1.15
大広間のソファーで、俺は携帯電話をいじっていた。
アドレス帳に『佐々良沙雪』と表示されている。
ついさっきの話だ。
「アドレス、交換しよ」
倉庫にて、俺との約束を取り付けた佐々良は、自分の携帯電話を取り出した。
「とりあえず赤外線で送信するから、受信して」
「赤外線? あの暖かいやつか?」
「……あの。言いにくいけど、そのボケ、面白くない」
「あ、いや……」
本気、なんだけど……。
「……ケータイ貸して。私がやるから」
言われるがまま、ポケットから携帯電話を取り出し、渡す。
そんなことも知らないのかよ的な、冷たい視線が痛い。
「はい。登録しといたよ」
あっという間に、携帯電話は帰ってきた。
一体、この短い間に何が?
アドレスって長いから、打ち込むのが大変なはずなのに。
「みっちょんのことでも何でも、気軽に連絡してね」
ああ、と返事をしようとして、ふと思う。
……あれ?
「ここ、地下だから圏外じゃないのか?」
地下通路では俺のも雛村のも、何度見ても圏外だった。
「ああ、それなら大丈夫。ヨウコさんが色々と改造して、大広間の周りはケータイ使えるみたい」
「色々と改造、ってすごく違法な感じがするんだけど」
「そんなこと言ったら、私たちの存在自体が違法っぽいよ」
「あ。いや……ごめん」
配慮が足りないな。本当に俺は。
「いや。こっちこそ、ごめんなさい。変な言い方しちゃった」
……………。
……佐々良は。
「佐々良はこれから、どうするんだ?」
「とりあえず、皆さんと一緒にここに住む。ママとは……もう会えないけど」
――会えば危険な目に、遭わせるから。
「でも一方的にだけど、手紙くらいならいいってヨウコさんが。ちょっと無理があるけど、私が駆け落ちしたって設定で。遠く離れているけど、幸せですって。多分それがママにとって一番安全で、安心だって」
――自殺でお別れよりは、全然いい。
と、佐々良は笑った。
「そうか。何か、俺にもできることがあったら、連絡してくれ」
「うん、ありがとう。とりあえずは、倉庫整理、がんばって」
そう言って、佐々良はドアを開けた。
「私も今日から住む部屋を片付けなくちゃ」
バイバイ、と手を降る佐々良。
いつの間にか、人見知りキャラじゃなくなっていた。
それから程なくして、俺は倉庫整理を終えた。
そして、人観にその報告と、誤解解消の確認をしようとして、先ほどのドーム、彼女が『ヨウコちゃんの愛と知識の部屋』と呼ぶ(断固俺は呼ばないが)所に行ってみたが、無人だった。
……あいつ、どこ行ったんだよ?
人観も、影虎さんもいない。
ここの構造も大して知らないので、仕方なく大広間で待つことにした。
どこかの部屋から、雛村と佐々良の楽しげな声がする。
本当に。
本当に、また会えて良かった、と思う。
そんな二人の邪魔をするわけにはいかない。
――と、言うか。
あんな二人を相手にするわけにはいかない。
多分、俺、弄ばれ倒される。
だから今、暇潰しに携帯電話をいじっている。
佐々良の言うとおり、アンテナは三本。電波良好。
新着メール問合せ。
……新着メール2件。
日付はどちらも、昨日の七月五日。時間も夕方の、同じような時間。
一通目は、明日木から。
二通目は……。
……………。
……できることなら、読みたくない。
ということで、先に明日木のメールを読むことにする。
これは現実逃避ではない。危険回避だ。
先に帰ったことを僕は怒らない。大人、になったからね。
それと、店先に放置してあった君の鞄は僕が預かってるよ。
もしも、だけど。
もし君が、あの日のようなことにまた巻き込まれているなら、今度こそ連絡してほしい。
ちなみにさっき妹君から心配の電話があったけど、今日は僕の家に泊まるって言っといたから。
だから、後悔だけはしないように。
って大層なメールをしてみました。
ではまた、月曜日に!
……………。
……明日木は。
変態のくせに、勘がいい。
変態のくせに、お人好しだ。
いつも、自分のことを二の次にする。
自分も大変なのに、他人を優先する。
雛村も。
佐々良も。
自分のことしか考えられない俺が、馬鹿みたいだ。
いや、実際に馬鹿だ。
雛村の気持ちを考えず、手を差し出して。
雛村の気持ちを考えず、手を握って。
雛村の気持ちを。
彼女のトラウマを。
知らなかった、なんて言い訳にはならない。
知っている、から言い訳にはならない。
目を背けるなんて、許されない。
……………。
……目を背けたいメールは、あるけど。
タイトル『親愛なるお兄様へ』というのがあるけど。
しかし、俺は逃げない!
……………。
しかし、俺は逃げたい。
外泊なさるのでしたら、今回も、ご連絡いただきたかったです。
夕食を二人分も作ってしまいました。
それと、有り得ないとは思いますが、明日の約束、お忘れなきよう。
……………。
……実に、怒っていらっしゃる。
超怖い。鬼怖い。
正直、帰りたくない。
でも、帰らないと今度こそ殺される。
「お。もう終わったのか? やはり君は早い男だな」
と、少女の声がした。
「……おう。俺は『作業』が早い男だから……な?」
俺は、相変わらずの軽口を叩く人観を見る。
ゆっくりと階段を下りてくる人観を。
その二本の足で歩く人観を。
「あんた……歩けたのか?」
俺の知っている人観は、車椅子の自称大人の少女だ。
出会ってから一度も、立ち上がることすらなかった。
「当たり前だ。私のこの艶めかしい足は観賞用ではない」
いや、その棒のような足を観賞しようとは思わないけど。
「車椅子は歩くのが面倒なときに乗っているだけだ。人は見かけによらない。そう教えただろう?」
階段を下りきり、こちらへと歩み寄る人観。
そして、
「だから」
俺と十分に距離を離して立ち止まり。
人観が十分な距離を取って立ち止まり。
「だから、君は戻れない」
左手に持った黒い塊を、俺の頭に向けた。
その白く繊細な手に不釣り合いな、黒く重厚な塊を。
……………。
「……あ、あんたの冗談には飽きた」
俺はソファーに座っているので、人観を見上げる形になった。
ただし、先ほどの佐々良との会話のような雰囲気は、一切ない。
「悪いが、これは本物だ。正真正銘、弾の出る凶器だよ」
俺は微動だにできない――いや、してはいけない。
人観の目が、恐ろしく、冷たい。
少女の姿に似つかわしくない目をしている。
「それにこれは私だけでなく、家族全員の意思だ」
その言葉を合図に、一階のドアがいくつか開き、人が出てきた。
そして全員がこちらに歩み寄り、俺を中心に立ち止まった。
男が三人。女が四人。
それぞれが、それぞれの服装。
ただし、共通点がある。
全員が赤か青の鬼のお面を着け、金属バットを持っていること。
「紹介が遅れたな。私の、家族だ」
そう言う人観の隣には、一際大きな赤鬼。
間違いなく、影虎さんだ。
あの親切丁寧な、影虎さんだ。
「君の情報がネット上に少ないから、みんなにわざわざ上に出向いて調べてもらっていたんだよ」
――今、みんな出払っていてなぁ。
人観は確かに、そう言っていた。
「そしてその結果、君が一昨年の夏に事件を起こしていることが分かった。色々と情報操作されていて、随分と時間が掛かったがね」
時間稼ぎに倉庫整理してもらって正解だったよ、と意地悪く笑う人観。
しかし、その目と姿勢に変化はない。
「そしてその結論、私は君に強い不安を抱いた。このまま帰してもいいものか、と」
「……だから、俺を殺すのか?」
本当に緊迫したとき、人間は意外と冷静みたいだ。
凶器を持った人間に囲まれた人間の末路が、よく分かる。
いや、こんなことは今どきの小学生でも分かる答えか。
「第一、私たちの秘密を知っている部外者を、そのまま帰すと思うか?」
君は少し人を疑った方がいい、と笑う。
「……部外者」
俺は人観の言葉を、繰り返す。
その言葉に当てはまる人間は、今ここに、二人いる。
俺と、もう一人。
「それは、雛村も、か?」
――親友を命懸けで捜しにきた彼女も、か?
「安心してくれ。雛村美月は沙雪の親友だ。私の家族の、友人だ」
そうだ。
人観は、家族に、甘い。
「だが、君は違う。ただの、クラスメイトだ」
そうだ。
俺は、佐々良と、今日始めて会話したばかりだ。
「でも、なるべくなら彼女たちには気付かれずに済ませたい。なので、こちらを使わせてもらう」
そう言って、影虎さんが差し出したものを、姿勢を変えずに受け取った。
左手に持つ大きな黒い塊とは違う、小さな黒い塊を右手に。
そして、右手を俺の頭に向け、向けていた左手を下げた。
「こちらは音が出ないタイプだ。彼女たちが気付くことは、ない」
引き金に掛けた細く白い指に、静かに力が入る。
周りの鬼も、影虎さんも、静かにそれを見ている。
静かな空間で、雛村と佐々良の楽しげな声だけが聞こえる。
本当に、楽しげな声が。
「そうそう。忘れるところだった」
――実に三下の台詞だが、一応言っておこう。
と、人観は俺に訊く。
「何か、言い残したことは?」
実に、意地悪な笑顔だ。
そして、ひどく冷たい目だ。
少女らしからぬ、大人の顔だ。
その顔をまっすぐと見据えて、
「約束守れなくてゴメン、と伝えてくれ」
俺は言った。
「約束? 誰に?」
そこで、俺は笑う。
「自分で調べてくれ。人観『さん』は『大人』だろ?」
意地悪く、笑う。
「……そうか。分かった」
そして、人観も笑う。
少女らしからぬ、意地悪な、笑顔だった。
「これは君が、知らなければ良かっただけの話、だよ」
そして彼女は引き金を引いた。