1.04
雛村美月を一言で言うなれば、人気者だ。二言で言うなれば、クラスの人気者だ。特別勉強ができるわけではなく、特別運動ができるわけでもない。明るくて、明るくて、明るい女の子だ。クラスの女子の最大グループの中心的な存在(何故女子はグループを形成するのか甚だ疑問だが)で、別にだからといって、他の女子グループと対立しているわけでもない――みたいだ。まあ、女子は裏の顔があるので『みたい』としか言えないけど。しかし、彼女のおかげで我がクラスが仲良しクラスとなっているのは、間違いないだろう。明日木以外に友人のいないこの俺ですら、クラスのイベントに巻き込まれるのだから、その手腕たるや見事なものだ。時々、委員長だったかと思い違うほどのリーダーシップだが、それは決してありえない。行動は起こすが、責任は取らない。それが雛村美月という人間だ。クラスの輪から三歩離れた俺でも、そう言い切れる。だけど、それでもなお彼女の周りに人が集まるのは、その天賦の明るさのおかげなんだろう、と思う。
そんな雛村を、レンタルビデオ店の近くで見かけた。
もちろん学校は既に終わっている(今日はテストだったので早く終わった)し、この場所が学校から特別離れているわけでもないから、見かけても別段不思議ではない。
だけど俺は不思議に――いや、不自然に思った。
雛村の現在地でなく、目的地に。
――旧開発地区。
それが今のそこの名称だ。
この国の景気が馬鹿みたいに良かったときの残骸。
馬鹿騒ぎの、後の祭りの、祭りの跡。
……まあ、俺の生まれる前の話だから、よく知らないけど。
だけど、とりあえず知っていることが三つある。
一つ目は、旧開発地区に人は住んでいないということ。
二つ目は、その向こうには山があるだけだということ。
そして三つ目は、ろくでもない奴らの溜まり場になっているという噂。
つまりは、おおよその人間が、それこそ、普通の高校、の学生が行くような場所ではないということだ。
しかし、明らかに雛村はそこに向かっていた。そして既に俺は、彼女の姿を見失っている。路地を曲がり、旧開発地区の建造物群の影に入っていったようだ。
……………。
……………。
……とても、嫌な予感がする。
既視感にも似た感覚が。
そうだ。
こんな光景を――俺は、見たことがある。
その結末を――俺は、知っている。
知るべきではない、知らなければ良かっただけの話を――俺は、知っている。
気付いたときには俺は、踏み出していた。
歩き出していた。
走り出していた。
駆け出していた。
携帯電話片手に車道に、飛び出していた。
その瞬間、俺は車にはねられ、そして記憶を失った――なんて韓流ドラマよろしくの展開はここでは起こらない。前に説明した通り、ここはそこそこの田舎だ。こんな町の外れを走る車など、そうそうない。
俺は勢いのままに雛村と同じ道で、旧開発地区に踏み込んだ。
知ってもいたし、見てもいたが、入ったのは初めてだ。当然、土地勘はない。
とりあえず道なりに、走れるだけ走った。
走って、走って、走って。
走って、歩いて。
……疲れた。
「……くそっ。どこ行ったんだ」
俺は手を膝に置いて、かがみこんだ。
一度呼吸を整える必要がある。最近の運動不足が原因なのは明らかだ。
――旧開発地区。
俺はその認識を一つだけ間違っていたようだ。
人が住んでいない場所なのではない。
人が住めるような場所ではないのだ。
そのコンクリート建造物群には、窓と呼べる穴はあっても窓枠すらなく、壁と呼ぶべきそれらが崩れ落ちているものもある。
ここにあるのは瓦礫と鉄骨と、ゴミだけだった。
煙草の吸殻、空き缶、コンビニのパンの包装。ろくでもない奴らの溜まり場、というのは本当みたいだ。
とりあえず呼吸を整え、さらに状況も整えたところで俺は再び走り出した――いや、走り出そうとした。
次の瞬間、廃墟と呼ぶにふさわしい建物の影から出てきた人間に、俺はぶつかった。
不幸中の幸い、加速する前だったので、三歩よろめいて後退するだけで済んだ。
「いやぁ、ゴメンゴメン。余所見していてね。大丈夫かい?」
相手は雛村――ではなかった。
甚平にサンダルの、決してお世辞にも青年とは言えないような、男性だった。
「案外、失礼だね、君。僕の心はまだまだ若いよ」
……そういう発言自体が、もう若くないと思う。
「と、言う僕も失礼だったね。自己紹介がまだだった……」
はい、と言って彼は白い紙切れを片手で差し出した。受け取って初めて、それが名刺だと俺は分かった。
……名刺って両手で渡すものじゃなかったか?
『女郎花古書店 店主 女郎花涼庵』。
と、そこには書いてあった。
……じょろうばな?
「あぁ、ゴメンゴメン。読みにくいよね、僕の名前。それで『おみなえし』『りょうあん』って読むんだ」
俺の表情を察してか、それともいつも誰に対してもそうしているのか、彼は説明した。
「……俺は、葛平です。植物の葛に、平たいに、七つ生きる、で葛平七生です」
あいにく、学生である俺は名刺を持っていない。だけど、名乗られて名乗り返さないほど、礼儀作法を知らない人間でもない。やっぱり名刺は両手で渡すものだ、と思い出せるくらいの高校生だ。
「そうか。葛平七生くんか。君は『葛』か。奇遇だね。いや、偶然かな。それとも、必然かな」
うんうん、と頷きながら、とても普通のトーンで女郎花さんは独り言を言った。
……うわ。変な人にぶつかったかも。
そう後悔して、なるべく関わらないようにと思い、とりあえず必要なことだけ訊いた。
「あの。女郎花さん。この辺りで女の子、見ませんでしたか? 俺と同じ独楽原高校の――」
「大丈夫、大丈夫。その子なら見たよ。なんたって僕の余所見の原因はその子なんだからね」
質問を、彼は最後まで聞かなかった。両手を開いて、まるで愚問のように、俺の言葉を止めた。そして、
「だって、パンツ見えそうになりながら走っていったから」
と、蛇足で愚かな言葉を続けた。
……うわ、最低な人にぶつかったかも。
「そこの。そこの建物の中に入っていったよ」
彼が指差したのは、彼が来た道の二つ前の建物もどき。俺にとっては二つ先の建物もどきだった。
「ありがとうございます。女郎花さん」
一礼して、駆け出そうとした俺を、
「あぁ。そうだ」
と、彼は止めた。
「足元に気を付けてね」
確かに、そこかしこに瓦礫やら鉄骨やらの危険物が転がっている。
「はい。ありがとうございます!」
……前言撤回、結構いい人かも。
そして、それから一歩二歩進んだ俺を、
「あぁ。それと」
と、止めた。
なかなか加速を許してくれない人だ。
「雛村くんにも、よろしくね」
「はい!」
そして、ようやく俺は加速を許された。
そして、ようやく俺が目的の建物もどきの前に着いたときには、彼の姿はなかった。
手に持った名刺をもう一度見る。店の住所は、この町の商店街の中みたいだ。
今度、改めてお礼に行こう。
そう心に決め、名刺をズボンのポケットに入れて、窓枠も扉も存在しない建物もどきの中に踏み入れたときだった。
まさしく、そのときだった。
盛大に、豪快に、いっそ悲惨に、俺の足元が崩れ落ちたのは。
――どうやら、アユミン(やっぱり現実みたいだ)の予言はよく当たるみたいだ。