第四話:まだ納得できる
悪魔として生を受けてから振り返るまでもなく最低最悪の戦闘だった。
力がなく、スラムの片隅にしか居場所がなかった頃から数えても、ここまでの屈辱を感じたことはない。
紫の触手を出されて一時間。
死屍累々。もはや第三軍は数える程しか残っていない。壊滅とさえ呼べる。
魔王の力は絶大で、それこそ将軍級だろうが並の悪魔だろうが大して違いはないのだろう。
逃げ出そうとした兵はほとんどいなかったが、逃亡しようとした一部の悪魔も後ろから音速に迫る速度で打ち出された触手に食われて消えた。
まだ触手に触れられる魔剣を持つデジならばともかく、私が生きているのは単純にゼブルに殺す気がないからだ。
私の『食べ方』は非常に手間がかかるものだから。
ゼブルがペロリと唇を舐める。人数が減ったからか、触手の数は減っており、人の形を取り戻していたが、意味がない。
疾すぎて躱せない。
「ふふふ、さすが色欲……綺麗な肌じゃないか。ちょっと身体に凹凸が足りないけど、いい味がしそうだ。楽しみだな」
その眼に浮かんだ食欲に、頭の中がカーっと真っ赤に熱くなる。
既に身体を包む兵装は全て溶かされ、腹の中に消えていた。
荒野の中で、何も隠すものがない姿で、打開する手もなくただ無為に逃げ続ける悪魔が滑稽以外のなんだろうか。
全身が鉛のように重く、身体は久方ぶりの激しい運動に上気している。
だが、諦めるわけにはいかない。
「でもおかしいな……色欲の悪魔にしては色欲の匂いが足りない……君、ムッツリスケベ?」
ふざけたような口調で投げかけられる言葉。失礼な女だった。
「きっきっき、まったく。こんな所じゃなく、ベッドの上で見たかったぜ!」
減らず口を絶やさず、デジが何十度目かの攻撃を行う。
残ったのはセレステのみ。だが、その剣は剣としての確かな力を残していた。炎の神性が業火の奔流を顕現し、ゼブルを襲う。
「やれやれ、君も諦めが悪いね……正直、炎は美味しいけど、お腹にたまらないみたいだね。あまり好きじゃないかなあ」
だが、それも通じない。何十度か繰り返した動作で、ゼブルが口を開ける。
まるで吸い込まれるように炎がその小さな穴に吸い寄せられ、消える。
「……くそっ、いくらなんでも反則だろ……」
「ふふふ、大丈夫、君たちは――僕が一昨日食べた魔王よりもよほど強いよ。恐ろしい剣だ」
「きっきっき、剣だけかよッ!」
「ふふふ、一万年もあれば僕の『欲』の足元くらいには及ぶんじゃないかな」
「……見逃す気はねえよな?」
「僕は腹が減ったんだよッ!」
触手に巻き込まれ、また一体の悪魔が飲み込まれる。
粘液の滴った地面は溶け落ち、無数の穴が開いている。
「おい、ミディア……」
「……何?」
「一個だけ、まだ目がある手がある」
デジが疲労のたまった表情で言う。自慢の宝剣を喰らわれ、その眼には目の前の魔王に対する敵意が篭っていた。
そして、デジは言った。
「お前の……『分装幻舞』を俺によこせ」
「……は? 何を言ってるの?」
デジが険しい眼で魔王を睨みつける。攻撃を仕掛けてこないのは余裕か?
「あのスキル……実体を持つ幻を生み出すスキルだろ?」
「……ええ。より詳しくいうなら、幻を生み出し、実体をその範囲内で自由に変えられるスキルだけど」
殺された後に実体を幻にできるスキル。それこそがルクセリアのスキルツリーを相当な上位まで進まなくては手に入らない『分装幻舞』の力だった。概念系とも分類される強烈なそのスキルは、攻撃を受けるまで全てが実体なので精神汚染耐性でも見破れない。
「同じことだ。嬢ちゃん、よく聞け。今俺たちにはゼブルを倒す手段はない。ほんの少し、もし仮にその目があるとすれば、この剣だ」
剣身にひびが入った魔剣を掲げてみせる。
確かに、セレステの炎による攻撃だけはゼブルは防いでいる。いや、食っているのだが、何かしらのアクションをとっているのは間違いない。毎回とっている所を見ると、取らなければダメージを受けてしまうのだろう。
一撃で討滅できるとは考えられないが。
「『分装幻舞』を俺の『簒奪』で奪い、それを使って全方位からセレステの力であの野郎を焼き払う」
その言葉は、信じられないものだった。
思わず離れかけた手で慌てて胸を隠す。デジの眼は本気だった。
「馬鹿な……『分装幻舞』はSS級のスキルよ? それを使用した上にセレステの力を使うなんて……無理よ」
「きっきっき、ってことは……魔力の問題だけなんだな……どっちにしろ今やらなければ、食われるだけだぜ? 妙な料理をされてよお」
確かに……その通りだ。
このまま時間を無駄に消費しても敗北は必至。ならばかけるのも悪くない。
小さく頷く。
「ふふふ、相談は終わりかい? そろそろ僕の空腹も限界なんだけど」
「ああ……きっきっき、丸焼きにしてやるよ」
デジが差し出す腕を取る。
それに触れた瞬間、強欲のスキルツリーの一つ、『簒奪』のスキルが発動した。
『簒奪』とは、その名の通り他者のスキルを奪い取る強欲のスキルで最も有名なスキルだ。
いくつも複雑な条件を満たさねばならないため、戦闘中に条件を満たして相手のスキルを奪い取る事などはできないが、それでも奪い取ったスキルを自由自在に操り、成長させることもできる強力なスキルである。
特に、悪魔のクラススキルは本来、原罪を満たさねば得られない。
そのスキルを、前提を無視して得られるのは途方も無いメリットだ。条件がある分だけ悪魔のクラススキルは強力なのだから。
身体の中を探られるかのような違和感。気色の悪いその感覚を何とか歯を噛み締め我慢する。
だが、デジはすぐに顔を大きく歪め、呆然とつぶやいた。
「馬鹿な……『分装幻舞』のスキルが……ない……どういうことだ!?」
「え!?」
デジがより力を入れて、砕けかねない程の力で手をにぎる。
存在を縦横無尽に探られる。
「ない……馬鹿な……そんな、馬鹿な。条件は満たしているはずだ!! いくらSS級のスキルとは言え、見つからないなんて……ありえねえッ!!」
「……スキルの熟練度が足りないんじゃない?」
私の言葉を、デジが否定する。
まるで化け物でも見るかのような眼で私を見下ろしながら。
「いやいやいやいや、簒奪のスキルは……そういうスキルじゃねえ。……嬢ちゃん、あんた、本当にスキルを使えるのか?」
「……さっき使ってみせたじゃない」
「……だが――くそっ、時間がねえ。仕方ねえ、セレステを貸す。嬢ちゃんが殺れ!」
無理だ。そんなのは絶対に無理だ。
私とデジの剣士としての腕は明確に差異がある。それは単純な腕だけではなく、筋肉のつき方、身の運び、わずかな癖に至るまで、これまで生きてきた経験で染み付いた意識野の外の微細な動きによるものだ。
私ではセレステを扱えない。たとえ炎を飛ばすだけだとしても、この手の魔剣は剣士としての腕が物を言うし、そもそも、『分装幻舞』を使うだけの魔力が私には残ってなかった。
「ダメ……『分装幻舞』のスキルを使う程の魔力がない」
「く、こりゃいよいよ……奇跡にかけるしかねえか?」
鋭い眼が飄々とした魔王を睨みつける。
奇跡?
その言葉に、私の脳裏を光がよぎった。
……いや、そういう意味では、一つだけ……たった一つだけ、まだ目がある。
勝ちの目と呼べる程可能性の高いものじゃないが、私にはたった一つだけ魔力を回復させる方法があった。
だが、もしそれを扱ったら私の本性がバレるだろう。いや、もう既に一度扱ってしまっている。
バレるのも時間の問題か……
あまり好きではなかったデジの顔を見上げる。
私よりも勲功を成すこの男を。
だが、今は好き嫌いで判断する段階ではない。
覚悟を決め、口を開いた。
「デジ……あの、私が――」
「……は? 馬鹿な……どんな奇跡だこりゃ」
だが、返ってきたのは忘我の表情だった。セレステの炎で荒野を焼き払って尚、生き延びたゼブルを見たその時と同じ表情。
常識の範疇外の出来事が起こった際に現れる表情。
デジが夢でも見てるかのような目で私を見下ろす。
「嬢ちゃん、感じねえか?」
「え……あ! ……ええ!?」
数秒遅れて、私も気づく。
その言葉の意味に。
風が吹いていた。全てを押し流す淀みのない黒の風が。
自身の手の平を呆然と見つめる。疲れきっていたはずの身体に僅かだが力が戻り、ガス欠だった魔力が僅かに戻る。
粘りつくような感覚が押し流される。
「レイジィ様の『混沌の王領』が……復活してる!?」
「……馬鹿な……どうして今更、旦那の王領が……」
そう、今更だ。
『混沌の王領』は強弱が自由に効くスキルではないはずだ。そりゃ魔王の力が増大すれば範囲も威力も高まるだろうが、それは魔王の基礎能力の増減によるものであり、意志によるものでは決してない。
ゼブルもそれに気づいたのか、困惑の表情になる。
魔王本人に効果はないはずだが、今まで問題なく構築出来ていた縄張りが突如破られれば不審にも思うだろう。
「……おいおい、何をしたんだい? これが君たちの秘策?」
そんなわけがない。
『混沌の王領』はあくまで魔王のクラススキルだ。未だそれに開眼していない私やデジではどうしようもない。
それこそ奇跡が起こらない限りは。
だが、本当の奇跡はこれからだったようだ。
デジが突然目をカッと開いた。
唇がわなわな震え、力が抜けた手がセレステを取り落とす。
明らかな隙。今攻撃されたらそれこそ一瞬で食い殺されるだろう。
「馬鹿な……何故、いまさら……いや、そもそも――どうして、ありえん」
だが、私もそちらを気にしている余裕はなかった。
デジの視線の先に気づいたから。
(メイドたちの)手のかけられた艷やかな黒髪に、曇り一つない不健康な青白い肌。
夜を体現したような漆黒の外套は大魔王様より賜われたという噂だが、誰もその真偽は知らない。
刃物はもちろん、杖一つ持たず、冠はもちろん、装飾品の一つすらつけていない。
仕立ての良い絹で織られた黒の服は、内側からだらしなくシャツが出ており、ベルトすらしていないので派手な動きをしているわけでもないのに、今にもパンツが脱げそうだった。
その姿は、ありとあらゆる意味でこの戦場で現れていい姿ではない。いや、現れるわけがない。
これならば突然槍が降って魔王が滅んだなんて与太話の方がまだ信じられる。
「ミディア……これはお前の幻術か?」
「……そんなわけない」
そんな余裕もないし、意味もない。
自らの主の姿を幻で見せるなんて、私には恐れ多すぎてできない。
「……なるほど、ならばゼブルの幻術か……あー、びっくりしたぜ。旦那がこんな所にいるわけがないもんなあ」
「……なるほど……それならまだ納得できる」
固まっていた思考が、デジのまだありえそうな話に解凍された。
なるほど……どれだけ悪趣味な魔王だ。どんなに私達が死にかけたって、来るわけのないレイジィ様を見せるなんて……これも料理の一貫なのか?
上げて落とすと味がよくなるとか?
なんにせよ、びっくりさせないで欲しい。殺される前に、心臓が止まるかと思った。
あまりの衝撃に、まだ心臓が早鐘のようになってる。
しかし、それにしてもよく出来ている。
レイジィ様の姿を拝見するのはとても久しぶりだ。特に外に出ている姿を見るのなんて、何年ぶりかもわからない。今までの記憶を振り返っても、私が見たのは最初に出会ったあの時が最初で最後だったし、これからもまたありえないだろう。
髪がボサボサでもツヤが出ているのは、メイドが人形でも世話するように四苦八苦して整えているからだし、青白い肌は三百六十五日外に出ていないその性質を完膚なきまでに再現している。
まるで寝室にいるときと同じ眠そうな表情で、ぐらぐら揺れている様子は今すぐに近寄って支えてあげたくなるくらいに頼りない。
「やばいなあれ……マジでそっくりだぜ。旦那が仮に立ったとしたらあんな感じだろうよ」
「……同意ね。……あ!!」
その時、重要なことに気づいた。
私、今……何も着てない!
慌てて座り込み全身を隠す。幻とは言え、主であるレイジィ様に裸を見られるなどあってはならない事だ。たとえレイジィ様が小指の先ほども私を意識していないとしても。
頭の中が羞恥で塗りつぶされそうな程に真っ赤に燃え上がり、座り込み身体を抱え込んでも見える事に気づいてデジを見上げた。
「デジ……マント」
「……おうよ」
ボロボロになったマントを放られ、なんとかそれに身体を包む。こんな格好じゃうまく動けないが、そんなこと気にしている場合じゃない。
デジは目をむいて幻の挙動を観察し続ける。
「……おいおい、旦那のやつ、ゼブルの目の前で寝始めたぜ」
「……ほんっとうにそっくりね」
ゼブルが困惑の表情のままで、突然目の前で横になったレイジィ様そっくりの幻に声を投げかけた。
「……君、誰さ」
「……そうか」
幻は何の話も聞いていない表情で、前後の繋がりが全くできていない言葉を返した。




