1.09
勢いよく俺は、潜んでいた暗がりから飛び出た。
それに続いて、鬼も飛び出てきた。
……………。
……あと、一瞬。
――いや、刹那。雛村の声が遅ければ。
俺の後頭部は、砂浜のスイカの気持ちを理解していただろう。
それはもう、痛い、ほどに。
飛び出して、振り返り、立ち止まる。
鬼もそれに応じて、向かい合うかたちで、立ち止まる。
その右手には未だ、金属バット。
足元の明かりに照らされて。
二人、立ち止まる。
間合いは十分。
射程は、バットの分、鬼の方が長い。
自然と、足が一歩、後ろに下がる。
――前にも言ったが、俺はビビりだ。
すると、鬼は一歩、踏み出す。
だけどそれ以上は、動かない。
俺も、動かない。
「……………」
時間が止まる。
多分、ほんの少しの間。
だけど、とても長い間。
……………。
……失敗した。
今日はとことん、失敗する日だ。
位置関係が、すこぶる悪い。
俺、鬼、雛村。
最悪の一直線だ。
雛村の姿は闇の中だが、確実に鬼の後ろに、いる。
この状況で雛村に標的を変えられたら、間違いなく、俺は間に合わない。
あの夏と同じく、俺は間に合わない。
……………。
……俺は、また、あれを繰り返すのか?
……………。
せめて。
せめて、俺が狙いなら。
俺だけが狙いなら。
俺だけが狙われて……いないか?
この状況は?
鬼の狙いは、確実に俺だ。
雛村は標的になっていない。
どうしてだ?
この暗闇で、雛村が見えていないのか?
……いや、そんなわけはない。
さっきは二人とも追われたし、何より、直前に叫んだのは雛村だ。
だけど、狙いは俺だ。
……………。
それなら。
それなら、方法はある。
この『鬼ごっこ』に勝ち目は、ある。
「雛村!」
鬼の向こう側にいるだろう名前を呼ぶ。
今回も、返事は待たない。
「ちょっと、そこで隠れてろ」
そして、間髪入れずに、
「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」
ぱぁん、と俺は猫騙しのように手を打つ。
もちろん、猫騙しの通じるような距離ではないし。目眩ましの効果を期待もしていない。
むしろ、逆。
こちらへの注目と、挑発。
そして俺は、またも走る。
鬼と雛村がいる方向ではない。
そちらには背を向けて、走り出した。
続いて、鬼も走り出す。
鬼も、雛村がいる方向ではない。
俺の背を追うように。迫るように。
……………。
……よし。
やっぱり狙いは、俺だ。
それなら問題ない。作戦は成功だ。
とりあえずは、鬼を雛村から離す。
雛村に無駄な危害が加わらないように。
あの夏から、俺だって成長している。
これは敵前逃亡、ではない。
戦略的撤退。
戦略的、誘導。
だから、走る。
だけど、全速や、全力では走らない。
今回は、鬼を撒いてはいけない。その視界から消えてはならない。
標的を変えられては、意味がない。
だから、走る。鬼との距離を保ちながら。
そして、思う。
――この鬼の足は、速くない。
体力があるようにも、見えない。
どおりで、雛村を背負った状態でも撒けたわけだ。
ならば。
ならば、この『鬼ごっこ』に俺は勝てる。
俺は――勝つ。
そう、誓いを立て。
急減速をして、立ち止まる。
立ち止まり、振り返る。
振り返り、鬼を見る。
鬼も立ち止まっている。保っていた距離はそのままだ。
相変わらず、その表情はお面の下。
だけど、呼吸が多少荒い。
――やっぱりこの鬼、体力はない。
だけど、持久戦にする気は、ない。
雛村が、待っている。
俺は足を前後に、膝を曲げ、少し腰を落とす。上体もやや前のめり。
明らかな、特攻体勢を構える。
鬼もそれに応じて、両手で金属バットを構える。
それは、向かってくる球を打ち抜く構え、ではない。
それは、向かってくる人間を打ち下ろす構え、だ。
――やっぱり、俺の目に狂いはない。
俺はそれで、勝利を確信する。
目の前の光景を見て、確信する。
鬼の構えは隙だらけ。いっそ、無防備と言ってもいい。
……………。
……俺は一体、何をビビってたんだ?
まったくもって、自分自身に腹が立つ。
こいつは鬼のお面を着けた、金属バットを持った、ド素人だ。
――ただの、普通の人間、じゃないか。
戻ったら、ビビりの汚名は雛村に返上しよう。
そして、鬼に金棒より俺の方が強い、と自慢してやろう。
「なあ、あんた」
俺の声に恐怖や、迷いは、ない。
「喧嘩で負けない方法、って知ってるか?」
鬼は答えない。
というか、こいつの声を聞いたことがない。
実にどうでもいいことだが。
別に俺も、答えが返ってくるとは思ってもいないし。答えを待ってもいないし。
「それはな――」
位置について。
「絶対に――」
よーい。
「負けない、ってこと!!」
どん。
そして、俺はまたも、またも走る。
今度は、鬼に向かって。
なんだか今日は走りっぱなしだ。
青春ドラマの主人公みたいだ。
……………。
……似合わねぇー。
甘酸っぱい話とか、俺、似合わねぇ。
結局、俺らしいのはこういうバトルアクション系だ。
苦くて辛い話が、お似合いだ。
ほら。
ほら、あと三歩で、苦くて辛い展開だ。
そう。
そう、あと二歩で、金属バットの射程範囲内だ。
さあ。
さあ、この一歩が、まさしく俺の勝利への第一歩だ。
床への踏み込みの方法を変える。
それは走るための方法、ではない。
それは迫るための方法、だ。
全速で、全力な、足運び。
もとより俺は、マラソンランナーではないし、スプリンターでもない。
俺は、ファイターだ。
一歩で、一撃で、戦況を変える、格闘家だ。
鬼が金属バットを振り下ろす。
――しかし、俺はそこにはいない。
俺の速度変化による幻影に攻撃したわけではない。
そんなのは、達人同士でできることだ。
俺も多少のフェイントくらいならできるが、そんなことはしない。
理由は単純。
相手がド素人だから。
ド素人相手には案外、フェイントは効かない。
だから。
行動も単純。
相手の射程に入った途端、さらに加速して、横に避ける。
相手の左側に回り込んで、それと同時に身体を反転させ、背後を取る。
最短で、最速の、足運びで。
見事な空振りを見せた鬼も、ようやく俺を追って反転する――いや、反転しようとする。
もう、遅い。
俺はもう、構え、終えている。
完全なる、俺の射程範囲内で。
この距離は金属バットの射程ではない。
その武器は、長すぎる。接近戦に向いていない。俺の射程範囲内では無意味だ。
そして、俺はわざわざお前の左側に回り込んだ。
ずっとお前は右手に武器を持っていた。お前は明らかに右利きだ。
現に今、武器を右手で握っている。緊急時ほど、習慣や習性は色濃く出る。
だから。
もう、遅い。
格闘家としての、基礎経験値が違う。
――ジョブチェンジしといて、正解だったな。
「破っ!!」
中段、骨という鎧のない脇腹への正拳突き。
会心の一撃。クリティカルヒット。
「ぅ……」
鬼が小さく呻く。
初めて、声を聞いた。
だけど、そんなことで感動している場合ではない。
鬼がよろめいて、その唯一の武器を手からこぼしたときには、俺は撃ち込んだ拳を引き戻していた。
またも、正拳突きの構え。
ただし、上段。狙いは顎。
「破ぁっ!!」
一撃必殺。オーバーキル。
金属特有の高い音を立てて、持ち主を失った武器が床に落ちる。
続いて、人体特有の重みのある音を立てて、その持ち主が仰向けに床に倒れる。
……………、……………。
……………。
……起き上がる気配は、ない。
一撃必殺、と謳ったが、死んでもいないだろう。
我ながら見事な、顎への一撃。
それは脳を揺らし、気絶させる。脳震盪というやつだ。
……………。
……一撃必殺が効かない敵キャラ、なんて展開はないよな?
彼は、ぴくりとも動かない。
俺は、その場に立ち尽くす。
ようやく、鳴り響いていた金属バットの音も消えた。
……………。
――静寂。
目の前には、赤い鬼のお面を着けた男。
……………。
……………。
……そりゃ、お面を取って、見たくなるのが人情ってもんだろう。
そろりそろり、と近づいてみる。
そろりそろり、としゃがんで。
そろりそろり、と赤いお面に指を掛ける。
――もしかしたら、ビビりの汚名は返上できないかもしれないな。
そう、思った。
そう、思ったときだった。
唐突に、衝撃的に、いっそ破壊的に、俺は思い出した。
今の俺は、三百点突破の、馬鹿だったことを。
前世の俺は、砂浜のスイカだったことを。
視界が、歪む。
歪んで、回って、霞んで、暗くなって。
そして、閉じた。
「何だよ。色違いもいるんじゃねぇかよ」
閉じる直前。
後ろを振り返り、そう突っ込んだ。
俺は突っ込みキャラ、失格だ。
あまりにも弱々しい突っ込みだ。
そして見たままの突っ込みだ。
青い鬼のお面と、金属バット。
その映像だけは、分かった。
後頭部の痛みは、あまり分からなかった。
そして、俺の意識は、閉じた。
この上ないバッドエンド、だ。
戦闘終了。ゲームオーバー。