九話「魔界の過去と笑顔の天使」
その日、あゆむは
慣れない香りで目を覚まします。
それはマスカットのようにフルーティーで、
芳醇。それでいて軽やかな香り。
「紅茶……?」
目を開けると、そこに立っていたのは、
やはり慣れない男。
青く長い髪は後ろで結ばれ、
黒いタキシード姿の紳士。
蝿の王ベルゼブブと呼ばれ、
蔑まれた神話の時代より生きる者。
トリエルの真の権能「笑顔」により、
かつての心と姿を取り戻した気高き王。
「バアルゼブルだっけ……?」
「覚えていただき光栄ですよ」
バアルゼブルはそう言うと、
あゆむに敬礼し、紅茶に手を添えます。
「ダージリンティーです。どうぞ」
「……なんか気持ち悪いな」
昨日バアルゼブルに蹴られた思いが蘇り、
今朝の彼が妙に優しいのが不気味に感じ、
ついそんな軽口を叩いてしまいます。
「昨日俺を蹴ったクセに、どういう風の吹き回しだ」
「ふむ……その毛があるのでしたら、ご馳走いたしますが?」
「せんでええわ!!!」
バアルゼブルは片足立ちで蹴りの姿勢を取りますが、
あゆむがすかさず突っ込むと、
彼はフフフと笑って足を下げます。
そんな事を話しているうちに、
トリエルとガブリエルママも目を覚まします。
元々寝ないピピはスーッと
あゆむの元へ寄って肩に手を置きます。
「よければ皆様どうですか? 毒はありません」
バアルゼブルはニコリと笑うと、
ピピも含めた人数分の紅茶を勧めます。
あゆむとトリエルはテーブルに座り、
ピピとガブリエルママは立ったままティーカップを取ると、
飲めないピピは香りだけを楽しみ、
あゆむ達は一口、それを飲みます。
「上手いな……」
「お褒めにあずかり光栄ですよ」
「ところでこんなティーセットと
茶葉なんてどうしたんだ?」
再び敬礼するバアルゼブルに、
あゆむはティーカップを置いて目をやります。
「もちろん買いました」
「バアルの金で?」
「いいえ?」
「俺の金かい!!!!」
さも当たり前のように、ニコリと笑うバアルゼブルに
思わずツッコミが出て、コイツ絶対わざとやってるドSだろ……と、
あゆむはそう確信して、グビビとムカつく思いを紅茶で流します。
「……で、何か話したいことでもあるのか?」
「何故そう思うのです?」
「ガラじゃないことをするからさ。
トリエルとガブリエルさんはともかく、
俺に紅茶を出すなんてキャラじゃないだろ」
バアルゼブルは「ふっ」
と笑うと両手を広げて「正解です」と笑います。
「貴方はやはり勘に優れたお方のようだ。
今私がこうしてバアルゼブルでいられるのも、
言わばあゆむの機転のおかげであると、そう言えるでしょう」
そう言うとバアルゼブルは三度敬礼をします。
彼の言う通り、先の戦いではあゆむの機転がなければ
トリエルは殺されていたでしょう。
そうなったら仮にベルゼブブは倒せても
全てが終わっていました。
今こうして平和に紅茶が飲めているのは、
お盆を利用したあゆむの機転、
それが全てだとそう言えるでしょう。
そういう意味では、このバアルゼブルという男は
気高き王の名が示す通り、義理堅い性格なのでしょう。
「で、何を話したいんだ?」
「貴方が知らないことを」
「答えになってないぞ」
「一言では答えられないものでしてね」
あゆむは再び紅茶を口に含みます。
少しだけ冷めたそれは、
冷えたことでより香りが深く感じられるようになりました。
バアルゼブルはゆっくりと口を開きます。
「まずは……そうですね。
魔界というところが、どういう所からか、
そこからご説明しましょうか」
「急だな……」
「かもしれません。ですが、貴方は既に『こちら側』に来すぎた。
貴方には知る権利がありますし、
知らねばならないとも言えるでしょう」
思えば魔界勢力との接触は急転直下の出来事でした。
筒見 歩という存在が世界の「閲覧者」であれば、
あゆむはその情勢を知り、
不吉な予兆が出た瞬間に、
そうした存在のバックボーンも含め、
事前情報を把握出来るのでしょうが、
残念ながら、あゆむは「閲覧者」などではなく、
一民間人にすぎません。
ここまで深く関わってしまった以上、
聞く必要があるという彼の話は理解できました。
「その話、私も興味がある」
突如空間より声が響き、火柱が上がると、
そこにウリエル様が現れます。
以前のような私服ではなく、白い衣の上に赤い鎧の正装です。
どうやら天界で話を聞いていたようです。
「わざわざここに来ずとも、貴女なら天界から聞けたのでは?」
「盗み聞きはなるべくしたくないのでな」
「ふっ……実直なお方だ」
「ウリエルさん、先日はどうも」
あゆむが礼を言うと、
ウリエル様はそっと手を突き出しそれを制します。
「それには及ばない。私はただ約束を果たしたまで。
先に世話になったのはこちらだからな。
これで貸し借りはなし。それでいい」
ウリエル様はバアルゼブルを見つめ、彼に話を促します。
そこでバアルゼブルは長くなりますが、
と付け加えて話し始めます。
…………
魔界と呼ばれる場所は、
この大地の更に奥深くにあるエリアです。
かつては星空のような青い天井が広がり、
澄んだ水が流れる美しい地下の楽園だったと聞きます。
ですが……いつ頃からなんでしょうかね……
あゆむ方のいうところの「神話の時代」よりもっと先、
それぐらいからでしょうね。
それこそ、まだ天界すら争いで混乱し、
平定されていなかった時代です。
天使達は、自分達や敵の死体の処理に困り、結果地下へと投げ落とし、
それが腐敗して怨念やガスが瘴気となり、
やがて溜まるに溜まって、魔界へと変貌したそうです。
瘴気というのは、かつて天使だった者が死して捨てられ、
それがガスとなって恨みの念を持ったものなのですよ。
ですから、それに触れると凶暴になったり、最悪姿が変貌するわけです。
あゆむ方人間に分かりやすく言うのであれば……そうですね……
霊に憑かれて性格が変わる……といったところでしょうかね。
…………
バアルゼブルはそこまで言うと窓から空を眺めます。
「……」
「お前はこれからどうしたいんだ、バアルゼブル」
「どうしたい……とは?」
あゆむはバアルゼブルには
何か目的があるように感じました。
魔界の成り立ちから説明するあたり、
きっとそこに何かあるのだろうと。
あゆむがそう言うと、バアルゼブルは――
「やはりあゆむは良い勘をお持ちだ」
そう言ってニコリと笑い、話を続けます。
「お救いしたい方がおります……
その名をサタン……いえ、ルシファー様と言うべきでしょう。
ふふ、ウリエル殿、そう怪訝な顔をなされずともよいでしょう」
ルシファーと聞いて、
ウリエル様の眉間にシワが寄ります。
ウリエル様にとってかの者は反逆者、
そうそう許せるものではないのでしょう。
バアルゼブルもそれは百も承知でしょうが、
あえて話を続けます。
「ルシファー様とて、本当はこの世界を愛しておられるのです。
ただ……やり方を間違えただけで」
ルシファーが狂ったきっかけはその権能にあるのだと、
バアルゼブルは説明しました。
曰く、その権能は『反逆』
あらゆる力に『反逆』し封じ込める力だと。
元々ルシファーは地上を含めた
恒久的な世界の平和を目指していました。
それは神とて同じです。
しかし、決定的に違っていたのは
神はあくまでも対話を尊重し、
武力は最後の手段としたのに対し、
ルシファーは『反逆』の権能ゆえか、
短期的であれば積極的に武力で抑え、
そこから危険因子の芽を取っていくべきと主張したそうです。
神とルシファーの話し合いは平行線で進まず、
遂に痺れを切らしたルシファーが反逆の権能を使い、
神にとって代わり、世界の平定を目指したのだと。
しかし、反逆の権能は『防ぐものであり、破壊ではない』
ゆえにルシファーは仲間を探したと、そう説明します。
「そこでお前に声が掛かったのだな。
ベルゼブブ……いや、バアルゼブル」
ウリエル様の問にバアルゼブルは静かにうなずきます。
バアルゼブルはかつて、武勲に優れた者として知られていました。
武人としてバアルゼブルには
ルシファーの言い分の方が当時は正しく思えた。
だからそれに従ったと、そう過去を振り返ります。
しかし、それは長い目で見れば間違っていた……
バアルゼブルはベルゼブブになって
それがようやっと分かったと、そう悔やみました。
だからこそ、ルシファーを救いたいのだと。
「魔界へ行くつもりなのか?」
あゆむの問にバアルゼブルは首は振らずに答えます。
「時が来れば。しかし、今はまだその時ではないでしょう」
バアルゼブルはトリエルをそっと見ます。
おそらくトリエルの真の権能が、
まだ自由に使えない状態では勝ち目はないと、
そう言いたいのだろうと、あゆむは理解します。
「その反逆の権能とやらに
トリエルの権能は通用するのか?」
あゆむはそうバアルゼブルに問いかけます。
あらゆる悪意や破壊を笑顔に変えるトリエルの真の権能、
それに対してあらゆる力に反逆して、それを防ぐルシファーの権能。
それは最強の矛と盾、
両者は正に対極で矛盾すると言える関係です。
瘴気に汚染され、
悪意に満ちる存在であるルシファーにとって、
トリエルの権能は最強の矛です。
しかし、防ぐのであればトリエルにとって
ルシファーの権能は盾となりうる。
あゆむの疑問はもっともでした。
しかし、バアルゼブルの答えは意外なものでした。
「いえ、おそらくはトリエル様の権能が勝るでしょう」
「なんでそう言える?」
あゆむの問にバアルゼブルはハッキリと答えます。
「実際に戦った者のみぞ知る……勘……
といったところでしょうか。
かの権能は『力』と言うよりは『形』に近い。
ルシファー様の権能は
自身よりも弱い『力』を封じるもの。形までは防げません」
バアルゼブルはそう言うと皆に敬礼し、協力を仰ぎます。
あゆむは何も言わずそれを見つめ、
バアルゼブルは一定の感触を得た方で満足そうに微笑みます。
「すぐに答えを得ようとは思っておりません。
反対が出なかっただけ、この場は重畳というものです」
バアルゼブルはそう言うと
「お茶を淹れ直しましょう」とキッチンへ消えて、
ウリエル様もまた会おうと去って行きました。
ピピは不安そうにあゆむに抱きつくと、
あゆむは「大丈夫だから」ただそれだけを言って、
自分を抱くピピの手に自らの手を重ねます。
――――
昼下がり、あゆむは預金額を
スマートフォンアプリで確認します。
「は……325円……?」
あゆむは「まさか……8万程あったぞ」
何度も見直しますが、残念ながら何度見ても325円としか見えません。
なのできっとそれは、325円なのでしょう。
あゆむの中で炎が燃えたぎります。
「バアルゼブルーーーー!!!!」
「はいなんでしょうか」
「なんでしょうかじゃないわ!!!
なんだこれは!!!」
あゆむはスマートフォンの画面を見せますが、
バアルゼブルは手を広げて……
「325……それがどうしたのですか?」
「どうしたじゃないわ!!!
こんだけしか残っとらんのじゃ!!!」
「それは使えば減りますね」
「使ったのはおのれじゃい!!!!」
バアルゼブルやれやれと言った表情です。
「細かいことを気にするお人だ」
「どこが細かいんじゃ!!!
今月はまだ6日も給料日まであるんだぞ!!」
「お金がないなら働けばよいではないですか?」
「おのれはマリーアントワネットか!!!」
ここでバアルゼブルはああ……と
懐かしむように言います。
「懐かしい名だ。
あの頃はとっくにベルゼブブでしたが、
私も魔界で彼女の気高さには一目を置いておりましたよ」
どこかで聞いたセリフが聞こえます。
「貴方もマリーアントワネット推しですか、バアル」
「ええ、推し偉人ですね」とガブリエルママと意気投合。
しかし、そんな推しトークで
あゆむの怒りが収まるはずもなく……
「やかましい!!! バイトでも何でもせんかい!!」
とバアルゼブルに掴みかかりますが……
「フン!!!!」と派手に蹴り飛ばされ……
バットを手に取り、
待ち構えていたアッチに……スコーーーン!!!
タイムリーヒット!!!
あゆむは反対側の壁に大激突ーーー!!
そのままバターーーン!!
ポンポが目の前で
「弱虫けむしー」と言えばバアルゼブルが
「挟んで捨てますか」とニッコリドSスマイルで答え、
「それはいいアイデアですね」とガブリエルママもノリノリです。
そして仕上げは……タンタが……尻尾ビンタでペチペチペチーン!
「ほーら、尻尾をお舐め!」とキメて煽ります。
いつもの事ながら、やはり生身の人間であるあゆむに、
絵本の世界から抜け出してきたような彼らを相手にするのは、分が悪すぎるというものです。
あゆむは不屈の闘志で立ち上がりますが、
既に身体中の節々が痛み、力が入りません。
そんな時です。
「クス……ほら、頑張って」
聞き覚えのあるトーンの高い柔らかい声。
あゆむの心のマグマを燃え上がらせる魔法の声が聞こえてきます。
その方向へ目を向けると茶色い瞳を輝かせていた《《彼女》》、⬛︎⬛︎エルがいました。
あゆむと目が合うと彼女は頬を桜色に染め上げて、目を細めます。
するとどうでしょうか。
その桜色の微笑みを見た途端、あゆむの身体から一切の痛みが消え去るのがわかります。
それは天使の魔法なのか、あるいは彼女を思う気持ちがそうさせるのか、もしくはその両方か。
あゆむは「ぬおー!」と気合いを入れて立ち上がると……
「全然効かんなー!!」
そう彼らを煽り返します。
すると彼らは「ズルしてんじゃねーよ!」とブーイング。
しかしどこか嬉しそうに、部屋の中に消えていきました。
「か、勝ったのか……!?」
そうです。彼らアンポンタンが去ったことで、あゆむは初めて彼らに勝ったのです。
あゆむは勝利の余韻に浸る間もなく、彼女のもとへ行くと、その肩を抱きます。
手からその温もりが伝わり、あゆむの鼓動を早くします。
それは彼女も同じようで、表情が一気に紅葉のように、桜から季節を飛ばします。
「ありがとうな」
「うん……!」
あゆむの微笑みに、彼女も微笑みで返し、
部屋は温かい空気で満たされます。
するとここで時間が来たのでしょう。
彼女があゆむの胸の中にもたれ掛かり、その小さな顔を埋めます。
「また……会いたいな」
「いつでも来い」
それは、彼女が初めて口にしたあゆむへの願望でした。
あゆむは彼女を抱きしめると、彼女もまたあゆむの背中へ腕を回し、静かにブレーカーを落とします。
トリエルへ切り替わっても、しばらく二人は抱き合い、
トリエルも彼女の気持ちがわかっているのか、あるいはトリエル自身の感情なのか。
そっとその力を強めるのでした。
――――




