がり込んで。
いつものように残業を終えた莉子の日常の夜が終わる頃。
月のわずかな光の筋が、カーテンの隙間から部屋に差し込んでいた。
目を閉じると耳に届く、いつもの町の雑踏。幹線道路から届く走り去る車のエンジン音やクラクション、信号の明滅、車のライトの流れ、人々のあげる幸せな笑い声や罵り合い、手を繋ぎ歩く二人の足音、コツコツと響くヒールの音、自転車のギア音、看板から漂う電子音、街灯の下を舞う昆虫の羽音、誰かの嘆き、悲しみ、エレベーターの到着音、コツコツ響く革靴の音…大勢の人が蠢いている生と動の気配が、閉じた部屋の中までやすやすと侵入を果たす。
自分もその一員であり、ただの一部にすぎず、その他大勢と同様にたった一人で、珍しいことでもない、そう、私は独り。
実家の両親や飼っている猫や幼馴染や同級生や近所の人や同僚や、繋がり合う人たちとのリンクがふつりと切れた。そんな風に感じて、底のない穴に、落下を続けていたことがあった。
今は、重い体でも、動かす心があるから、なんとか、きっと、やってゆける。
立ち上がって、カーテンを引いた。
闇に落ちた部屋で、莉子はタオルケットを体に巻きつけて目を閉じた。
眠りが早くやってくるように。
何も考えることがない所へ行ってしまえるように。
聞きなれた音が、聞こえた。
ここ数日、それは気配を強くして、浅い莉子の眠りに、するりと入り込む。
目覚めた時間を、スマホで確認して莉子は、あれだ、と思った。
起き上がってパーテーションの隙間から見えるローテーブルに目をやる。閉めたはずのカーテンが数センチ開いて、薄い光が差し込んで、それがあることを莉子へと示す。
「はぁ」
人間は慣れる。どんな奇異なことでも、気配が安全だったり、自分への悪意を感じなかったり、それで生命の危機が訪れることがなければ。それでも、やはり、おかしいことだと、莉子は思うし、実際に目の前にあるのは、 おかしなことで。
「せっかく入ってるんだから、目も覚めたし、飲もうかな」
そう言って莉子は、そのローテーブルを覗き込むように、パーテーションを回った。
すると、居た。
あんまりなことに出会うと、人って固まるんだなぁ。
そんな冷静な自分を莉子は感じて、
「だ?なっ?」
と、驚いた自分は声を上げていた。
その男の子は、莉子の声ではなく姿を先に目にしたようで、莉子が声を上げるより前に、ダダッと廊下の先へと走って行ってしまった。まるで、いたずらが見つかったような、子どもらしい反応に、莉子は平常心を取り戻した。そして、瞬時に、近所の悪ガキが親の目を盗んでどうにか入り込んで、こんな手の込んだことをしているのだろうと、思ったのだ。
そんなことをしでかすには遅すぎる時間に、逃げて行った足音が聞こえず、外へと出た扉の開閉の音がしないことにも、莉子は気づいてはいなかった。
そして、その男の子ハルとの妙な付き合いが始まった。