第一話:なんと悲しいことなのだろう
「おお……なんという美しい紅の髪……この子はいい憤怒の使い手になるだろう」
相好を崩す無数の皺が刻まれた巨大な顔が私を覗きこんでいた。
身長は私の倍で、恐らくその内に潜む魔力はさらに私が全魔力を絞りきっても足元にも届かない。
支配種たる悪魔の中でも、至高の力を持つ存在。それを、周囲は畏怖を込めてこう呼んだ。
『魔王』と。
その中でも、その男は突出した力を持つ魔王の中の魔王だった。
長き動乱の時代、天界との戦争さえ生き延びた稀代の大魔王。
フェルス・クラウン。
その名を、『欺瞞』のフェルス・クラウンと言った。
針金のような男だ。
やせ細ったその体躯はおよそ筋肉というものに恵まれず、およそ傲慢とは思えぬ柔和な表情が特徴の男だ。
だが、それでもフェルスは長き時を経た魔王だった。
――例えその栄光が過去のものだったとしても
「憤怒……その力があれば魔界の統一にも手が届くやもしれぬ」
ほぼ全ての魔王に侮られつつ、それでいて頂点に長い期間居座ったその王は既に疲れきっていた。
渇望は無限ではない。だから、本来寿命を持たないが、逆に長く生き過ぎた故に力が衰える事がある。
『欺瞞』の名を得るほどに苛烈に邪悪に容赦なく、そしてたった一人で渇望を追い求めたフェルス・クラウンという王は既に死んでいた。
力だけが強かったせいで、未だ大魔王の座に座っていただけで。
つまり、所詮その程度の才覚だったということだ。
見ているだけで鬱憤の溜まるような生ぬるいその在り方は、私にとってはひたすらに優しすぎた。
『憤怒』が霞んでしまうくらいに。
遥か彼方昔の話だが、今でも記憶に鮮明に残っている。
じっと、その淀んだ瞳を見上げ、次の言葉を待つ私に、大魔王が酷く暗い声を落とす。
幼い私でも分かった。
それは、きっと凡骨であるフェルスという男が大魔王まで上り詰めた理由。
「だが、このままではよくない……怠惰のレイジィの力が必要、か……」
「怠惰の……レイジィ?」
フェルス・クラウンの――父様の言葉がまだ理解できず、首を傾げる私に父様がまるで船をこぐように大きく頷く。
銀色の双眸だけが爛々と鈍い光を放っていた。
やがて、どれだけの時間が過ぎたのか、一瞬のようでいて、数分間沈黙していたようでもある。
大魔王の口がゆっくりと開いた。
「カノン。お前はこれから――憤怒の王を名乗るがよい……」
「憤怒の……王?」
それはあまりに傲慢に過ぎる名だ。私はまだ生まれたばかりの悪魔で、騎士級ですらない。
だが、父様は確信しているようだった。私が、憤怒の王となることを。
欺瞞とは虚構を成すこと。
フェルス・クラウンという王の真髄は在るものを無くし、無きもの有るかのように振る舞うその欺瞞にあった。
だから、その言葉の意味を識るのに、私は数千年の時を要する事になる。
その名を知るものは多くても、その意味を知る者は少ない。
影寝殿。
それは、影すら寝静まる沈黙の宮殿だ。
地平線の向こうまで広がる砦はただ無骨で、そして聳えるという表現が相応しい程に巨大な魔王の城。
怠惰の王とはそれ即ち、堕落を極めし魔王の称号。
比類なき広大さを持つ影寝殿はただの王の寝所にすぎない。
その配下、千を越える悪魔達はただその眠りを守るためだけに在る。
ハード・ローダー。類まれな力を誇る誰の下にも跪かない傲慢の悪魔。
「ふん……カノン――憤怒の王か。くだらん……好きにするがよい」
野望無き王に奉仕する事のみを至上とする奇異な悪魔達。
「カノン・イーラロード……まぁ、眠りを邪魔しないなら……」
理解不能の行動原理で動き続けるその悪魔たちのつかみ所のない在り方は、今まで見たことのなかったもので、私の感情を些か刺激したが、それは王を見ることによって吹き飛んだ。吹き飛んでしまった。
今でも肌が覚えている。
砦全体を覆い尽くすどこか沈んだ空気に、闇を具現化したかのような黒塗りの扉。
挨拶をするために開けた扉の向こうで、王はただ一人、開口一番に呟いた。
――何か疲れたな……
呆気にとられる私をまるで気にすることもなく、ベッドの上で胡乱な目を虚空に彷徨わせる漆黒の髪を持った男。
怠惰の王。
堕落のレイジィ。魔界にただ一人しか認められない怠惰の真理を追い求めし古き悪魔。
まるで空気のように色のない、だが眼の前にいるだけでひしひしと感じられる莫大と呼ぶも烏滸がましい魔力の質量は、まだ幼い私の目から見ても明らかに突出していて、そしてあまりにも意志がない。
それは、私から見ても途方も無い力を持っていた『父様』と比較してもはっきり分かるほど高く、
一目見た瞬間に本能が直感していた。
ああ、これが――ただそこにいるだけで大魔王を下した男。
攻めるでもなく、守るでもなく、ただそこにいる。
カリスマも戦意も、意志すらもなく、力だけがあった。渇望を突き進めたものを王と呼ぶのならば、なるほど、その在り方はまさに怠惰の王に相応しい。
地位に、名誉に、三者三様で全く興味を示さない悪魔の集団。
その在り方は父様に跪く多くの魔王を見てきた私から見ても非常に稀有で、そして怒りを誘った。
彼らは……何を求めて生きているんだ。
悪魔として、羨望に値する力を持っているというのに。
持つものと持たざるもの。才覚は残酷だ。明らかに皺の目立つ老いた父様と、それ以上に長き時を生きているにも関わらずまだ若々しい怠惰のレイジィの差は明らかで、それがなんとなく腹立たしい。
そして、私を連れてきた父様は、ただ疲れたような表情で、一言だけ怠惰の王に頼み事をする。
何もしていないはずなのに父様よりも遥かに疲れたかのような表情をした怠惰の王に。
その言葉はきっと、大魔王が配下の魔王にかける類の言葉ではない。
「レイジィ……娘を預けよう」
父様のその言葉に込められた決意の重さはまだ知らない。
だが、怠惰の王が答える。
ベッドの中から顔だけ出して気怠げに答えるその様に覇気はなく、王の気質は欠片も見えない。
「……好きにするがいい。どうせ世話をするのは俺じゃない」
その男の力の代償――堕落。
激情を力とする憤怒の対極を飾る男。
静と動。そこには恐らく、真逆であるが故に憤怒を高めるための真理がある。
それをきっと父様は見抜いているんだ。
死んだ眼をしたレイジィを見ながら父様の言葉の意味を必死に考え、それに思い当たり、期待を込めて見上げる私の目に入ってきたのは父様の虚無的な目だった。
他者がそれをその生気の見えない眼差しを見れば、怠惰の王に勝るとも劣らないと評したことだろう。
その言葉に、私はただ幼いながらも衝撃を受けた。
「カノン……挨拶をするといい。彼こそは悠久の時をただ一人孤独に在る者。この果て無き魔界にただ一人存在する――堕落の王だ」
背中を押され、前に一歩でる。
ただ、必死で考えた。
我武者羅にその意味を。老いた大魔王の言葉の意味を。
大魔王を前にして、微塵も気にする気配のないその王の眼は酷く濁っている。
それは奇しくも、会った瞬間に感じた『何のために生きているんだろう』という疑問の答えだった。
この王の生には意味がない。目的がない。理由がない。
他の如何なる魔王ともかぶらないその在り方こそがきっと父様の言っていた孤独の意味。
それはなんと悲しいことなのだろう。
それは私に芽生えた初めての憤怒とは真逆の感情だ。
私は、ただ父様に言われるままに、散々教えられた所作でスカートの裾を僅かに持ち上げ、丁寧にお辞儀をした。
視線を感じない。前を向いていてもこの男は私を見ていない。
きっとそれは怠惰の王の日常風景。
「カノン・イーラロード。司る渇望は憤怒。お世話になります、えっと――」
そこで僅かに迷った。
レイジィ様? 否、大魔王の娘たる私が他者に敬称を使うなどもっての外だ。
レイジィさん? 他人行儀だ。どこかしっくりこない。
呼び捨て? 否、父様がここまでいう相手だ。恐れ多い。
預けられるという事はそれ即ち、家族になるということ。
父は既にいる。かといって、もちろん弟であるわけがない。
逡巡は一瞬。少しでも多くの親愛を、そして、憤怒を込めて、私はその名を――哀れな堕落の王の名を呼んだ。
「――レイジィ兄様」
それは多分出発点。
そして私は、それからの長き生の間に――私がまだ父様と暮らしていた間よりも遥かに長き時を共にすごすうちに、堕落の王の名の意味を知る事になる。
だが、いつまでたっても兄様は兄様のままだった。
まるで冬眠でもするかのように、影寝殿から出てこない所でさえ、全く変わらない。




