第三話:こいつ、何様だ
「反抗した私を殺さないのですか?」
「……死にたいならば勝手に死ぬがいい。次よこすのは怠惰の奴にしろと伝えろ」
すぅ。
と、面倒そうにレイジィ様がため息をついた。
その言葉に、私は自身の行為がこの魔王様に何ら影響を与えていない事を確信する。
まさに、どうしようもない魔王だった。カノン様の疲れたような台詞が思い浮かばれる。
渇望を怠惰で上書きするスキル。
私は、魔王様が一度だけ使った名も知らぬ力の効果をそう推測した。
あの瞬間、確かに私の心に空いた奈落は、それまで私の渇望が埋めていたものだった。
そして、それが本当ならばそれは――悪魔に対しての最強のスキルだ。なんせ、悪魔の戦闘能力はその渇望に比例して上昇する。私の『憤怒の炎』が私の怒りに比例して飛躍的に威力を高めたように。
それは、憤怒にかぎらず他の型でも同様だ。物欲を失っては強欲のスキルは使えず、食欲を失っては暴食のスキルはまともな威力を表せない。
デタラメなスキルである。通常ならばこの手のスキルは悪魔の基礎ツリーにある精神汚染耐性のスキルで防げるが、あろうことかこの魔王様はそれを一瞬で突破してスキルをかけた。それすなわち、あのスキルはおそらく、並の精神汚染耐性では耐え切れない類の上級以上のスキルである事を示している。
魔王に効くかどうかは微妙だが、もし効くのであれば、魔王でさえ怠惰の王の前では赤子も同然だ。そして、考えたくない話だがそれはおそらく大魔王の地位にあるカノン様でも同様。
いや、それどころか、憤怒のスキルはそのほとんどが怒りに比例して威力のがあるスキルであり、その他の魔王よりもそのスキルは効果を及ぼすだろう。
今私の中に燻っている憤怒を考えると、永続的に続くようなものではないのだろうが、戦闘中に一瞬でもそれが発生してしまったらと考えると、恐怖を感じざるをえない。
効果は? 射程は? 範囲は? 条件は?
何一つ分からない状態でこの魔王に挑むのは――危険すぎる。しかも、見せたのはたった一つの力だけなのだ。私の使える憤怒のスキルでも十以上ある事を考えると、系統樹の差異はあれど、この魔王が使えるスキルがそれ以下というのは考えられない。
レイジィ様は……危険だ。私を苛つかせて精神を衰弱させるとかそういう意味ではなく、その力が危険だ。
おそらくカノン様もそれはよく知っている。だから私を派遣したのだ。この魔王が反乱なんて面倒な真似を起こすとは思えないが、万が一を考えて。
憤怒のスキルで討滅できなければ――純粋な攻撃力で劣る他の系統のスキルでもこの耐久力は破れないのだから。
暑いと、彼はいった。それはつまり、あの瞬間確かに私の刃はこの魔王様に影響を与えていた。今の私ではとても無理でも、いずれ成長した私ならばこの魔王にダメージを与えられる力を得られるだろう。
刃を磨く事。
強力な力を持つこの男を見て、自らの刃を磨くこと。それが恐らくはカノン様の――ご意志。
そして同時に、この男のリソースを上手いこと操作し、大魔王軍の役に立たせること。敵に回せば恐ろしいが、その怠惰のスキルは味方にすれば頼もしい。
その2つの難題を同時に解決するそれは任務でもあり、同時に私に対する試練でもある。
これを乗り越えた時、私は今までとは比べ物にならないほどの力を持っているであろう事は間違いない。
新たな寝室に移されて、同じようなベッドの上でレイジィ様が寝返りを打つ。
その姿を見る私の眼にはもはや侮りは存在しない。
私の力の余波で燃え尽きた寝室は今再建中らしい。レイジィ軍の悪魔は誰も何も言わなかった。何か言えよ。
その時、扉が音を立てて開き、一人の悪魔が入ってくる。
メイド服を着た少女だ。ローナの雰囲気に少し似ていたが、ローナよりも僅かに若い悪魔だった。
布団から顔も出さないレイジィ様に一瞬視線を向け、私の方をチラリと見てすぐにレイジィ様に近づき、ローナそっくりの顔で微笑む。
「レイジィ様! 起ーきーてーくーだーさーいー!」
そして、事もあろうに魔王様の潜った布団をめちゃくちゃに揺らし始めた。
笑顔も雰囲気も確かに似ている、恐らくローナの話していた妹は、雰囲気だけで行動は全然似ていなかった。詐欺だ。
それは仮にも君主の扱いではない。
そのあまりに乱暴な扱いに思わず、むしろそっち側の立場だった私が制止してしまう。
なんだこれ。
「!? ちょ……もっと静かに!」
「? あ! 貴方がおねえちゃんの言っていたリーゼさんですね! 私、ヒイロって言います! 以前、レイジィ様のお世話をしていたローナの妹です!」
「え、あ、はい」
ヒイロと名乗った少女は、腕を全く止めずに私の方に顔だけ向けた。
仮にも姉を焼き殺した相手に対する負の感情が全くない。それどころか、花開くかのような満面の笑みだった。
いくら悪魔と言っても、普通なら家族に対する親愛の情くらいはあるもんだ。私が大魔王様に対して忠誠を誓っているように。
そして、あろうことか、無邪気な声で言う。
「ありがとうございます! お姉ちゃんを殺してくれて! お陰でやっと私の番が回ってきました! お姉ちゃん、いつまでたっても役目を代わってくれないから、ずっと悶々してたんです!」
その感情はあまりにも歪だった。悪意が見えないのがなおのこと質が悪い。
大魔王様の直下で働いていた時も、この軍に配属されてからも、こんな感情見たことがない。
「あ、貴方……仮にも、姉を殺した相手に、言うことがないの!?」
「え? んー……」
その言葉に、ヒイロは手を止めて顎に人差し指を当てて考える。
そして、すぐに答えを出す。私が全く予想していなかった答えを。
「リーゼさん、詰めが甘いです。殺すのなら、ちゃんとしっかり殺してもらわないと……」
「え……?」
スカートをはためかせて、ヒイロがベッドの端に座る。ローナよりも大分短い裾から、健康的に焼けた肌が見えた。
そのままくすぐったそうに、歳相応の声で笑う。
なんであの貞淑な姉からこんな妹ができるの?
「くすくすくす、まだ、生きてましたよ……まったく、お姉ちゃんも往生際が悪いんだから……運がいいですよね。直撃ではないにせよ、仮にも将軍級悪魔の『憤怒』の力を受けて即死しないなんて。せっかく私の順番が来たと思ったのに、また我慢しなきゃいけなくなる所でした!」
衝撃的な内容。黒焦げだったのに生きていたのか!?
いや、そうではない。そこではない。この悪魔は……今何と言った?
「……我慢しなきゃいけなくなる所……だった? 貴方、まさかローナを――」
「いやいやいや、誤解しないでください! お姉ちゃんは、生きていますよ? 黒焦げですけど。さすがに、実の姉を殺すなんて……そんなことしたら、くすくすくす、『嫉妬』に寄っちゃうじゃないですか。さすがに2つも渇望は抱えるんは面倒です」
ぞっとしない陽気な声。
こいつは……違う。ローナのような、慈しみがない。例え顔が似ていても、形が似ていても、まだ幼くとも、この子は間違いなく正統派の、生きているだけで悪意を振りまく悪魔だ。最も渇望を追い求めやすい性質。『純粋な悪魔』
ヒイロは私の表情を見ているのか見ていないのか、仮にも主君であるレイジィ様の『上』に仰向けに寝転がり、天蓋を見上げて続ける。
「お姉ちゃん、美人でしたよね。私と同じ性質の『魂核』を持っているはずのに、背がスラっと高くて眼も大きくてはっきりしてたし、肌も白くて家事をしているはずなのに傷一つないし、髪も艶々で全く傷んでないし、声も高すぎず低すぎずしっとりと心地よく耳に入ってくるし、胸も私より二回り大きくて……男悪魔なら誰もが放っておかない美人で、淫乱なのに指一本誰にも身体を触れさせず、ずっとレイジィ様に貞淑に仕えて……芯も強くて、『憤怒』相手に一歩も引かないし……くすくすくす、まさに理想の女性でした」
「淫……乱?」
「あれぇ? 知らないんですか? お姉ちゃん、あれでも『色欲』を司る悪魔だったんですよ。しかも、A級相当のスキルを使えるまで渇望を突き詰めた、かなり強力な。悪魔の格で言っても、多分、将軍の一歩手前……騎士級くらいはあったんじゃないかな」
それは信じられない言葉だった。
『色欲』
悪魔の持つ7つの型の中でも、直接戦闘に向いていないスキルを持つ型として知られている。
そして、恐らく全ての渇望の中で、最も弱い攻撃に対する耐性を持たないクラスでもある。
彼らは弱い。ただひたすらに脆弱だ。特に精神汚染耐性を持つ悪魔相手では、その力のほとんどは通じない。
だが、それならばどうして――
「何故……」
「お姉ちゃんが教えたかどうかわかりませんが、私の家系……ずっと怠惰の王、レイジィ・スロータードールズ様に仕える家系なんです。多分数十代前から。一族の中で一番強い悪魔が仕えるっていうルールでした。そして、今代はそれが……ローナお姉ちゃんだった。『昨日』までは」
昨日、私はローナを憤怒の炎で焼き尽くした。ヒイロの言葉が正しければ、生きてはいてもその力を失う程に。
それで、代が変わったのだ。恐らくは、この傲岸不遜な妹に。
「私、ずっとお姉ちゃんにコンプレックスがあったんです。特にあの容姿に。お姉ちゃんは私の理想の姿形を持っていたから……そのせいでずっと私はお姉ちゃんよりも弱かった」
「え? 容……姿?」
「『色欲』の力は、いくら悪魔の格が上がってもA級スキルを使える程度じゃ全然……強くない。私の方が全然強い。でも、それでも私は勝てなかった。私はリーゼさんに感謝してるんです。お姉ちゃんの美貌を八つ当たりで焼いてくれてありがとう、って思ってます」
ヒイロの声のトーンが一瞬落ちる。
そして、悪魔は言った。
「お陰で私はお姉ちゃんを……『優越』できた……」
全てのパズルのピースがはまった。
ヒイロが布団を強制的にこじ開けて、蓑虫のように丸くなり、無機質の瞳を向けるレイジィ様の腕に物怖じせずに抱きつく。
「レイジィ様、はじめまして。聞いていると思いますけど、今日からお姉ちゃんの代わりにレイジィ様のお世話をさせていただきます、ヒイロっていいます! 誠心誠意やらせていただきますので、よろしくお願いします!」
「……そうか」
「抱える原罪は……『傲慢』。『傲慢』のヒイロです! 覚えてくださいね!」
やはり……傲慢の悪魔か!
『傲慢』
優越感と高慢を司る悪魔だ。
この軍で言うと、総司令官であるハード・ローダーの司る原罪でもある。
この型は……非常に厄介なスキル系統樹を持っている。特に直接的なダメージを与える憤怒や暴食との相性が悪い。
ヒイロが初めての会話にキラキラと煌く眼で魔王様に話しかける。
だが、同時に私はその瞬間、直感した。この少女じゃ、とてもじゃないがレイジィ様の相手は務まらない、と。
魔王様は、特に何も考えていない、何の感情もない眼で一言だけ返した。
「……ああ。よは」
「? 『よは』って何ですか?」
その言葉に、レイジィ様が凄い嫌そうな表情をした。
表情が言っている。教えるのが面倒だと。私の方に視線を向けてくるが、私は無視することにした。
私も初めは何かと思った。何ですか、と聞いた。だけど、レイジィ様は教えてくれなかった。結局後から自分で他の悪魔に聞いて知ったのだ。とてもくだらない話だった。
レイジィ様が大きくため息をつく。まるで、こちらが悪いと言っているかのように。
そして、そのため息に、ヒイロの表情が曇った。
重い声でレイジィ様が言う。私から聞くと、いつも通りに聞こえるが、初めてレイジィ様と会話するヒイロにとっては違うだろう。彼の声はいつだって、まるで失望しているかのように聞こえるのだ。
「……前のはどうした」
「……え? お、姉ちゃんですか?」
「……ああ」
多分、絶対にわかっていない。
レイジィ様はメイドの名前や出自などに興味がない。多分面倒だから適当に答えているだけだ。
ヒイロがプライドを刺激され、戦慄く声で答える。
「お姉ちゃんは……そこのリーゼさんに焼かれて黒焦げになってます。だから私が――」
あんたその場にいただろうが! ていうか、あんたのせいだろうが!
完璧に無視していたくせに、僅か昨日の事を全く覚えていない記憶力。
脳に何か沸いているのではないだろうか。
「そうか……連れて来い」
「……へ? レイジィ様、い、今、なんと……」
レイジィ様が眉をひそめる。
面倒だなあとか考えているのだろうが、知らない者からしたら不機嫌そうに見えるだろう。
ちなみに、カノン様がそういった表情をしたら周囲一帯が消し炭になる前兆である。絶対に逃げなくてはならない。
この魔王様は怠け者なので、絶対にそういったことはない。私の命にかけてもいい。
あー、もう。腹が立つ。
レイジィ様がもう一度言う。
「……連れて来い」
「ッ……は、はい……あはは、でも、どうせ、炭ですよ? ……は、はい、分かりました。お姉ちゃんを、『持って』きます」
ヒイロは一瞬泣きそうな顔になったが、すぐに足音高く部屋を出て行った。
まるで、私不機嫌ですよ! とでも言うかのように。
だけど、多分それをレイジィ様は気づいていない。
身動ぎ一つせずに布団の中を転がる魔王様に、珍しく多くのアクションを取っている魔王様に聞いてみる。
「どうするつもりですか?」
「……あいつは、ダメだ」
「……ヒイロが?」
「ああ……」
具体的な理由も言わずにただ面倒くさそうに一言だけ言う。
……どうやら、ローナが思う存分甘やかしてきた今までの行為は、少しは効果があったようだ。さすが人を誑かす事だけにかけては天下一品の色欲
考えうるありとあらゆる奉仕をしていたからなあ……私がキレたのもそれが原因なんだけど。
派手な足音を立てて、ヒイロが扉を音高く開けた。
レイジィ様のベッドに、乱暴にそれを投げつける。
「……お姉ちゃんです」
ヒイロが持ってきたのは、手の平に収まる数センチ四方の『魂核』だった。
その核も、半分ぐらい焼け焦げ、半壊している。私ならばこの核を見て生きているとは言わない。判別できる材料がないからだ。
悪魔は魂核さえ無事なら長い年月をかけて自己再生できる。が、ここまでダメージを受けてしまうと再生よりも自壊の方が早いだろう。
むしろ、よくヒイロはあの炭の中からこれを見つけたものだ。もしかしたら、さすがに姉妹として思う所があったのだろうか?
さすがのレイジィ様も原型すら留めないそれに顔をしかめて、核をつまみ上げる。
諦めたようにため息をついて、ヒイロの方を見て一言……もう一度、一言だけ言った。
「……よは」
「……え? あ、あの……申し訳ございません。私は……ま、まだ未熟ですが頑張ります。……その、『よは』って、どういう意味だか、教えていただけませんか?」
ヒイロは無茶難題をつきつけられ、先ほどまでの笑顔が嘘のように、涙をぽろぽろ零した
傲慢に自らを未熟だと言わせるとは、恐ろしい男だ。多分何も考えていないのだろうが。それは傲慢を司るものに取って憤死するほどの恥辱に等しい。
彼らはプライドの塊であるが故に、自らを世界の中心に置くが故に、プライドを傷付けられるような、他者と比較されるような行為に滅法弱かった。
「……はぁ……」
「ッ!? ま、魔王様……」
こいつ、何様だ。
ため息をついて、レイジィ様が眼を閉じる。
大体、「よきにはからえ」でも、「余は満足だ」でも、どちらの意味でも、特に具体的な指示を出しているわけじゃないじゃないか。
魔王様は、今特に何も望んでいないのだ。教えてあげればいいのに。
ヒイロがおろおろと周囲を見回す。私とも眼があったが、傲慢の悪魔は嫌いだったので無視した。
なんとか、評価を取り戻そうと空元気で話しかけている。多分評価は上がっても下がってもいない。大体、レイジィ様から評価をもらった所で何も意味がない。
思うんだけど、傲慢と怠惰って相性最悪じゃないだろうか。
他者への優越を信条とする傲慢に、何もかもがどうでもいい怠惰。怠惰の王には傲慢の優越感は満たせない。
ローナもいくらルールがあるとは言え、後任に選ぶ相手としては完全に選択を誤っていると思う。嫌がらせかよ。
「あ、あの……私、家事は得意なんですよ! 料理も、洗濯も、掃除も……自信があります。望むなら……せ、性奉仕だって……」
「そうか」
顔を真っ赤にして、明らかに無理をしているヒイロに、いつもどおりの答えを返すレイジィ様。
別にそっけないんじゃない、いつも通りなんだ!
だがそれをヒイロは知らない。魔王様とコミニュケーションを取ろうとしてはいけない。
貝か何かだと思わないと……だから私も困っているのだから。
そして、追い詰められたヒイロが必死な声でその『言葉』を言った。
「あの……なんなりとお申し付けください」
それを聞いて、レイジィ様が初めて自分の意志で意味のある言葉を言った。
「…………………………チッ、面倒だな」
「……えっ!?」
何様だこいつ。
レイジィ様が今までで一番深い溜息をついた。
ヒイロが呆然とした表情で魔王様を見る。彼女は何も悪いことは言っていない。暴言を吐いたわけでもなく、我儘を言ったわけでもない。
この光景を見たら、百人が百人、皆ヒイロに味方するはずだ。私だって味方をする。
今日入ったばかりのメイド相手に何もかもを察する事を求めるなよ。
そして、魔王様は何気ない動作で壊れかけた魂核を光に透かした。
何を考えているのだろうか。
そして、その瞬間がきた。
唐突に発生した気配に、一瞬息が詰まった。
ヒイロが唐突なソレに、整った顔を恐怖に歪ませ、大きく痙攣し、一歩後退った。
傲慢が傲慢を忘れ、憤怒が憤怒を忘れる。それは、私が行使した『憤怒の焔』が児戯に見える程の、世界を塗り替える程の魔力。
それは間違いなく、私がこれまで見た中で最も濃い力の波動だった。
何もかもどうでもよくなり、全身から力が抜けそうになる程の怠惰の力。
魔王様が死にそうな顔で唱える。それは、明らかな詠唱だった。
「『イー・イー・ルー・アケルディア。尽く、劣化し、堕落せよ。はぁ……金の理、万物織り成す黒き礎よ、我が名の元に唯、剥離を成せ。『崩壊する精緻なる金月』』 あ、スペルミスった……」
「ちょ……」
満ち満ちる魔力が魔王の詠唱に従い現象を成す。
基本的にスキルの発動は、詠唱あり、スキル名のみ、無詠唱の順で難易度が高くなり、威力が低くなる。
今までただの一度も詠唱は愚かスキル名すら言わなかった魔王が詠唱をしなくてはならなかったスキル、長大な詠唱は、間違いなく配属された中で見たスキルの中では……最も位階の高いスキルだに他ならない。
何が起こるのか、全く理解できないが、全身が違和感を知らせる。警鐘を鳴らす。
本来ほとんど感じられない、スキルが発動する気配がはっきり感じる。
世界の理がねじ曲がる気配に、ヒイロが悲鳴を上げた。
しかもミスったって……絶対に間に入ったため息だよね!?
スキルの詠唱すら満足にできないのか! この魔王は!
脳裏を駆け巡る思考はただの現実逃避だ。
スキルの詠唱が失敗しても、スキルは確実に発動している。
ばらばらと。何も変わっていないはずなのに、何かが壊れていく感覚。
魔王様が持ち上げた魂核が、半分焼け焦げていた結晶の色が、形が変わる。
結晶を中心にどこからともなく発生した黒い靄のような物が集まり、形を作る。その色が変わる。
ヒイロが呆然と呟いた。
「お、ねえ……ちゃん?」
「……はぁ」
億劫そうに吐かれたため息をよそに、まるで映像を逆回しにするように炭が色を取り戻し、完全に炭化していた顔が白く染まり艶を取り戻す。ぽっかり空いた眼窩に大きな瞳が生成される。
僅か数秒足らずで、そこには完全に怪我一つない『ローナ』が生成されていた。身体はもちろん、身につけていた衣服に至るまで傷ひとつなく。
想定を遥かに超えた事態に、ヒイロが目を白黒させて悲鳴を上げる。後じさりテーブルに背中をぶつけ、腰を抜かして、でもさらに後退った。
そして、ローナがゆっくりと眼を開いた。
……生きてる
馬鹿な……何だこのスキルは。
再生? 馬鹿な……再生で服まで戻るものか。大体、ローナは完全に消滅していたはずだ。半壊した魂核を再生させた所で、ここまで完全に元に戻るわけがない!
「おねえ……ちゃん?」
「ヒイ……ロ?」
ヒイロはふらふらとローナの方に脚を踏み出した。まるで幽霊でも見るかのように。
そんな妹を、ローナが眼をパチパチさせて見る。何が起こっているのかわからないかのように。
そりゃそうだ。一部始終見ていた私でさえ、何が起こっているのか全くわからない。
その時、ヒイロの顔色が変わる。青ざめたものから、困惑に。
そして首をかしげて、ローナの全身を見据えた。
私も気づいた。身体の再生が……終わっていない。いや、傷はもう完璧に治っているのだが、まだ『戻っていく』
まだスキルが終わってない!
何かが壊れていく感覚は、ローナの姿が元に戻って尚止まる気配がない。
ローナの身長が僅かに、だが確かに縮んだ。胸が同じように僅かに萎み、顔つきも僅かに幼くなる。
着ている服装が純白のメイド服から少し小さな黒を基調としたそれに変わる。ロングスカートが、ヒイロのそれよりは長いものの丈の短いそれに変わる。
ミスってまさか……
はらはらしながら見ている間に、長身がどんどん縮み、十五センチ程あったヒイロとの身長差が十センチになり、五センチになる。それに比較して、胸元の膨らみはほとんど変わらないが顔つきは大人びた美貌から幼気なそれに如実に変化していった。
ヒイロが別の意味で目を瞬かせ、レイジィ様の方を見た。
「……レイジィ様、これって……」
「……戻しすぎた」
全然反省の篭っていない顔つきでレイジィ様が、枕にぐりぐり頭を押し付ける。自分が失敗した癖に、こんな時まで魔王様はやる気がなかった。
戻し……過ぎた?
ローナの変化が止まる。
その時にはもう、ヒイロとの差はほとんどなくなっている。性格の差か、顔つきはややローナの方が大人っぽいが、確かにあった差が、成長の差が消え去っていた。背はまだローナの方が少し高く、胸が大分大きい事を除けばまるで双子のようにそっくりだった。唯一ある差は、色欲と傲慢の――司るものの差なのか。
ローナが戸惑った眼で、短くなった自分の手足を確かめる。
ヒイロはどう反応したらいいのかわからないのか、頼りなげに周囲を見渡していた。私が誰かに助けを求めたい。
レイジィ様だけが戸惑うことなく、悪気もなく、大分コンパクトに再生したローナに視線を向けた。
「記憶は……あるか? 今日の日付は?」
レイジィ様の問いに、ローナは戸惑いを捨て、姿勢を正す。丈の短くなったスカートが気になるのか、もじもじしながらもはっきりと返答した。
「え? あ……はい。本日は神暦271C8A年、カノン歴310年の11月11日です、レイジィ様」
満面の笑みで告げられたその答えを聞いて、レイジィ様がこちらを見る。
まさか、聞いておいて今日の正しい日付を覚えていなかったのか?
持ち直したヒイロが代わって答えた。
「お姉ちゃん、今日は11月12日だよ」
「へ? いや、今日は11日で……あれ? ヒイロ、背、伸びた?」
お前が縮んだんだよ!
首を傾げ、未だ状況の把握ができていないローナに、レイジィ様はさも、どうでも良さそうに言う。
「なるほど。わかった。よは」
「??? は、はい! 承知致しました……」
首を傾げながらも答え、ローナは癖のように腕時計を見て、続いて壁にかけてある時計を確認して、慌ててレイジィ様に頭を深く下げた。
「レイジィ様、申し訳ございません。少し……一時間程、お食事の時間が遅れてしまいそうです」
「よは」
「ありがとうございます。温情に感謝致します」
一瞬で日常のサイクルに戻ったローナが、ぱたぱたと静かな音を立てて部屋から出て行く。まだ状況の把握ができていない、妹の手を引いて。
私はその様子を見ながら、あっけにとられて何も言えなかった。
何その無駄な忠誠心。自分の身体が縮んだ事よりも、何年飲まず食わずでも生存できる魔王様の食事の事が心配だと?
レイジィ様の方を見るが、しでかした張本人のレイジィ様は全く何の満足感も達成感も罪悪感も感じた様子はなく、そのまま眼を閉じていた。僅か数秒で寝入ったらしい。
この魔王様、本当にブレないなあ……
あまりの清々しさに、私は自身の司る『憤怒』に自信がなくなっていた。




