悪役令嬢は死んでも謝らない〜わたくし、いつ改心いたしましたの?〜
死んでみて、はじめて分かったことがある。
人は、死体にだけは本音を言う。
オディール・ド・ベルクールは柩の中で、まぶたひとつ動かせないまま、その発見をもう何度目かに噛みしめていた。
礼拝堂の空気は、百合の匂いで重たい。蝋燭の芯が爆ぜる音、衣擦れ、すすり泣き。目は閉じたままでも、耳だけはやけによく働く。
〈眠り姫の雫〉と、下町の薬師ナタリーは呼んでいた。
ひと匙で息が止まり、肌が冷え、脈は医師の指でも拾えないほど細くなる。それでいて耳だけは起きている。
計画は単純だった。公爵令嬢オディールは急な病で死ぬ。3日目の午後に葬儀が営まれ、日が落ちる前に柩は一族の霊廟へ納められる。その夜半、合鍵を持ったナタリーが霊廟の扉を開け、名前のない女をひとり連れ出す。
王太子との婚約も、父の野心も、毎朝きつく結い上げられる重たい髪も、まとめて柩の中に置いていく。
生まれてこのかた、彼女は誰かの持ち物だった。父の駒で、王家の花嫁候補。どちらの役も、自分で選んだ覚えはない。自分でこしらえたのは社交界の悪女の役だけで、それは少し気に入っていたけれど、続けるのにも飽きた。
だから死ぬことにした。
――そのはずだったのに。
◇
ナタリーの店は、下町の坂のいちばん下にある。
干した草と獣脂の匂いがこもる狭い店で、オディールは外套の頭巾を下ろさないまま、銀貨を卓に積んだ。
「死ぬ薬かい」
「死んだふりをする薬よ」
「同じことさ。世間から見りゃね」
老婆は銀貨を一枚ずつ噛んで確かめてから、棚の奥へ手を伸ばした。出てきたのは、親指ほどの小さな瓶。
「公爵様のお嬢さんが、なんでまた」
「飽きたの」
「何に」
「全部に」
ナタリーは喉の奥で笑った。
「評判は聞いてるよ。侍女を泣かせ、令嬢を泣かせ、こないだは伯爵家の娘の手を焼いたって」
「最後のは、わたくしじゃないわ」
「じゃあ、なんで黙ってるんだい」
「否定するのが面倒だからよ」
老婆は呆れたように瓶を振ってみせる。
「死んだら、もっと面倒だよ」
「結構よ。死人は何も聞かなくて済むもの」
「聞こえるさ」
ナタリーは瓶をオディールの手に押しつけた。
「耳だけは起きてる。退屈だろうがね、お嬢さん。3日目の日暮れには切れるよ」
◇
最後の夜会は、ひどく退屈だった。
ジュール王太子は一曲だけオディールと踊り、そのあいだ、あくびを噛み殺してばかりいた。オディールのほうも似たようなものだ。将来の夫と交わす言葉は、天気と馬の話で尽きてしまう。
広間の隅では、令嬢たちがアデル・ド・クレマンの噂をしている。先月の夜会で倒れたランプ。焼けただれた両手。そして、そのとき近くにいた公爵令嬢。
「オディール様、お気になさらないで」
取り巻きのセレスト・ド・モンフォールが、すり寄ってきて囁いた。男爵家の娘で、いつもオディールの半歩後ろにいる。
「わたくしは、オディール様じゃないって信じておりますから」
「そう」
「あんな噂、すぐに消えますわ」
セレストの目は、言葉とは別のところを見ていた。オディールの胸元。母の形見の、青い石の首飾り。
「その目」
オディールは扇の先で、セレストの顎を軽く持ち上げた。
「首飾りが欲しい目ね。前から気づいていたわ。……あげないわよ。あなたの首には、重すぎるもの」
周りの令嬢たちが、くすくすと笑う。セレストは頬を赤くして、それでも笑ってみせた。
「まあ、オディール様ったら」
この娘は、いつもそうだ。何を言われても笑っている。その笑顔の下で何を考えているのか、オディールは知ろうとしたこともない。
帰りの馬車で、セレストは「今夜はお屋敷に泊めていただけません? 家まで遠くて」と言った。
オディールは断らなかった。どうでもよかったのだ。
今夜、オディール・ド・ベルクールは死ぬ。隣の客間で誰が寝ていようと、関係はない。
◇
雫を飲んだのは、その夜更けのこと。
寝台に横たわり、天蓋の刺繍を眺めているうちに、指先から冷たさが這い上がってきた。息が浅くなり、やがて止まる。苦しくはない。ただ、体という部屋から自分ひとりが閉め出されていくような、妙な心地がする。
扉が開いたのは、それから半刻ほどあと。
足音で分かった。踵を少しだけ引きずる、気の弱そうな歩き方。セレストだ。
「オディール様? ……まだ、起きていらっしゃいます?」
囁き声が近づき、寝台の脇で止まる。
何をしに来たのか、見当はつく。首飾りだ。夜会で笑いものにされた晩に、わざわざ泊まっていきたがった理由も、それで説明がつく。
冷たい指が頬に触れた。首筋に。手首に。
息を呑む気配がする。
セレストは悲鳴を上げなかった。人も呼ばない。
長い沈黙のあと、彼女はくすりと笑った。
「……うそ。死んでる」
それからの手際は、見事なものだった。
セレストはオディールの頭を持ち上げ、枕の下を探った。宝石箱の鍵がそこにあることを、取り巻きの娘は知っていたらしい。抽斗の開く音。小さな金具の鳴る音。
「ずっと欲しかったの、これ」
うっとりした声だった。
鍵を枕の下へ戻そうとして、指が滑ったらしい。何かが床に落ちる、乾いた音がした。セレストは舌打ちをしたが、拾いはしなかった。死人の部屋で長居をする度胸までは、なかったのだろう。
去り際に、彼女は耳元へ顔を寄せた。
「ねえ、オディール様。アデル様の手を焼いたランプ、あれを倒したの、わたくしなの。みんな、あなただと思ってる」
甘い息が、冷えた耳朶にかかる。
「よかったわね。もう言い訳しなくて済むわ。……殿下のお隣も、空いちゃったわね」
扉が閉まった。
オディールは、動かないまぶたの裏で思った。
――この女、殺してやろうかしら。
死体の身では、思うだけで終わった。
◇
翌朝、オディールを見つけたのは侍女のポーリーヌだった。
悲鳴。駆けつける足音。医師が呼ばれ、脈を探り、首を横に振る。父が来て、母の代わりに家政を仕切っている叔母が来た。屋敷じゅうが、正しい手順で悲しみ始める。
オディールは、それを他人事のように聞いていた。
柩が礼拝堂に移されてからは、弔問客がひっきりなしにやって来た。そうして彼女は、例の発見をすることになる。
人は、死体にだけは本音を言う。
最初の晩、父が柩のそばに立った。
長いこと黙っている。悲しみの沈黙かと思っていると、低い声が落ちてきた。
「……手に余る娘だった」
それだけだった。ほんの少しだけ、肩の荷が下りたような声音で。
まあ、そうでしょうね、とオディールは思う。わたくしも、手に余る父だと思っておりましたもの。
2日目の朝、危うい話が持ち上がった。
「この陽気でしょう。葬儀までに傷んでしまっては、公爵家の恥ですわ」
叔母の声だった。
「腑分けの医師を呼んで、防腐の処置をさせては。王都では近ごろ、よくやることだそうですし」
オディールは、柩の中で総毛立った。立てる毛があれば、の話だが。
腑分け。腹を開き、中身を抜き、香油を詰める。そんなことをされれば、雫が切れるのを待つまでもない。今度こそ本物の死体になる。
叫べない。指一本動かせない。耳だけが、自分の命の値段を聞いている。
「なりません」
思いがけない声が割って入った。
「お嬢様は、ご自分の体に他人が触れるのを、何よりお嫌いでした。髪を梳くのも、わたくし以外には許されませんでした。……どうか、このままで」
ポーリーヌだった。主家の決めごとに侍女が口を挟むなど、ふつうなら叱責ものだ。叔母が何か言いかけたが、父の短い声がそれを止めた。
「……好きにさせてやれ。どうせ、言い出したら聞かん娘だった」
話は、それで終わった。
オディールは柩の中で、ゆっくりと息のない息を吐いた。髪を梳かせなかったのは、他の侍女の手つきが雑だったからにすぎない。それがいま、命を拾った。
2日目の昼には、婚約者のジュール王太子が来た。
「顔だけは、きれいなまま死んだな」
感想はそれで尽きたらしい。王太子の足音はすぐに遠ざかり、礼拝堂の隅で誰かと話し始めた。相手の声は、セレストのものだ。
夕刻には、アデル・ド・クレマンが来た。
夜会でランプが倒れ、両手に火傷を負った伯爵令嬢。社交界の誰もが、オディールの仕業だと囁いていた娘だ。オディールは否定しなかった。面倒だったからだ。
アデルは長いこと柩のそばに立ち、包帯の手で縁を撫でた。
「……あなたじゃないって、知ってたわ」
小さな声だった。
「あなた、他人を焼くほど、他人に興味がないもの」
それから、もう少し小さな声で付け加えた。
「でも、ざまあみろとも思ってる。ごめんなさいね」
オディールは、柩の中で少しだけ愉快になった。この娘のことは、前よりほんの少し好きになれそうだ。死んでからでは、もう遅いけれど。
夜になって、ポーリーヌが花を替えに来た。
オディールがいちばんこき使い、いちばん怒鳴りつけた侍女だ。茶の温度で叱り、髪の結い方で叱り、返事の早さで叱った。
ポーリーヌは百合を挿し替えながら、ぽつりと言った。
「お嬢様。……鍵が、枕の下から落ちておりました」
オディールの意識が、ぴんと張った。
「お苦しかったのですね。もがかれたのでしょう。わたくし、朝まで気づきませんで」
声が震えている。
「ひどい方でした。本当に、ひどい方でした。でも、わたくしの粗相を、他人のせいになさったことは一度もございませんでした」
ポーリーヌはそれ以上何も言わず、礼をして出ていった。
オディールは闇の中で、床に落ちた鍵の音を思い出していた。
あの侍女は、それを見ている。
◇
2日目の深夜、礼拝堂の扉が細く開いた。
踵を引きずる足音。
「司祭様、どうか、少しだけ二人きりに。……最後のお別れを申し上げたいのです」
セレストの声は、上手に湿っていた。司祭は気の毒そうに何か言い、出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、何の音もしなかった。それから衣擦れが近づき、柩の縁に手が置かれる。
「……変ね」
涙はもう、どこにもない声だった。
「ちっとも臭わない。まるで眠ってるみたいって、皆さま仰ってたわ。司祭様なんて、聖女のご遺体のようだって」
オディールは、自分の体が凍りつくのを感じた。もとから凍りついてはいるのだけれど。
かちり、と小さな音がした。髪から何かを抜く音だ。
左手が持ち上げられた。婚約の指輪がはまった薬指の、指輪のすぐ下に、冷たく尖ったものが当てられる。
――やめなさい。
声は出ない。指も動かない。
針が、皮膚を破った。
痛みは、はっきりとあった。雫は体を止めるが、痛みまでは止めてくれないらしい。焼けるような一点が薬指に生まれ、ゆっくりと深くなっていく。
叫べたら、どれほど楽だろう。
オディールは、ナタリーの言葉を思い出していた。耳だけは起きている。退屈だろうがね。
あの婆、退屈ですむと思っていたのかしら。
針が抜かれた。
沈黙が落ちる。セレストが何かを見つめている気配がした。指先に、ぬるいものが滲み出してくる。
血だ。
死人は、血を流さない。少なくとも、こんなふうには。
「……死んですぐは、まだ血が出るって聞いたことがあるわ」
自分に言い聞かせるような声だった。
布で拭われる感触。セレストは長いこと黙っていたが、やがて、ふうと息を吐いた。
「いいわ。どうせ明日には埋めるんだもの」
声に、甘さが戻った。
「ねえ、オディール様。明日、わたくし、皆さまの前でお話しするの。あなたが最期の夜、わたくしにだけ打ち明けたこと」
柩の縁に、肘をつく気配がする。
「悪かった、って。アデル様のランプは自分がやった、ずっと苦しかった、って。殿下をお願いね、って。それから、この首飾りを、あなたの首から外してわたくしにくださったの。友情の証に」
くすくすと、楽しそうに笑う。
「きれいでしょう、改心したあなた。生きてたころより、ずっと皆さまに好かれるわよ」
セレストは柩の縁を指でなぞり、出ていった。
オディールは、薬指の痛みを抱えたまま、闇の中に横たわっていた。
盗みは、いい。
濡れ衣も、まあいい。どうせ死人だ。もともと着せられていた罪がひとつ、正式なものになるだけのこと。
けれど。
――改心?
わたくしが?
◇
3日目の午後、葬儀が始まった。
司教の祈りは長く、参列者の衣擦れは途切れない。王太子が来て、父が来て、社交界の主だった顔ぶれが揃っている。柩の蓋は、古い習わしどおり、最後の別れまで開いたままだ。
司教が言った。
「故人と最も親しかった方から、言葉を」
踵を引きずる足音が、祭壇の前へ出た。
セレストは、それは見事に語った。
オディール様は、本当は寂しい方でした。誰にも本心を見せられず、強がることしか、おできにならなくて。あの最期の夜、わたくしの手を取って、初めて泣いてくださったのです。
声が詰まる。間が空く。礼拝堂のあちこちで、洟をすする音が上がった。
「アデル様のことも、ずっと悔やんでおられました。あのランプは自分が倒したのだと。どうか許してほしいと」
ざわめきが走った。アデルが息を呑む気配が、柩の中にまで届く。
「そして、殿下のことを。……わたくしなどに、殿下をお願いと」
ジュール王太子が、ゆっくりと立ち上がる音がした。
「この首飾りは、そのとき、オディール様がご自分の首から外して、わたくしにくださったものです。友情の証だと」
すすり泣きが、波のように広がった。
王太子の足音が祭壇へ向かう。
「セレスト嬢」
低く、優しい声。
「オディールの最後の願いだ。私が、きみを守ろう」
衣擦れ。手を取る音。どこからか、ためらいがちな拍手が起こりかけて、場をわきまえて消えた。
父の声も聞こえた。
「……あれが、最後に人らしい心を持ってくれたのなら」
救われたような声音だった。
司教が厳かに結ぶ。
「罪を悔いた魂に、主の安らぎがあらんことを」
オディールは、柩の中で、生まれて初めて本気で腹を立てていた。
物心ついたころから、彼女は好きで悪女をやってきたのだ。誰に頼まれたわけでもない。父の望む娘にも、王家の望む花嫁にもなれなかった代わりに、せめてそれだけは自分で選んだ。
嫌味は自分の舌で言った。侍女を叱るのも、令嬢を泣かせるのも、すべて自分の手でやった。その代わり、自分の罪を他人に押しつける気も、やってもいない罪を詫びる気もない。それが、彼女なりの、悪女としての品というものだった。
その悪名を、あの娘は、安物の涙ひとつで書き換えた。
改心した、気の毒な、本当は寂しかった娘。
冗談ではない。
◇
薬指が、疼いた。
針の痛みとは違う。もっと奥のほうで、何かが目を覚まそうとしている。
オディールは気づいた。指先に、血が通い始めている。
窓から差し込む光が、まぶた越しに赤い。日が傾いているのだ。セレストの演説が長すぎて、葬儀がずれ込んだらしい。
雫が、切れかけている。
足の指が、わずかに動いた。喉の奥で、止まっていた息が、細く戻ってくるのが分かる。
考える時間は、たぶん四半刻もない。
このまま動かずにいれば、柩の蓋は閉じられる。霊廟へ運ばれ、石の扉が閉まる。夜半にナタリーが来る。名前のない女として、どこか遠くの町で、誰の持ち物でもない人生を始められる。
この3日間、ずっと望んでいたものが、もう手の届くところにある。
ただし、そのときオディール・ド・ベルクールの名は、改心した娘として墓に刻まれる。
セレストは王太子の隣に座り、アデルは焼かれた手のまま加害者に頭を下げられ、ポーリーヌは主人の首飾りがあの娘の首で揺れるのを毎日見ることになる。
それは、まあ、どうでもいい。
どうでもよくないのは、ただひとつ。
名前を置いていくなら、その名前は、正しく置いていきたかった。
オディールは、ナタリーに心の中で詫びた。
――ごめんなさいね、お婆さん。せっかくの薬代、無駄にしてしまうわ。
◇
最初に動いたのは、左手だった。
柩の縁に、白い指がかかる。
最前列で誰かが息を止めた。司教の祈りが途中で切れる。
オディールは、ゆっくりと上体を起こした。胸の上に置かれていた百合が、ばらばらと膝へ落ちる。3日ぶりに開いた目には、蝋燭の光さえまぶしかった。
礼拝堂は、しんと静まり返っている。
悲鳴は、ひと呼吸遅れてやってきた。
「……ずいぶん、長いお話でしたこと」
声がかすれた。3日も黙っていれば、喉も錆びる。
「――奇跡だ」
司教が震える声で言った。
「奇跡ではございませんわ。薬ですの」
どよめきが起きた。公爵令嬢が死んだふりをしていた。それだけで、明日から王都中の笑いものになる。父の顔から血の気が引いていくのが見えた。
構わない。
オディールは祭壇の前に目を向けた。
セレストが、王太子の手を握ったまま立ち尽くしている。首元で、青い石が光っていた。
「セレスト」
オディールは微笑んだ。
「わたくし、いつ改心いたしましたの?」
セレストの顔が、白から青へ、それから必死の色へと変わっていく。さすがに立ち直りが早い。
「オディール様……! よかった、本当によかった……! お体が弱っていらしたから、覚えていらっしゃらないのですね。あの夜、わたくしの手を取って――」
「あの夜、わたくしは日付が変わる前に薬を飲みましたの」
オディールは遮った。
「あなたが部屋に来たときには、もう息をしておりませんでしたわ。ですから、何も申し上げられませんでしたの。……代わりに、全部聞いておりましたけれど」
セレストの唇が、半開きのまま止まった。
「あなたはわたくしの頬に触れて、首筋に触れて、手首に触れて。それから笑って、『うそ、死んでる』と仰いましたわね」
礼拝堂の空気が、軋んだ。
「次に、わたくしの頭を持ち上げて、枕の下の鍵をお取りになった。宝石箱の、いちばん下の抽斗。母の首飾りはそこにしまってございましたの。わたくし、寝るときに首飾りはいたしませんもの。……ポーリーヌ?」
参列者の後ろのほうで、侍女がびくりと肩を震わせた。
「は、はい。お嬢様は、お休みの前に必ず、首飾りを抽斗へ……」
ポーリーヌの声が、途中で止まった。何かに思い当たった顔だった。
「……あの朝、鍵が、床に落ちておりました。枕の下にあるはずの鍵が。わたくし、お嬢様がお苦しみになったのだとばかり」
「戻そうとして、落としたのよ。この方が」
オディールはセレストを見たまま言った。
「拾いもせずに、お帰りになったわ」
「でたらめよ!」
セレストが叫んだ。一歩前へ出る。握っていたはずの王太子の手は、いつのまにか、ほどけていた。
「死人が起き上がるなんて、悪魔憑きだわ! 皆さま、騙されてはいけません。悪魔の言うことなど――」
「あら」
オディールは小首を傾げた。
「死人の言うことは、信じてはいけませんの?」
セレストが詰まる。
「でしたら、さっきまで皆さまに、死人の言葉をたっぷりお聞かせになっていたのは、どなたでしたかしら」
誰かが、こらえきれずに息を漏らした。笑いとも嗚咽ともつかない音だった。
「死人の最期の言葉が、お好きなのでしょう? よろしくてよ。本人が参りましたわ」
セレストの顔から、最後の色が抜けた。
オディールは柩の縁に左手を置き、皆に見えるように指を広げた。婚約の指輪のすぐ下に、黒ずんだ小さなかさぶたがある。
「それから、ゆうべのこれ」
最前列の何人かが、身を乗り出した。
「痛かったですわ。死人の身では、悲鳴ひとつ上げられませんでしたけれど」
参列者の端に控えていた司祭が、はっとしたように顔を上げた。
「昨夜……柩のそばに、お一人で残りたいと仰ったのは……」
礼拝堂じゅうの目が、ひとところへ集まった。
「た、確かめただけよ!」
セレストの声が裏返った。
「本当に死んでるかどうか、確かめただけ! だって、ちっとも臭わないんだもの、おかしいと思うでしょう、普通――」
言ってしまってから、彼女は自分の口を押さえた。
遅かった。
親しい友の亡骸を、針で刺して確かめる。それがどういう人間のすることか、この場の誰にも、もう分かる。
ジュール王太子が、そろりと一歩、セレストから離れた。
オディールは、それを見逃さなかった。
「殿下。その手、もうお離しになっていらしたのね。賢明ですこと」
王太子は答えなかった。
「ついでに、申し上げておきますわ」
オディールは礼拝堂の中ほどへ目をやった。包帯の手を胸の前で握りしめた娘が、こちらを見ている。
「アデル様。あのランプのこと、この方はあの夜、わたくしの耳元でご自分がやったと仰いましたわ。みんなわたくしのせいだと思っている、よかったわね、と」
アデルの目が、セレストへ移った。
ゆっくりと、静かに。
「わたくしは、あなたに謝りませんわよ」
オディールは続けた。
「やっておりませんもの。それに、わたくしなら、もう少し上手にいたしますわ」
アデルが、ふっと笑った。泣き笑いのような顔だった。
「……知ってたわ」
衛兵が呼ばれた。
セレストは何か叫んでいるが、もう誰も聞いていない。引き立てられていく途中、ポーリーヌが進み出て、黙ってその首から青い石の首飾りを外した。セレストは抗おうとしたが、侍女の手は少しも震えていなかった。
扉が閉まる。
司教が、おそるおそる口を開いた。
「ベルクール嬢。……では、その、悔い改めのお言葉は」
「いたしておりませんわ」
オディールは即答した。
「これっぽっちも」
礼拝堂が、もう一度ざわめいた。
柩の中から、オディールは父を見た。公爵は、娘が死んだと聞かされたときよりも、よほど青い顔をしている。
「お父様」
彼女は、この日いちばん美しく微笑んだ。
「手に余る娘が、戻りましたわ」
◇
その夜、オディールは自分の寝台にいた。
天蓋の刺繍は3日前と同じだった。重たい髪も、明日の朝にはまた結い上げられるのだろう。
いまごろ、霊廟の前ではナタリーが合鍵を握って首を傾げているはずだ。扉を開けても、中に探す相手はいない。名前のない女は、とうとう生まれなかった。
扉が叩かれ、ポーリーヌが茶を運んできた。盆の上に、青い石の首飾りが添えてある。
「お嬢様」
「なに」
「……なぜ、お戻りになったのですか」
ポーリーヌは、首飾りを見つめたまま言った。
「あのまま眠っていらっしゃれば、どこへでも行けましたのに」
オディールは茶を一口含む。ぬるい。叱る気には、なれなかった。
「わたくしの悪名はね、ポーリーヌ。わたくしが自分でこしらえたものなの」
「はい」
「それを、あんな安物の涙で塗り替えられるのは、我慢ならなかっただけよ」
ポーリーヌは、しばらく黙っていた。
「お嬢様は」
「なに」
「死んでも、謝らない方なのですね」
「ええ」
オディールは笑った。
「生き返っても、謝りませんわ」
翌日の昼、王家からの使いが来た。ジュール王太子は、柩から起き上がった娘を妃に迎えることはできないと仰せである、と。
父は寝込んだ。叔母は泣いた。王都の笑いものになるのは、どうやら避けられそうにない。
オディールは、窓辺でその報せを聞く。
檻の扉が、ひとつ、勝手に開いた。死んでも手に入らなかったものが、起き上がったら転がり込んできた。皮肉な話だ。
「ポーリーヌ」
「はい」
「下町のナタリーに、薬代を届けておいて。満額で」
「……お伝えすることは、ございますか」
オディールは少し考えた。
「よく効いた、と伝えて」
薬指のかさぶたを、親指でなぞる。
「効きすぎて、余計なものまで聞こえたけれど」




