第二話:滅べ!
今日も今日とて私が監視する魔王様は平和だった。
とっくに朝日は昇ったのに、ベッドは『レイジィ』型にこんもり盛り上がったまま身動ぎ一つしない。もはや生きているか否かも定かではない。
大魔王様からの激励のお言葉を受けてから、注意して見ているがどう考えてもいくらなんでもこの魔王は『怠惰』にすぎる。
憤怒を司る私は憤怒していない事はあるが、レイジィ様は怠けていない事がない。
そこら辺が魔王とただの悪魔の差なのか? いや、違うだろう。他の魔王を監視している黒の徒の話だと、魔王はただ悪魔のちょっとした延長線上であり、レイジィ様程に自身の属性をストイックに求め続ける者にぶち当たったものはいないようだった。死ねばいいのに。
いらいらしながら、自作の魔王観察日記に書き込む。
思わず目を見開いた。驚くべきことだ。由々しき事態だ。
報告すべきことが――何一つない。
スキルの訓練もやらないし、勉強をやるわけでもなければ、戦闘も行わない。臣下とのコミニュケーションも取らなければ、軍議にすら出席しない。全ては魔王様のあずかり知らぬ所で彼の臣下によって回っていく。私は君主制の一種の完成形を見ていた。だが、絶対に『君臨すれども統治せず』の意味をはき違えている。
いや、何も考えていないだけか。
貴方の役割がなんだか自覚してるんですか、まーおーさまー。
なんでこの軍、成り立っているんだ? いや本当に。
あまりの情けなさに私のストレスがやばい。そして、それが憤怒に変化し、その結果、常にぶつけようのない怒りを抱くことになってしまった私の憤怒のスキル系統樹は、才能は急激に成長しつつある。全然嬉しくない。
持ち込んだ椅子に座ってイライラしながらベッドを親の敵のように睨み続ける。
こうして私が殺気を放っているというのに、ただの一度も起き上がらないってどういうことだ……!
そして、そうこうしているうちに柱時計が時刻を打ち、諸悪の根源がカートを引いてやってきた。
音一つ立てずに扉を開き、しずしずと上品な動作で入ってくると、静かな声でその時を知らせる。
それは、おそらくレイジィ軍で最も魔王に近しい者。それすなわち、
「……レイジィ様、お食事のお時間です……」
メイドである。
年代物の給仕服を着た、清楚系の美少女悪魔である。司るものは知らないが、戦闘を行うようには見えないので、特に司るものがないのだろう。
人族の決めた種族でいうと、悪性霊体種という区分に入るらしい悪魔という種族には、生まれつき他者を害する本能というものがあるが、稀にそういった性を持たぬ悪魔がいる。
その場合、原罪を司らない悪魔という本末転倒な存在が出来上がることになる。特に、まだ渇望を抱く程に精神が成熟していない子供の悪魔に多いが、そのまま成長する事も稀だがあるということは知っている。
もし、彼女が何かしらの原罪を抱いていたらレイジィ様にここまで献身的になれるわけがない。この魔王様はクズなのだから。
名をローナという。姓はないらしい。私がレイジィ様の元に派遣されて一番関わりのある少女だった。
大きなぱっちりした美しい碧眼と肩まで切り揃えられた金髪が特徴の、多分私と同じか少し下くらいの年齢の女の子だ。
同時に、元凶でもある。この少女があらゆる意味で魔王様を甘やかすので、レイジィ様はいつまでたっても働かないのである。
何度も抗議しているのだが、これが仕事だと止める気配がない。こんな子が無駄に惰眠を貪る悪魔に仕えるなど、世も末だった。結局彼女が全ての黒幕だったとしても私は多分驚かない。
死ねばいいのに、と思う。だが死なない。戦死の心配もない。彼女は戦場に行かないのだから。
ローナのささやくような食事の合図に、魔王様の頭が布団からひょこりと飛び出た。眼が半分閉じている状態でうつ伏せになる。唯一、毎日定期的に魔王様の情けない顔が見れる瞬間だった。無防備だがここで攻撃を仕掛けてもレイジィ様には何らダメージがない。もう仕掛けたことがあったので知っている。
怠惰のスキルとは何なのか?
悪魔のクラスが持つスキル系統樹の中で、最もその全容を知られていないのは間違いなく怠惰のスキルツリーだろう。
怠惰の悪魔はスキルを好んで使わない。何故ならば、それが彼らの司る怠惰たる所以だからだ。だから、怠惰のスキルはほとんど知れ渡っていない。そして、彼らの中に自身のスキルを記帳するような勤勉な性を持つものはいない。知られていないのも無理はない。ふーざーけーるーなー!
一体彼らは何を考えて怠惰を進もうなどと思ったのか?
使わないスキルツリーを開拓して何をしようとしているのだろうか?
私はそれを考えるたびに、珍奇な動物を観察している気分になるのだ。そして精神が衰弱していく気分を味わうのだった。死ねばいいのに。
かろうじて知れ渡っている情報は、かの怠惰のスキルは耐久に優れたスキルツリーであるということと、他者の動きを落とすスキルがあるという点、そしてレイジィ様がスロータードールズと呼ばれる所以でもある、人形生成のスキルがある点くらいだった。
たったそれだけだが、ある意味ではそれだけの情報でも十分だとも思える。どうせこいつら、スキル使わないし。
レイジィ様が目をつぶったまま口を開ける。
ローナはその様子を蕩けるような笑顔で受け止めると、スプーンで食事を掬ってレイジィの口の中に入れた。まるで親鳥がひな鳥にご飯をあげるかのように。
驚くべきことに、この魔王は自分の手で食事すら取らないのだ!
いい加減にしろ! こんな魔王いてたまるか! 他のもっと勤勉な悪魔に謝れ!
いくら渇望を遂げても魔王になれない悪魔に謝れええええええええ!
歯を食いしばって心の中でだけ絶叫する。もう私の精神は色んな意味でヤバかった。
そしてローナもいい加減にしろ!
もうあれだ。その堕落っぷりを知れば知る程、レイジィの評価と同時にこいつでも魔王になれるのに未だ魔王に達していない他の悪魔への評価がどんどん下がっていくのだ。私も含めた。それが尚の事腹立たしい。
反射的に立ち上がる私に、ローナが視線を向ける。
ため息をつくと、スプーンを丁寧に皿に置いて、呆れたように腰に手を当てる。
「毎日毎日毎日、一体何が不満なんですか?」
その仕草に、頭の何処かで何かが切れる音がした。
レイジィが欠伸をした。
「はぁ? 何が不満だあ? 私を馬鹿にするのはいい加減にしろッ!!」
自分が魔王だからって舐めやがって……
理性が一瞬で弾け、憤怒が炎となり、血となって全身を駆け巡る。
私が如何に日々、我慢しているのか――カノン様が処分を下せないのならば、私が代わりにケリをつけてくれる……
しかも、よりにもよってこの段階に至っても……私を見てない。
目をつぶったまま頭をゆらゆらと揺らしている。それをサッカーボールのように蹴り飛ばしたい衝動にかられる。
ダメだ……もうそれはとっくにやった。傷一つつかなかった。
ならば、こいつに傷をつけようと思うのならば、それは『憤怒』のスキルを置いて他にない。
深呼吸をして、脳の中を駆け巡る激しい情動を束ねる。
隙が大きすぎて戦場では使えないが、じっくり時間をかけて力を集める。
憤怒を糧に敵を討滅する。それこそが『憤怒』のスキルの基本
「舐めやがって……カノン様に代わって――ぶっ殺してやる……」
『憤怒』のスキルの中でも最も威力の高い炎のスキル。
悪魔の心臓である、魂核から練りだされる炎が足元から柱となって天高く轟いた。
『憤怒』のスキルツリーにおいて、S級に分類される上位の攻撃スキル
私に使える最も強力なスキル
『憤怒の焔』
副次的に発生した熱風にローナがたじろぐ。
爆風で食器が吹き飛び、壁に激突して粉々に割れる。
余波だけとは言え。並の悪魔に耐えられる熱量ではない。ローナの腕が、肌が一瞬で熱に焼け、肉が焼ける嫌な匂いが立ち込める。ローナが顔をしかめ、反射的に後ろに下がり肌を庇うが、その程度で防げる熱量でもない。
「……ローナ、そこをどけ。巻き込まれても知らねえぞ」
「……無駄です。その程度の『憤怒』じゃ……レイジィ様の『怠惰』は破れない」
……舐めやがって。
炎が煮えたぎる感情に押され、曾てない程に温度を上げ、天井を保護していた結界が熱で破れ、構成していた岩が溶け液状となって床を焦がす。
言葉が燃料によって頭の中が更に赤く染まり、腕に纏う炎が黒の混じった赤に変化する。
ローナの服の裾が発火し、燃え広がる。
それを消そうともせず、ローナがまだ目をつぶるレイジィの頭を撫で、耳元に口を近づける。
そして、信じられない言葉を口にした。
「レイジィ様……私には妹がおります。私がいなくなったら彼女が代わりにレイジィ様のお世話をする手はずになっております」
「そうか」
自身の命をまるで気にしていないローナ。
そしてその事実に何ら興味を抱いていない怠惰の王。レイジィは、目を開けてすら――ローナの顔を見てすらいない。
「馬鹿な……死ぬつもりか」
「くっ……私にはリーゼのそれを防ぐ力がない。結果的に死ぬ、ただそれだけの事です」
痛みに耐えながらも、平然とした口調で述べられたその言葉が、憤怒の炎にさらなる油を注ぐ。
焔が布に燃え移り、キングサイズのベッドが炎に包まれる。ローナは身動ぎすらせずに、自身の身体が焼かれる中、ずっと火だるまのまま眼をつぶっているレイジィを見ている。
炎は私の怒りそのものだった。その質は唯の物理的な炎ではない。地獄の炎の名に相応しい万物を灰燼に帰す、この恐ろしく広い魔界で最も高い破壊を齎す終焉の炎だ。精霊種が扱う魔法の炎すら凌駕する。
焼いている対象の情報が頭の中に入ってくる。
ローナの魂で構成された肉体が、悪魔の基礎スキルツリーにある僅かな耐火の能力しか持たないであろう身体が、容易く炎に燃やされさらなる焔の糧となる。
まだローナが生きているのは、ただ単純にこれがスキルの欠片にすら満たない余波に過ぎないからだ。
私のスキルが発動すれば狙わずとも容易く――それこそ紙切れよりも容易く、その魂を灰燼に帰すだろう。
「レイジィに助けを求めろ」
「勘違いを……している。リーゼ・ブラッドクロス」
全身をじわじわと焼かれ、炭に包まれたローナの頭が、もはや生きていることが不思議な位に炎に飲まれたローナの消し炭になった眼窩が私を見た。
そこにあったのは虚無。全身を焼かれる苦痛に悲鳴の一言も挙げず、ただ来るべき死を粛々と待つそれは、私がこれまで見た何よりもおぞましい。
そのローナが、確かに一瞬笑った。
「……怠惰とは……何も考えず……何も成さず……感情を動かさず……ただ思うがままにそこに在る事を指すのです」
「ッ!? 」
肝心のレイジィは、何もかもを燃やし尽くす炎に包まれて尚、何一つ身動きしない。
髪一本、火傷一つ負っていない。何一つスキルを使っている様子がないのにッ!
目の前で――今まで自身の世話をしてくれた忠実な悪魔が焼きつくされようとしているのに!
自身の世界の何もかもが焼きつくされているというのに!
その事実に、脳が臨海に達した。
頭が割れるような、この世の全てを焼きつくして尚足りない憤怒が脳を突き破り、炎の温度が更に大きく上がる。
その時、レイジィが初めて目を開いて呟いた。
視線が初めて私の方を向く。迷惑そうな表情で。
「……暑い」
何を言っているんだ……こいつ……
顔が引きつるのがわかる。理解のできない言葉。理解のできない在り方。
微塵の躊躇もなく、私はスキルを発動させた。
「……ッ、滅べ! レイジィ!」
「……そうか」
レイジィが不快そうな表情でため息をつく。
そして、私が向けた手の平――黒の焔を見て、一言だけ言った。
「よは」
刹那の瞬間で、初めて魔王がスキルを発動させたことを理解した。スキル名すら言わずに。
襲いかかる寸前だった私のスキルよりも疾い速度で。
魂を保護する精神汚染耐性のスキルが、僅かな抵抗も許されず、一瞬で突破された事を本能で識る。
それは、魂核を揺さぶる衝撃だった。視界が乱れ、思考が反転する。
頭の中の熱がごっそり抜き取られる。
まるでその感情が嘘であったかのように、心に穿たれた穴は一気に精神世界に奈落を呼び起こし、原動力である怒りを失ったスキルが発動の寸前に弾け消える。周囲を燃やしていた炎も、ローナを焼きつくした炎も、何もかもがまるで夢であるかのように。
「何……を……」
黒の炎がすっかり消えた手の平を見る。
私は……怒っていたはずだ。確かに、何もかもを燃やし尽くし世界を灰燼に帰す程の憤怒と憎悪を抱いていたはずだ。
記憶は残っている。つい数秒前まで、確かに激怒していたはずなのに――もう、そんなことどうでもいい。
記憶と感情の齟齬がぞっとするような冷たい風となって何かがあったはずの精神の空隙を埋める。
膝から力が抜け、熱を失い、急速に凝固した床に跪く。
分からない。何もかもがわからない。怒りの感情がわからない。何故、どうして、私は怒っていたのかが。どうやって怒っていたのか。記憶がそれに応えてくれない。
混乱する私を意に介さず、炭の中で、レイジィ様が億劫そうに、ほぼ灰になった寝具の上で寝返りを打った。
この異常な事態を説明できうる理屈はたった一つしか思いつかない。
――これが……怠惰のスキルなのだ。
仰向けになったレイジィ様の視線がこちらを見る。
「…………」
だが、しかし、レイジィ様は何も言わずに眼を閉じた。
そのふてぶてしいにも程が有る態度に、私の中に新たな種火が生じた。
何か言えよ……




