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夜空のハル  作者: 里村
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プロローグ

 遠くから、鈴の音が聞こえた。


 やけにぼんやりと鳴るコロンコロンという響きに、一瞬我を忘れた。


 巻き上がる粉塵、立ち込める濛々とした気配と影に怯えながら、ひどく遠くで聞こえる鈴の音にもう一度耳を傾ける。わずかに開いた瞼の隙間から見える周囲の状況に、「ああ…」と声が上がる。かさりかさりと、耳の近くで鳴る音がはっきりと聞こえて、出したはずの声が耳まで届かないことに気づく。

 どこか、テレビの画面を見ているような気もして、現実味がひどく薄く感じて。

 ふっと見やった場所に違和感を持って、視界のかすみをぬぐおうと体の上に載った左手をほほまで持ってくると、ぬるりとした感触がすべった。濡れた手は赤々としている。それが血だと気づくのに、一瞬。あの、出来事も現実なのだということが、その血を見て、筋道としては理解ができた。

 少し息を吐いて、長袖のシャツの端で目をぬぐう。すると、視界の端に透明な角を見つける。先ほど感じた違和感の正体はそれだった。何か立方体のようなものに取り囲まれている。外側の音がくぐもって聞こえる。鈴の音が、遠くから聞こえたのは、そのせいだと知れた。自分を囲む立方体、その透明の壁に添ってずずっと視線を落とすと、四隅にお札のような紙切れを見つける。「ああ」とまた声に乗らない言葉を紡いで、外へと目を伸ばす。すると、目当ての男を見つける。傍らには、心配そうにこちらを伺う女もいる。それを認めて小さく息を吐き出す。

「このままじゃぁ…」

 ダメだと、そう誰に言うべきかも分かって。

左手の血をシャツにこすりつけて、立ち上がろうとした。右手に力が乗らず、起き上がろうとした動力のままに前向きに滑る。ぶつかると思った透明の壁は、ほんのわずかな感触を与えて通過した。立方体から 顔だけが飛び出したような状態で、ごてんと横に倒れた。

 長くも短くもない髪が、この時には邪魔で仕方がなかった。

「何も見えない…」

 倒れた反動で顔に幕を張った髪を、動く左手で払う。倒れた時の衝動で右手から鈍い痛みがあがってきた。「ふぅっ」と長い息を吐き出して、左手に体重をかける。ちりちりとした感触を受けながら、少しずつ体をその囲いから出すと、それを見つけた女が大声を上げる。

「ばかぁ!なに、出て来てんのよっ。入ってなあっ!」

 囲いから出たとたん、その場から押し寄せる感覚に曝された。「怖い」ただただそう感じる。そこに出たことに後悔を感じる。この感覚を知っている。

「やっと出てきた!」

 はしゃぐ子供の声が聞こえて、それが在りえない頭上からぐんぐんと近づいていることを察する。避けようがない、そのスピードを、近づく感覚を、その子供の声の音量で知る。

「逃げろ!」

 男の声が聞こえる。「分かってるよ」そんな愚痴をこぼす、その時間を惜しむくらいの判断はついた。

 見上げてそれを確認するよりも、透明の立方体へと逃げることに意識が向かう。痛む右手を忘れて、また両手で逃げを取ろうとして失敗する。転がるように反転してそこへ逃げた後で、子供の笑い声が、膜越しに響いてきた。

 とても楽しそうな声だと、いつもなら感じるだろうその声音に、ぞくぞくとした悪寒を感じる。

「ハル…」

 ようやく戻った声が、小さく押し出した言葉にどきっとする。

「ハル!ハル!」

 気づけば叫び声をあげていた。

 このままじゃぁダメなんだよ、何やってんの、どうしてこんな暴挙に出ちゃったのよ、あんた、何を誤解してそんなことやってんの、どうしたって理解できないことってあるんだよ、そんなの気にしてられないじゃん、認めちゃダメなんだよ、そんなの付け入られるだけじゃない、こんなことやったって、こんなことやったって!…何にもなんないよ、無駄なんだよ、どうして気づかないの、今まで通りで良かったんだよ、他にほしいことなんて…ほしいことなんて…

「ハル!戻っておいでぇぇぇ!」

 言い訳のような思いの洪水に、やっとしぼり出せたのはそんな言葉だった。それが、ハルに届かないことも分かっていたけれど。

 透明な囲いに守られて、少し離れた場所に居る男と女に心配顔を向けられて、なす術もなく横たわる。力のない脆弱な体を呪う。それくらいしかできることがない。これから、この惨状をどう切り抜ければ良いのか、これが何処なのか、明日からの仕事はどうなるのか、夢と現の狭間で小さくも大きな現実的な疑問と課題が次々と思い浮かんだ。

 いつの間にか流れていた涙を、後ろから差し出された誰かの手がぬぐう。

 それはよく知った手で、この場で一番安心できて、そして、出て来てはいけない人の手だと、どこかで分かってはいて。

 声、聞こえちゃった?この状況は説明できるの?どうやって理解してもらうの?説明ってなに?何をどうやって?

 ああ、もうダメ…。

 弱った体から、力が抜けてゆく。その人がやってきた安心感は、想像したよりももっとずっと心の支柱を揺さぶった。

「…どうして…」

 その男に上半身を抱き上げられて、薄く目を開けた。

 困ったような心配しているような不安なような目線を投げてくる男の体温を感じて、思っていた以上に緊張が解けた。

「…はる…」

 この状況に、答えはあるのだろうか。

 就職する前に検索した社会人の『ホウレンソウ』というページが、頭に思い浮かんだ。そんなどうでも良い連想を出してくる脳内OSへの懐疑心を抱いて、そのOSそのものが自分自身なのだから…と、この場に相応しくない連想が続く。

「右手が痛くて…」

 そう言いながら、左手を男の胸の辺りに持ち上げてそっと添えると、その手の上に男の手が重なる。

「…当たり前じゃないか、こんなに…たくさん…血が…」

 男が、強く左手を握り返しながらそう言う。

 そっか、やっぱり、これは、現実の傷なんだぁ。

 そんなことを思って、開けていられなくなった重い瞼を、少しずつ閉じる。

 少し離れた所にいた男女がかけてくる足音が、わずかに聞こえたような気がした。


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