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夜空のハル  作者: 里村
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 瞼を開けようとした瞬間、ズキリズキリとした痛みが頭に突き刺さった。


 瞼越しに感じる明るさに、今が夜ではないことが分かる。


 痛みの場所に左手をやりながら右手で体を起こすと、掛かっていた軽いブランケットが肩からぱさりと滑り落ちた。

「…?」

 起き抜けだからか、頭の痛みか、開ききらない瞼を瞬かせてること数秒。

 ようやく、そこが会社の応接室の一室だということが目に入ってきた。

 よくよく耳を澄ますと、隣の部屋から商談中であろう数人の声がわずかに響いていて、その予想を裏付けた。


 起き上がった状態で長椅子に腰かけたまま足を下ろし、一息つく。


 すると、吐き出す息が熱を帯びているように感じて、頭にある手をそのままおでこへとすべらせてみる。平熱ではありえないその温度に驚いた後、急に寒気を覚えた。震える肩を抱きながら足元に落ちたブランケットを見つけて、思うように動かない体を伸ばして拾い上げ、なんとか体に巻きつける。

 壁時計に目をやると、3時より手前を刺している。

 カチコチと回る秒針の音にやけに耳に響いて、しばらくぼうっと思考が止まってしまう。


 今朝は普通に出勤したはずだった。


 いつものようにトーストしたパンと牛乳たっぷりのカフェオレ、昨夜の残り物のポテトサラダ、ヨーグルトにはちみつをかけて、朝食を食べた。そして、いつもの時間に部屋を出た。ベランダの窓から差し込む光がまぶしく、「いってきます。」と小さくつぶやいて、その光の中を一瞥して扉を閉めて鍵をした。七階で止まっているエレベーターを四階まで呼び戻し、乗り込む。一階の管理事務所にいる初老の女に会釈をして駅へ向かい車両に乗り込んだ。この頃には、空を小鳥が舞っている。まだ少し夏日が残る、寒いのが苦手な人間にとって比較的過ごしやすい季節だと、それを見て感じた覚えがある…。


 それからどうしたっけ?

 会社の応接室で眠っていたのだから、出勤はしたのか…。

 こめかみの左手を強めに押すとずきりと痛みが増した。

 この痛み、馴染みがない。

 だるい体と頭痛に、気分はすっかり下がってしまっていた。


 出勤した後のことを思い出そうにも記憶は曖昧で、頭の痛みに記憶の徘徊を阻止されて。

 どれくらいそうしていたか、廊下から毛足の短いフロアマットの上を歩く足音が近づいて、扉の前で止まった気配を感じた。

 軽いノック音の後にドアが内側に開き、同僚の一人が顔を出してきた。


莉子(りこ)、どう?」


 一声上げようとして、喉がかすれていることに気づいた。そして、思いの他、喉が渇いていることにも。


「…あ…(あおい)。ごめん、私、どうしたんだっけ?」


 喉に手を当ててそう絞り出した莉子に、葵が心配そうな顔を向けて近づいてゆく。時計を確認すると3時を過ぎていた。ちょうど午後の休憩の時間だった。


「ほんと、莉子らしいけどさっ。」


 そう言って、ホットゆずレモンのカップを手渡してきた。「ありがとう。」と受け取って一口飲んだ莉子を、仁王立ちした葵が見下ろす。


「今日、商談ないの?この部屋。」

「ないよ。っていうか、この部屋は週末のイベントの物置にするから、今日から商談に使うなって指示メールを社内に出したの、莉子じゃないのぉ?」


 そう言われて、痛む頭を軽く振った莉子は「そう言えば…。」と上長に指示されて自分が社内用の掲示板に上げた文章を思い出していた。


 本格的な物の搬入は、確か明日からだったな…。

 そんなことに思い至って、莉子はほっとしていた。この時期の商談は比較的少ない。応接室が全て使用されることもないだろう。つまり、自分がここに寝ていて良い免罪符をもらったような気になり、罪悪感を少しだけ軽くする。


「珍しく、あの部署長が心配してたよ。いつもは、さ、年に一回くらいしか出さない休暇願いさえ嫌味と引き換えじゃないと受理しないのに。午後から休んで明日は病院に行くと良いってさ。でも、あのハゲに心配されてたら、治るものも治らないか。」


 そう笑いながら、葵は莉子の隣に腰かけて手をおでこ当てた。

「驚いた。ちょっと、熱、けっこう出てるじゃない?ほんと、莉子、大丈夫なの?」


 起き上がってからずっと続く頭痛と体の重さが尋常ではなく、莉子は葵の話に付き合っている余裕もなかった。持ってきてもらった飲み物はありがたいが、できれば横になっていたい。


「…大丈夫じゃない。」


 かすれた声で莉子がそう言うと、葵もそれにうなずいた。


「まあ、この熱ならね。」

「葵、頭痛薬ある?」

「あー、あっ、生理用に持ち歩いてるのならある…かな。なければ医務室でもらってくるよ。あと、もう午後半休で処理してるんだけど、何か急ぎの仕事ある?やれることならやっておくし、無理そうなら誰かにお願いしておくけど」

「昨日の電話の件…」

 帰り際に持ち込まれた苦情じみた発注を、営業の携帯に連絡して留守電に入れたことを思い出した。デスクに資料を置いて伝言もメモして上長にも相談済みの案件だが、あれが通っていないと今後まずい事態になるだろうと莉子は思っていた。

「ああ、私も聞いた。あれって、とばっちりだよねぇ。営業も大変ねぇ。他は?」

「あれが営業に伝わってるんなら…他は…大丈夫だと思う」

「帰りは送って帰ってあげるよ。莉子は、私の仕事が終わるまで、ここで寝て待ってて」


 そう言って返事を待たずに立ち上がった葵を、莉子は静かに見送った。


 送って帰るって言うけど、どうやって…。


 同じ沿線に住んでいる同僚の葵は、それが縁で仲良くなったのだ。話してみれば気も合って…ということもあったが、電車通勤だから話す時間が他の同僚よりも取れて、という前置詞がつく。

 その葵が『送って帰る』ってどういうこと?

 飲み終えた紙コップをテーブルに置いて横になった莉子の思考に、葵の言葉に対する疑問が残る時間は短かかった。頼んだ頭痛薬を待つこともできず、気づけば莉子は、再び浅い眠りに落ちていた。



 次に莉子が目を覚ますと、隣の商談室から明るい笑い声が響いてきた。

 さっきと同じような頭痛と倦怠感に苛まれて重い体を起こす間、野太い笑い声が隣から聞こえる。聞いたことのある年配の営業の声から、相手が取引先だと知れた。その話の内容は聞こえるようで聞きとれず、笑い声だけはっきりと響いてくる。

 テーブルの上に、ペットボトルの水と薬と社食で売っている桃のゼリーが置かれていることに、起き上がってすぐに気づいた。


 葵が持ってきてくれたんだ…。


 なんとかボトルキャップをねじり、莉子は水を一口含んだ。薬をプチプチと取り出し口に投げ入れる。わずかな甘みを感じたところで、再び水を口に含んだ。こくりこくりと飲み込む水が、火照った喉に心地よく流れる。


 昼食を摂っていないにもかかわらず、空腹感はなかった。


 薬を飲むのなら食べろという葵の指示か思いやりか、その桃のゼリーを無下にもできず、莉子はびりびりと蓋を開ける。思いっ切って一さじ口へ入れると、その冷たさと甘みが程よく感じる。次々と口へ運ぶ手が止まらず、気づけば、あっという間に食べきっていた。

 あと三十分ほどで定時のチャイムが鳴る時間だった。

 定時で上がることのない葵は、早くてもあと1時間はやって来ないだろう。そんなことを考えながら、長椅子に寝転んだままスマホをなんとなくいじっていると、再び浅い眠りが落ちてきた。うつらうつらとしていた莉子に定時のチャイムが鳴るのが夢のまにまに聞こえる。

 体を伸ばしながら目を開けると、飲んだ頭痛薬が効き始めたようで、頭痛と熱が少しましになっている。


 ひょっとしたら、なんとか歩いて帰れるかも。


 そんな気分にもなって。


 タクシーで帰れなくもないが、数千円はかかるだろう。給料日前にその出費は痛い。少々無理をしても電車で帰りたい。なんとか駅までたどり着けば、乗換なしの一本で帰ることができる。どうしても無理だと思っても、乗っていれば最寄駅にはたどり着くのだからなんとかがんばりたい。最終手段として、最寄駅からタクシーに乗っても良いのかもしれない…。


 そんな算段を取れる程度には、思考が戻ってきていた。

「あら、食べたの。」

 ドアを開けるなりそう言った葵の後ろから、顔見知り程度の先輩が顔を出した。

「莉子ちゃん、体調悪いんだって?」

 そう言って部屋に入ってくる先輩に、莉子は「お疲れ様です。」と座ったままだが頭を下げた。この先輩は、後輩をやたらとちゃん付けで呼ぶんだった、と、社内の飲み会などで会った時のことを、うっすら思い出した。


「早かったね、葵。もらった頭痛薬が効いたから、なんとか帰れそうだよ、私。仕事、残ってるんでしょ?」


 葵は莉子と違ってエリートだ。大学も部署もやってる仕事も、莉子と比べて何段も上だった。残業も休日出勤も厭わずやっている。やりがいを感じてまい進している様子は、側で見ていてもすがすがしいものがある。


「頭痛薬が今効いてる程度で、あんな倒れ方した友達を、ほって帰れるかっつーの。黙って甘えてたら良いのよ、莉子は。」


 ブラインドを下げながら、葵はそう言って莉子を一瞥する。


「倒れたとこ、覚えてないんだよね、私。」

「ちょうど昼前、ランチに誘うついでに資料持って寄ったら、私を見てフラッと立ち上がったと思ったら、そのまま、がたんって。みんな驚いてたよ。なんて言うか、人形の糸が急に切れたらあんな感じ?そんな雰囲気でさ。」

「…そうなんだ…あ、そう言えば…、この所々にある青たんって、そういうこと。」

「あぁ~、そうだろうねぇ、あんだけ派手にぶつかって倒れたら、どれどれ。」

 そう言って、葵は莉子の手や足や見やすい所にできた内出血を見て、心配そうな面白そうな表情をして「すごいねぇ。」と一人つぶやいている。

「ま、それも含めて、送って帰ってあげるよ。なんかあったらヤだし。」

「…だけど…。葵も電車じゃない。本当に大丈夫だから。無理だったら、駅からタクシーに乗るよ。」

「あ、その心配なら大丈夫。それで、樋口(ひぐち)さんに来てもらってるの。」

「?」

 莉子が樋口を見ると、入口の辺りで遠慮がちに佇んでいた樋口が「そういうこと。」と言って手を振ってきた。

「樋口さん、今日ね、社用車乗って帰るんだって。明日の朝から車で出張。ついでに乗せて帰ってもらうことにしたの。部署長のお墨付き。」

「お墨付きって…。」

 さっきは「ハゲ」と呼んでいたじゃないか、と樋口の手前言えずにいると、

「ハゲにも温情はあるんだよ。」

 と樋口がそう言う。

「樋口さんまで…。」

「奴の裏あだ名はハゲで通ってるんだよ。莉子ちゃんたちが入社する前から。今に始まった話じゃないし、大丈夫。」

「どう大丈夫なんですか…。」

「という訳で、今から帰るよ。帰りにスーパーかコンビニ寄ってもらって、インスタントのおかゆとかスポーツドリンクとか買うから、それまでに欲しいものリストでも考えておいて。」

 仕事中の姿と変わらず、てきぱきと指示を出す葵に、一つため息を吐いて「わかった。」と莉子は答えた。

「言い出したら聞かないからさ、切符買った船だと思って乗り込んじゃって。」

 よく分からない例えだな…とも言えず、莉子は樋口にうなずいた。


 社員用の駐車スペースはない。重役か社用車しか停まっていない地下へと向かって、三人でエレベーターに乗り込んだ。

 そのエレベーターへ向かうため廊下を進む間に、莉子は自分の考えが甘かったと気づいた。

 たった数十メートルにも関わらず、足が重い。応接室に寝かされていて良かったと思っていた。救護室や給湯室にも長椅子はあるが、そこからだと、ぐるぐると歩いて回ってエレベーターへとやっとたどりつく。それに、葵の申し出を断っていたら、一人で駅に無事たどり着けてはいなかっただろう。こんなに体が重く、頭痛も伴って、熱も高くて、そういう体調不良とは縁がなかった。インフルエンザでも、もう少しましではないかと思ってしまう。


 莉子の重い足取りに気づいた葵が「車で帰れて良かったねー。」とエレベーターを降りた樋口の後ろを歩きながら振り向いて言う。

 葵は、そこから少しずつ速度を落として、莉子の隣に並んだ。

「私も送ってくれるって。便乗して私がラッキーな感じ?」

 と、樋口に聞こえない程度の小さい声で笑って告げる。

「ああ、そう言えば…そうだったね…。」

 樋口の方はどうだか知らないが、肉食の葵が、樋口の事を好ましく思って狙っている。

「でしょ。お礼言いたいくらい。」

 莉子が思い至ったことに気づいて、葵がにやけた顔を向けてそう言う。

「転んでもタダじゃあ起きないってわけね…。」

「そもそも、私、転んでないし。…そうねぇ…それを言うなら、渡りに船って感じかな?漁夫の利でも合ってる?ちょっと違うかぁ…。」

「どうでも良いわ。」

「あ、大丈夫だよ、ちゃんとお世話はするから、さっ。」

 先に着いた樋口が乗り込んだ車のリアドアのロックを解除して待っている。そのドアを葵が開けて、莉子へと乗り込むように誘う。

「では、お言葉に甘えさせていただきます。」

 葵の言葉に色々と思うところはあるが、心配と遠慮と気のまわし過ぎを懸念して、そうやってちゃかしているのだろうと、莉子は思うことにした。少なくとも、これを利用する価値があるのだとしたら、お互い様ということにしてくれたのだろうから。


 何より、本当に体がだるいのだ。自分の体力が本当に落ちてしまってるんだな、と、莉子は感じていた。


「じゃあ、ナビよろしくね。」


 後部座席で大人しく座った二人をフロントガラス越しに確認した樋口がそう言って、三人を乗せた車がゆっくりと動いた。




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