1.08
ようやく。
ようやく、呼吸が落ち着いてきた。
体全体でしていた呼吸が、なんとか肺だけでできていた。
上で雛村を捜していたときよりは、長く走り続けられたけど、それでもやっぱりまだまだだ。
……これは、夏休み中に鍛え直さないとな。
そんなことを考えられるくらいには、頭も冷静になっている。
――人喰い鬼。
あれが、そうなのか?
噂の、鬼、なのか?
ずいぶんと都合よく出てくるものだ。
噂をすれば、ってやつか?
それにしたって、都合よすぎるだろ?
これが小説なら、あまりにもありふれた展開だ。
俺ならそんな小説、絶対に読まない。
たとえ、その作者に土下座されても、絶対に読まない。
こんな展開を書いた作者を、俺は絶対に許さない。
「ごめんね。葛平くん」
作者でもない雛村が、小さな声で、謝った。
「私のせいで、こんなことに巻き込んで」
もちろん、こんな展開を書いたことではなく、こんな展開になったことに。
「別に、雛村のせいじゃない。俺が勝手に首を突っ込んでいるだけだ」
――もしくは、作者のせいだ。
「だから、気にするな」
俺も、小さな声で、答える。
自分の最小ボリュームで、話す。
当たり前だ。
ここはまだ地下二階。人喰い鬼の巣の中だ。
雛村を背負ったまま俺は、このフロアを駆け巡った。
駆けて、角を曲がり、駆けて、曲がり。
駆けて、曲がり、曲がり、曲がり。
そして、暗がりに入り込んだ。
……ともすれば、暗がりにクラスの女子を連れ込んだ野郎、だが。
そんなことを、雛村は騒がないし。
そんなことを、俺も目的としていない。
そんな場違いで、不謹慎な俺たちではない。
目的は、鬼を撒くこと。その視界から消えること。
その目的は一時的だが、成功している。
少し前に、鬼は横の道を通り、過ぎた。こちらに気付いた様子はなかった。
だから俺たちは、小声だが、会話している。
だけど。
冷静になってきて、初めて気付く。
……出口、どっちだ?
一心不乱の無我夢中で逃げていたから、完全完璧に、来た道が分からない。
ただでさえ暗い上に、通路も似たり寄ったり。
まずい。
これは、まずい。
鬼に見つからないように、出口を探さないとならない。
……いよいよ本当に、ゲームみたいだな。
「ごめんね。葛平くん」
「……さっきも聞いた。雛村のせいじゃない、謝るな」
「ごめん。嘘……なの」
それも、彼氏の話のときに聞いた。
コピペで文字数を稼ぐのは、感心しないぞ。雛村。
……あれ? コピペ、じゃない?
「嘘なの。本当は、沙雪……」
そこで、雛村は言葉に詰まる。
そして、カサカサ、と紙の音。
どこかから、何かを取り出しているみたいだ。
暗闇の中だから見えないが、そんな気配がする。
「これ、見て」
俺の前に、それが、差し出される。
ノートくらいの一枚の白い紙。
その真ん中の辺りに、黒い文字が書いてある。
それが、見える。
雛村が、自分の携帯電話の画面の明かりを利用して、見せてくれている。
もちろん、外に光が漏れないように、最大限の注意を払って。
そんなことは分かるのに、目の前の文字列の意味が理解できない。
もしかして、俺は百点満点の馬鹿なんだろうか?
文字が、頭に入ってこない。
お母さん ごめんなさい
私はもう生きていけません
七月四日 佐々良 沙雪
震える、細い文字。
だけど、確かに、そう書いてある。
これは、間違いなく。
これは、間違いなく、遺書だ。
それも、自殺、の。
……佐々良沙雪は。
……自殺している。
……………。
マジかよ?
リアルかよ?
小説の話じゃないのかよ?
「だから」
その声は、泣きそうだ。
「だから、ごめんなさい。葛平くん」
――謝るな。
なんて。
俺には、到底言えない。
その言葉は。
俺に向けられたもの、ではない気がする。
「でも」
その声は、泣いているようにも聞こえる。
「でも、私は沙雪をこの辺りで見たの」
――それも、今朝、見たの。
「……………」
俺は、言葉を返せない。
今朝、だなんて。
そんなわけ、ないじゃないか。
今日は、七月五日だ。
よく覚えている。
だから。
そんなわけ、ないじゃないか。
だから。
「だから、私の方こそ、自己満足」
その声は、笑っているようにも聞こえる。
「……………」
……俺は、二百点満点の、馬鹿だ。
少し考えれば、分かるじゃないか?
『普通の男の子はクラスメイトだからって、こんな得体の知れない所に付いては来ないよ』
それは、雛村も同じじゃないか。
普通の女の子はクラスメイトだからって、こんな得体の知れない所を一緒に歩いたりはしない。
心細くて、どうしようもなく心細くて。
突然降ってきた、クラスの無愛想キャラに頼るしかなくて。
話し上手でも、聞き上手でもない相手に話し掛け続けて。
それは、大切な友達に話そうとしていた他愛もない話で。
努めて明るく振る舞って、気を強く持って。
たとえ、幽霊になっていたとして。
たとえ、ゾンビになっていたとして。
それでもなお、大切な友達を捜しに来た。
そんな『普通』ではない彼女に。
『異常』ともいえる雛村美月に。
――何故、俺は気付けなかった?
俺が鍛え直すべきは、身体なんかでは、ない。
「葛平くん」
その声は、驚いているようにも聞こえる。
「――うしろ!!」
この瞬間の俺は、三百点突破の、馬鹿だ。
そして金棒は、振り下ろされた。