ワイン奮闘記
私の闘いは夜に始まった。
グラスの中の赤ワインは、とても濃い色をしていて透き通っている。
はじめてのワインを前に私はごくりとつばをのみこんだ。のみこんだつばの量が多すぎてのどにひっかかりそうだった。
赤ワインの場合は色が濃い方が上質なものらしく、私の目の前にあるワインはそうとう高級なものだということがわかる。
しかし同時に色が濃いほど渋みが強いらしく、これを飲むのには少し勇気がいる。
私はそっとグラスを持って、軽く回した。
テレビか何かで前にこういうことをしている人を見たのだ。
私は目を凝らしてワイングラスを見つめた。グラスの内壁に残ったワインはゆっくり、ゆっくり、流れ落ちる。粘り気が強いようだ。
私はグラスのふちに鼻を近づけてワインのにおいをかいだ。ワインからは果実の香りがはっきりとした。もっときついにおいがすると思っていたので意外だ。
(けっこういいじゃん!)
私は調子にのって深く息を吸い込んだ。さっきした果実のにおいは実は私の好みだったのだ。
しかし……。次にしたにおいは先程よりは数段きついものだった。
(げっ!)
私の鼻は曲がりそうになった。さっきまでの柔らかいにおいはどこに行ってしまったのか。
まさかそんなことはあるまいと思って、私はもう一度グラスに鼻を近づけたが、やはりきついにおいだ。はたしてこれはどういうことなのか、私にはわからない。
これを飲むにはどうも一歩踏み出せず、なんと三十分が経過した。
「おいおい、まだ飲めないのかよ」
お風呂上がりの彼がタオルで頭を拭きながらやってきた。
「うん。なかなか勇気がでないの」
「それにしたって時間かかりすぎだろ」
「最初はいいにおいだったのに、次にかいだらすごいきついにおいになってたのよ」
「ああ、それはな」
彼によると、ワインが空気によく触れて眠っていた香りが蒸発したかららしい。最初に私がかいだにおいは「アロマ」という果実香で、次にかいだものは「ブーケ」という熟成香だということも教えてくれた。
「何よそれ!」
私がむくれると、彼は口に手をおさえてくすくすと笑った。
「それもまたワインの魅力なんだよな。いろいろな味わい方ができるのも楽しみの一つだ」
「何偉そうなこと言ってるのよ。こんなもの飲んでも何にも楽しめないじゃない」
「じゃあ飲まなければいいだけさ」
「飲んでみろって言ったのあんたでしょ!」
「まあ、まだお前にははやかったな。お前の舌はまだ子どもってことだ」
子どもなどと言われて私は頭にきた。私は大人だ、何が子どもだ。
「いいわよ!飲んでやるわ」
私は宣言すると、再びワインと向き合った。ぴくぴくと少し手が震える。心臓の鼓動がはやくなる。
「だめ……」
私は床に大の字で寝転がった。あんなものを飲めるはずがない。ましてや味わいながら飲むことなど。
「俺が飲むぞ」
そう言って彼はワインをごくごくと飲み干した。ずいぶん幸せそうな顔をしているではないか。
だがこんなものを飲んでどこが幸せなのか、私には全く理解できない。理解しようとも思わない。
「う~最高」
「何が最高よ。そんなものがおいしいって言う人の気が知れないわ」
そう言って私はそっぽを向いた。
「やっぱりまだ子どもだな」
「うるさい!」
私は思ったよりも大きな声で怒鳴ってしまったらしく、彼は少し驚いたようだ。
「ごめんごめん」
彼は言った。申し訳なさそうな顔をして両手を合わせている彼が頭にうかぶ。
謝ってはくるものの、おそらく私は子どもだと思われているだろう。そう思うとなんだかくやしくなってきた。
「よし、やっぱり飲む!」
私は二度目の宣言をして、グラスにワインをそそいだ。彼は心配そうに私の方を向いている。
だが、心配される必要はない。こんなものすぐに飲んでやる。
「大丈夫かよ」
「平気よ。五秒で飲み干してやるわ」
私はグラスにそそいだワインをにらんだ。やはり、とても濃い色をしている。これを飲むのかと想像するだけで舌がピリピリしてくる。
「無理するなよ」
無理などしていない、私は飲める。私は自分に暗示をかけるように心の中で繰り返した。
どのくらいたっただろうか。気がつくと彼はいなくなっていた。あきれてベッドに行ってしまったのだろう。時計の長い針は一周はしていたのではないだろうか。
しかしこれ以上ひきずるわけにはいかない。何としてでもこれを飲まないといけない。私は子どもではないのだ。
私はおそるおそるワインに口を近づけた。一気にのみほしてやると覚悟を決めた、そのとき。
ワインが私の口に入るよりも先に、とてつもないにおいがした。今度こそ鼻が曲がりそうなって、嗅覚が麻痺した。
私は酔ったような気分になった。実際はまだアルコールを摂取していないはずなのに、身体中にアルコールが回っている気がするのだ。
意識が朦朧としてきた。
頭ではもう無理だと言っているのに、どうしてか体はワインを欲しており、勝手にワインに近づいていく。本能が理性に打ち勝ったのだ。
そして、ついにワインを口に含んだ。最初に舌先から甘みが、次に酸味が、そして最後に口のなかに、辛み、苦み、渋みが混ざったような不思議な味が広がった。
なぜだかそのとき、私は飲んだこともないのにワインの味わい方を知っていた。自分でも不思議で、自分が自分でないようで。
私はじっくり味わいながらワインを飲み終えた。さっきまでワインが飲めなかったのがうそのようだ。
ワインを飲んだという達成感もわいてきた。自分がワインを飲んだんだと思うと、とても誇らしげにさえ思えてきた。
おいしい、おいしい、こんなにおいしいなんて。私は机の上に顔をのせ、しあわせな気分で眠りについた。(完)