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やはり、莉子は眠ってしまった。
スーパーに着いても起きる気配がなく、葵は一人でスーパーの中へと向かうことにした。
「樋口さん、このまま乗っててもらっても良いですか?」
「え?買い物、一人で行くの?」
「だって、莉子一人置いてくのも忍びないし。なんか心配で」
「大丈夫、この車、チャイルドロックかかるから。鍵閉めて行けば。ペットボトル重いでしょ、一緒に行くよ」
樋口が、買い物に付き合うつもりでいたことを感じて葵は少し驚いていた。
「チャイルドロックって、樋口さん」
小声で笑った葵に、樋口は続けた。
「車が走り始めて数分で寝てたから、このまま静かに寝かせてあげたいし。さ、行こう」
そう促して運転席のドアを開けて、樋口は静かに車外へと出てしまった。
「了解しました。遠慮なく、重たい物、買わせてもらいますねぇ」
続いて外へ出た葵が樋口を見てそう言うと、「了解」と樋口が答えた。
二十分ほどで二人は車へと戻ったが、莉子はドアを閉めた時と同様に眠っていた。
「葵ちゃんは莉子ちゃんの住んでるところ、知ってるのかな?」
買ってきた荷物をトランクに詰めて、乗り込んだ所で樋口は葵へ言葉をかけた。
「ええ、もちろん。近くまで行けば。そこまではナビにお願いしますけどね」
ナビを操作しながら、葵がそう答えた。最寄駅を聞いた樋口は、なんとなく道程が見えたが、ナビに従って行くことにした。
社用車に付いているナビは、混雑していても大きな道を選ぶ傾向にある。それでも、ナビの通りに行けば迷う心配もなく、その方が樋口も葵の話に集中できそうだと考えていた。社内の噂話やこの機会に聞きたい仕事上の質問などから趣味や休日の過ごし方など、話題が尽きることはなく、思いの外、時間が早く過ぎて行った。
莉子の降りる駅の近くに来たことが分かった葵は、後部座席を肩越しに確かめる。莉子は樋口の後ろの席で、ドアに体を預けたまま、未だ熟睡している様子だった。
「混んでますねぇ…でも、あと一〇分ほどで着くと思います」
葵の言葉にうなずいて、樋口は葵が指示する方向へと曲がった。
曲がった先の交差点でも、信号までのろのろと進む。駅の近くの交差点は、帰宅時間の中盤とでもいった混雑を呈していた。信号が変わっても、なかなか進まない車列の後ろで、少し静かになった時だった。
「…ああ、僕、ここ知ってるなぁ。」
少し混雑から離れた所で、樋口が止まった交差点でそうつぶやいていた。
「通ったことがあるんですか?」
「いつだったかなぁ、その日も社用車で帰社途中で。夜遅くだったか…。前でパトカーとか救急車とかがいて、物々しくてさ。何だろうって通った覚えがある。変な時間に混んでたから印象に残ったんだ」
「あ、それって、ひょっとして、去年の春です?」
「…ああぁ、そうだったかなぁ。同期に誘われた花見に行けなかった日だったな。何があったか知ってるの?」
「ほら、あの看板ですよ」
葵が指差した先に、ガードレールに縛られた大きな看板があった。ちょうど赤信号で停車してはいたが、先頭車両からは数台後ろで、運転席からはなお見えにくい。樋口は葵に話を促した。
「事故があったんですよ、たぶん、樋口さんの見たのも、あの事故じゃないかな…。幼児とその母親が巻き込まれる事故があって。いまだに目撃情報を探してるみたいで。ずっと、あの看板、出てるんですよ」
「へぇ。よく知ってるね。葵ちゃんって、情報通」
「たまたま、どこかで見たんですよ。悲劇的な事故だったって。同情的に語られてたのが気になって。ちょっと調べたら、この近くだって分かった後に、莉子の家に泊まりにきたんですよ。それであの看板見つけちゃって。なんだか、ネットで見てる時と違って、ああいう看板見ちゃうと…なんていうか…生々しいっていうか…現実感が増して、ちょっと心にきましたよ」
「ひき逃げなんて、すぐ見つかっちゃうんだろうって思ってた」
「早く、見つかればいいですよねぇ。せめて、犯人くらいは…」
車窓を流れてゆくその看板を見つめながら、葵はそうつぶやいた。
駅前の混雑を過ぎると、莉子の家まではスムーズに流れた。
莉子の住む古くも新しくもないマンションに着くと、1台しかない来客用駐車スペースが空いていた。管理事務所の来客用カードを取りに葵が先に車を降りる。樋口がバックでそのスペースに車を駐車しようとしていると、車が駐車場へ五センチほど乗り上げた振動とバック音とで、莉子が目覚めたようだった。
「ああ、ちょうど良かった。着いたよ。今、葵ちゃんが来客用のカードを取りに行ってる」
「そうですか…すっかり寝てしまって。ありがとうございました」
寄り道をしないで家まで送ってもらったのだと思った莉子は、急いで車から降りようとしていた。
「莉子。何やってんの。ふらふらじゃない」
車から出て立ち上がった莉子は、貧血のようなめまいを感じて、開けたままのドアに手をかけて体を預けた。このまま帰ってもらったら良いと思っていたのに、またしても、悪い方への誤算だった。
「平気だと思ったんだけどね…」
力なくそうこぼす莉子を、駆け付けた葵が手を腰にまわして支えながら歩かせる。その後ろを、買い物袋を下げた樋口が追いかけてきた。
結局、自力で歩けない莉子は、玄関までそのまま連れて行ってもらうことになった。
頭痛薬が効いて楽になったと言っていたはずの莉子の体調は、昼間倒れた時点から回復の兆しを感じることはなく、その体を支えながら葵は樋口と顔を見合わせていた。
スーパーなどに寄るよりも病院へ連れて行った方が良かったのではないか、と葵は自分の判断ミスを思っていた。それでも、莉子のことだから「寝たら治る」とかそういうことを言いそうなことも想像できた。しばらく様子を見て今夜連れて行くか、明日自分で行ってもらうか考えよう、そう考えて葵は莉子が取り出した鍵を受け取った。
葵がガチャリと鍵を開け、扉を開いた瞬間だった。
「おかえり!」
元気な男の子の声が内側から聞こえて、莉子はぎょっとした。
体調の悪さで、そのことを失念していた。
今、部屋の中に、小さな男の子がいることを、莉子はすっかり忘れていしまっていた。
子どものいない結婚もしていない自分の部屋に、少年がいる不自然さを、どう言いつくろったら良いのだろうか。働かない頭を呪いながら冷や汗をかき始めた莉子は、仕方なく「ただいま…。」とその声の主に小さく返事を返した。幼児にとって大人の事情は関係ない。挨拶を返すことが先決だと。
莉子を玄関に座らせた葵は、
「ちょっと勝手に入るよ。樋口さんは待っててくださいね」
そう言って靴を脱いでずかずかと奥へと進んでいった。
その進んだ先を目で追って、なぜ葵は男の子のことを問いたださないのだろうと、莉子は思った。樋口の方を見上げると、目が合って「大丈夫?」と問いかけられて「すみません…。」と曖昧な返事をした莉子を「こんな時だし、遠慮なく。」と大人気あることを言われただけだった。部屋に入って行く葵に視線を戻すと、すぐ前に居る男の子のことをまるで無視して進んでゆくところだった。
危ない、ぶつかる。
「あっ」
それまでの気力ない様子とは違った強い声を上げた莉子に、
「なに?」
と葵が振り返りながら怪訝な表情を向ける。
「乙女ゲームのポスターがあるとか?いまさら。先月も来たし、何を見たって驚かないわよ」
そのまままっすぐ葵は歩みをすすめ、言葉の途中ですでに部屋の入口にいた。
「来たなら、知ってるでしょ。あるのは観葉植物くらいって」
今、莉子の部屋には、最低限のものしかない。
それを知っている葵は、そう答えた莉子の言葉に笑って、玄関から五歩程度でたどり着くワンルームマンションの一部屋に、すっと入って行ってしまった。
確かにその男の子とぶつかったはずなのに。
何度か目を瞬いて、葵が通った場所と男の子の立ち位置を、確認する。
何度も何度もその導線を目でたどって、莉子は、色々と思い至った。
―ああ、そういうこと…ね…。
気がかりなことがあると、一瞬そっちへと持って行かれる、心も体も。莉子の帰宅を喜ぶ少年の様子を見ていると、熱と頭痛に侵されて萎えていた心が、少し上がったように莉子は感じた。そして、部屋にいる葵に声をかける。
「葵、ほんと、もう大丈夫だから。買い物袋だけ中に運んでもらえる?それで帰ってちょうだい。これ以上は、迷惑かけられない。ほんと、ありがとう」
いったん出てきた葵は、
「それくらい声が張れるようになったのなら…良いかな。換気のために窓開けたままにしてる。冷房入れておいたから、適当に窓閉めてね」
と言って樋口から買い物袋をもらって、再び中に持って行く。
「樋口さんも、ここまで付き合っていただいて、ありがとうございました。とても、助かりました。この後、葵のこと、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる莉子に、樋口もうなずいた。買ってきた物を冷蔵庫や適度な場所に片づけた葵が玄関まで出てくると、のっそりと莉子は立ち上がった。
「本当に、ありがとう。じゃあ、また、明日」
玄関に立って、莉子は二人を見送った。
部屋に戻ってほっとしたからか、顔色が少しマシになった莉子に、二人は明るく手を振って扉を閉めた。
閉める扉の外側へ二人が出てゆくのを眺めながら、莉子は、隣に並ぶ者の気配を強く感じた。一緒に手を振っているハルが、二人の目に映っていないことが、紛れもないこととして、ヒヤリと胸に落ちた。