第十七話 濁る濁らないは本人にとって大問題
通子が落ちたことを直はまだ知らない。もっとも彼女は現在学園にはいない。
東京のビルの谷間を学園専用車に乗って南へと進んでいる。
隣には直をこの車内へと誘った校長。
「以前あんな思わせ振りなこと言っちゃったけど、本当に待たせちゃったよねー」
幅広い反対車線を眺めながら校長は呟く。
「あ、いえ……こういうのは時間のかかることですから……」
直も校長と同じく視線に反対車線を入れる。かつては中山道と呼ばれる重要な街道であったこの道、葵塚市なら片側だけでも充分一本の道路となり得る。
「やっと一人アポイントが取れたのよ。元からその気はあったんだけど、相手が仕事と趣味の予定入れまくりでさー」
「ま……、それだけ趣味を入れないとやっていけない激務なのでしょう……」
直の視界に入る校長もかなり忙しい人である。しかし彼女はそれを言うことなく、車窓の景色が変わるのを見て
「着いたわよ」
と、直を見る。
四〜五階建てのビルの森から突然その倍はあろうかと思える建物たちが視界に入る。都会の狭い土地でも多くの学び場を得たいと地下へ空中へと求め続ける大学――直たちを乗せた車は文京大学の敷地へと入った。
「いやいやいやいやようこそ、よーうこそいらっしゃいましたー」
文京大学でも一番高い建物の二十七階に、相手の部屋はあった。窓の外は周囲にこれよりも高い建物は無いため、新宿や池袋の高層ビル群がはるか遠くに見える。
これよりも上にある学生食堂は一般にも開放されており、夜は密かなデートスポットにもなっているほどだ。
二人を出迎える男は腹がふくよかでにこやかな中年男性。と言っても太っているとの印象は感じられない。年を重ねるごとに自然にこうなったと思える。彼の笑顔がそれを気にさせないのもある。
「私、この文京大学の総長を勤めます。詩崎平助と申します」
「詩崎さん、本日はお時間をいただきましてありがとうございます。私、葵塚学園校長……」
校長が自己紹介をしようとしたところを詩崎総長はすっと手を出して止める。
「『しのざき』ではありません。『しのさき』です。私の名前は決して濁らないのです」
「これは大変失礼いたしました詩崎さん……」
校長の自己紹介と直の紹介を終え、互いに黒く柔らかなソファーに座り本題に入る。
部屋の片隅に何か水墨画のような黒い塊が塗りつぶされている紙が額縁に一つ、収まっている。
一瞬だけ見えた直にはそれが何か分からない。もっと近づけば分かるかもしれないが、それをする気も時間も無い。
「ご自身が所有する大学だけではなく、『他の大学にも麻雀部を設けることで、麻雀に対するイメージアップを図る』という考えには私も賛同しております。是非うちの大学にも麻雀部を設置しようかと考えておりますー」
終始笑顔で話す詩崎総長を見て直はかつて校長が言っていたこと――葵塚学園の理念を外へと拡げる――が実現へと動いたことを感じていた。まさに詩崎総長が校長の代弁をしていたのだ。
「私よりも……義父である理事長……。つまりこの大学のトップが私以上に乗り気なんですよ……」
「ええ、本当はお義父様にもご挨拶をしたかったのですが……」
校長の言葉に詩崎総長は恐縮そうに答えるがそれでも笑みを浮かべている。
「ええ、義父は気が付いたらすぐどこかに出かけてしまいまして……、ああ放浪癖があるって意味じゃないんですよ。なんでも自分の知らない世界を知ることでこの大学に新しい風を入れるのが理事長としての使命だと思っていまして」
「それがこの学園の経営や教育方針に活かされているのですね」
直の相槌に詩崎総長は気に入ったらしく笑顔で頷きながら答える。
「ああ、正にその通りです。私は理事長の血を引いていない婿養子なもので……その努力・向上心は彼の爪の垢でも煎じて飲みたいくらい見習いたいのですが……」
そこまで言った後で彼は右手を前へと水平に突き出し
「どうも私は趣味に夢中になってしまいまして……」
そう言いながら右手を何度も直角に上げ、さらに
「ええ、本当に休みの日は趣味のことばかりであはははは……」
と、照れ笑いを浮かべるのであった。
「詩崎総長の趣味って一体何でしょうね」
葵塚学園へと帰る車中。直は左手にあるモバイルパソコンに目を通しながら彼との会談を思い出す。会談の内容自体は直や校長にとって良いものであったが最後まで趣味についての話は(その話をしに来たのではないので当然のことなのだが)してくれなかった。
「あの動き……手旗信号か釣りじゃないからしらね……」
「ああ、その二択ですか……」
詩崎総長の趣味にある程度の目処がついたので、直の頭脳は右手のプリントの内容について埋め尽くされた。それは明美から渡されたリスト。そこに追加情報として各部より「ミス葵塚学園コンテスト」に立候補した部員の名前および面接の合否が書かれている。当然立候補者がまだ決まっていない所や、面接を受けていない部もある。
それらの情報は事あるごとに直が教えたアドレスに送られてくるので、モバイルパソコンでそれを見ながらプリントに書き込んでいく。
そんな報告メールのなかに凛からの――つまりは麻雀部からのメールがあった。それを開いて直は思わず
「ええええっ!?」
と、隣の校長が驚いて見るほどの大声を出す。
直が通子の落選を知った瞬間であった。




