1.12
寝ていたその部屋で、俺は自分の制服を着ていた。
「こちらの不手際とはいえ、また暴れられても困りますので、拘束させて頂きました。大変、失礼致しました」
一度、深々と謝罪してから、影虎さんは両手のロープを解いてくれた。
「危険物所持の確認のため、服も脱がせてもらいました。それと、少し汚れていたので洗濯をさせて頂きました」
そう言って、制服も渡してくれた。
シャツにあった得体の知れない黒いラインは、一本も残っておらず、新品さながらの白さ。
……ありがとう。影虎さん。おかげで母さんに怒られずに済む。
上下の装備を完了して、一緒に渡してもらった自分の携帯電話を見る。
――七月六日の土曜日、午前十一時三十九分。
雛村の言うとおり、俺は少し寝すぎだ。
いくらテスト明けの土曜日だとしても。
ちなみに雛村は、
「着替えるなら、私は外で待ってるね」
と部屋から出ていった。
いや、着替える、じゃなくて、着る、だから、とか。
それよりも前に、ずっと俺のパンツ一丁の姿を見ていたじゃん、とか。
そんな野暮ったいことは、言わなかった。
「お待たせ」
家具がベッドしかない、殺風景な部屋を出た。
ドアの横の壁にもたれて、雛村は待っていた。
影虎さんは、凛と直立して、待ってくれていた。
「それでは、こちらへ」
その姿勢のまま、影虎さんは歩き出す。
俺たちも、その後ろに付いて歩き出す。
「ここは、あの地下通路、か?」
「そうだよー」
雛村はのんきな声で答える。
周りを観察する。
大きな吹き抜けのある空間。その周りには同じ形のドアが並んでいる。おそらくその向こうには、さっきの部屋と同じものがあるのだろう。部屋は全四階。部屋数は、面倒なので数えたくない。そして俺たちは今、二階部分の廊下を歩いている。ホテルの一部が地下にある、っていう感じだ。
……一体、何の施設なんだろう?
そう思ったが、口にはしなかった。
影虎さんは目測どおり、俺より少し大きくて(もちろん、背のことだ)、姿勢良く歩くので、俺も気を抜くと置いて行かれそうになる。雛村に関しては、軽いダッシュをしている。
影虎さんの案内で、俺たちは一階の吹き抜け部分に降りた。見上げると、やはり結構大きい建物だ。
一階部分は、実に生活感のあるものだった。
大きな薄型テレビの前に、こちらも大きな背の低い長テーブル。テーブルの上にはペットボトルやらスナック菓子やらの食品が並び、それを囲うように長いソファーが置かれている。
そして、そのソファーに誰か座っている。
俺たちからは、ちょうどその後頭部だけが見える。顔は見えない。
「沙雪!」
雛村が名前を呼んだ。叫んだ、と言っても過言ではない。
ソファーの誰かがビクリと立ち上がる。まだ、こちらは向かない。
「……みっちょん?」
ゆっくりと彼女は振り向く。
その声は、幽霊でも見たような、混乱と驚きの入り混じった声。
……幽霊でも見たような、はこっちの気分だよ。
佐々良沙雪。
彼女は、佐々良沙雪だった。
足も、腕も、五体全て揃った、佐々良沙雪だった。
「沙雪!」
雛村は、今度は確かに叫んだ。
そして駆け出した。今までの軽いダッシュとは比にならないほどに。
佐々良も、こちらにゆっくりと歩み寄ってきた。
「沙雪」
今度は優しく呼んで、勢いそのまま佐々良を抱きしめた。軽い交通事故くらいの勢いだ。
そして雛村は黙った。言葉を失った。
対する佐々良は抱きしめられた衝撃で、目を丸くしていた。
そしてゆっくりと、ゆっくりと目を細めて、
「……みっちょん」
ボロボロと大粒の涙を流して、泣き出した。
うわーん、うわーん、と泣いた。
それを合図に、雛村も泣き出した。
うわーん、うわーん、と泣いた。
うわーん、うわーん、と二人は泣き続けた。
目からも、鼻からも、口からも、流せるもの全て流して。
顔も、くしゃくしゃに、真っ赤にして。
赤ん坊のように、サイレンのように、泣き続けて。
お互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合う二人。
そんな二人を、俺は呆然と見ていた。
そんな光景を、俺は、美しく思った。
「葛平さん。付いてきてもらえますか?」
しばらくして、影虎さんは俺に声を掛けた。
抱き合う二人は、ひとしきり泣いて、落ち着いてきていた。少し過呼吸にはなっていたけど。
「お二人の邪魔をしても悪いですし」
相変わらずの無表情。だけど、口調は嬉しそうに思えた。
俺も感動の再会を邪魔する気もないし、何より、疑問が山積みだった。なので、静かに頷いた。
そしてまた、影虎さんの後ろを付いて歩いた。彼女は変わらず、無駄のない歩みだ。
吹き抜けにつながる一つの通路に入る。構造は昨日、雛村を背負って駆け回った地下二階と同じ。ただし、足元の照明は全て正常で、ずいぶんと明るく感じる。
ついでに、雛村を背負ったときの感覚も思い出す。
そんなこと思い出しながら、歩くたび左右に揺れる影虎さんの長い髪が目に入る。
……前から見たら、上下に………。
なんて、不謹慎なことは言わない。
俺は、紳士だ。変態紳士なんかではなく。
思っても言わないのが、紳士だ。
思い出しても顔に出さないのが、紳士だ。
思う時点でどうなのか、という愚問はここでは却下させてもらう。
などと、極めて紳士的な思考をしていると、広い空間に出た。
「お連れしました。ヨウコさん」
ドーム状の空間。東京ドームよりはもちろん大きくない。行ったことはないけど。
中央に巨大な円筒形の何か。その根元の辺りに大きめの金属ラックがいくつかと、そこに並ぶ青白く光るモニター群。そのモニターを全て見渡せる位置に、デスクが一つ。
影虎さんが声を掛けると、デスクの前の椅子が動いた。いや、よく見るとそれは車椅子だった。
――少女?
車椅子からこちらを見ているその顔は、幼い。
影虎さんは声を掛けると同時に、少し駆け足で少女のところへ向かった。そして車椅子を押して、こちらへと戻ってきた。
車椅子の彼女の顔を、正面から見る。
確かに、少女だった。
透き通るような白い肌と、真っ白なワンピース。
純白、というより、病的、という印象を俺は抱いた。
その彼女が、俺の前まで来て、その小さな口を開く。
「ようこそ『似て非なる楽園』へ。葛平七生」
その声は、少女のもの。
その口調は、落ち着いた大人の、貫禄さえ感じるものだった。
「君は何を知りたい? ここがどこなのか? 私が誰なのか? 鬼は何なのか? 佐々良沙雪が何故、生きているのか? それとも、全て、か? ああ、大丈夫。私は欲張りが嫌いではない。かく言う私も、なかなかの欲張りだからな」
少女の、少女らしからぬ言葉の連打に、俺は答えを返せない。
「ああ、失礼。私が誰なのか、は自ら言うべきだな。私としたことが、あるまじき失態だ。珍しいな。ツチノコ並みの珍しさだ。おそらく今世紀最大の大発見だ。誰かに自慢するといい、葛平七生」
もはや口を開くことすら、できない。
「私は、人観ヨウコ。人間を観察する、で人観。下は片仮名で結構だ」
それとも、とさらに続ける。
「検体番号第十三号、と言った方がいいのかな?」
そう言って、人観ヨウコは微笑んだ。
実に、少女に似つかわしくない、意地悪そうな笑顔だった。