消失
男の声にゾワッと身体中の毛が逆立ったと同時に、前がぼやけて何も見えなくなった。
それが恐怖から込み上げた涙のせいだと理解できぬまま目を擦り視線を戻すと、すでに男の姿がない。
まずい、見失った…!!
必死に周囲を見渡したところで、ザザザ…ザザザ…と木々のざわめきが私に近づいてくるのがわかった。風のざわめきとは違う、動物が移動するような音。
右斜め前、右に直進、左、すごい速さで私に近づいてくる。
だとしたら男が狙うのは……私の頭上だ。
私が身を隠していた大木がざわついた瞬間、片膝立ちのまま上体を無理矢理上に向けると、落ちてくる対象を目視するよりも早く矢を放った。
するとやはり、男は頭上から何かを振り下ろしながら私に向かって飛び降りてくるところだった。
その姿を確認した瞬間、反射的に地面に倒れるようにして転がり、落ちてくる男を回避する。
次の攻撃に備え、急いで起き上がると、男が手にしていた物が深く地面に刺さっている。
そこで初めて、男が振り翳していたものが剣だったことに気がついた。
はあ、はあ、はあ、はー……と息を整えつつ、なんとか即死攻撃を避けられたことにホッとしたのも束の間。
地面から剣を抜いた男は、驚愕といった表情と共に勢いよく私に顔を向けた。
「うわあーびびったー!!いい反応じゃん!!でも……」
男は楽しそうに笑いながら、左肩に刺さった矢を引き抜いた。
「もう少しズレてればお前の勝ちだったのになア?」
そう言って男は矢を投げ捨てた。
この時、私の目は信じられないものを映していた。
矢を引き抜いた男の肩。
確かに矢が刺さっていたはずなのに、服に血が滲む様子がないのだ。
それどころか痛がるそぶりすらない。
矢で攻撃した程度では倒せないのか?
「あーくそっ!」
「!!……」
男のイライラした声に、心臓が殴られたように跳ねる。
「これだからあんまりコイツにはなりたくなかったんだよ」
そう言いながら不機嫌そうにコキ、コキ、と首を鳴らす男。
先程までとは姿どころか口調まで全くの別人のようではないか……どんな姿にも変身できる上、攻撃が効かないのだとしたら私はどうやってこの化け物から逃げればいいのだろうか。
必死に次の手を探していたその時、先程のミーちゃんの行動と男の言葉が頭に浮かんだ。
そうだ、矢が効かないのであればミーちゃんは避ける必要もなかったはず。それに、もう少しズレていれば……と言うことはやはり心臓さえ射抜ければ殺すことができるということだろう。
そうと分かれば、と再び弓を構えようと矢入れから矢を引き抜いた時……剣を振り上げた男が私の目の前にいた。
「はい、おしまい」
雲がはれたのか、今の今までぼんやりと仄かに森を照らしていた月光が強く男を照らし、今まさに私を斬ろうとしている剣が輝く。
『死を感じた時に時間が止まって見える』
こういうことだったのか……とまるで他人事のように妙に感心してしまった。
確かに、自分に斬りかかってくる男の動きが異常にゆっくりと見える。
だが身体は指一つ動かせない。息をすることすらできずに、呆れるほど無防備に自分を殺す男の姿を眺めることしかできなかった。
どうしよう……お母さん……。
剣がまさに私の身に届こうかという時だった。
嬉々として私に剣を振り下ろしていた男が突如、私の視界から消えた。
何が起きたのかと混乱している私の耳に届いたのは、ここにいるはずがないお母さんの声だった。
「レイラ!!逃げて!!」
咄嗟に声がした方を見ると、地面に倒れ込んでいる男と、男の腰辺りに必死にしがみついているお母さんの姿が目に飛び込んできた。
「……!!お母さん!!そいつから…」
離れて、と言いかけた言葉を飲み込み、目の前の光景に喉の奥から悲鳴を上げた。
「いやあああっ!!!お母さん!!!」
男の剣が、お母さんの背中の左部分を突き刺している。ちょうど心臓の辺りだ。
男は剣をお母さんから引き抜くと、左手でお母さんを引き剥がし、邪魔なものを投げ捨てるように地面に転がした。
お母さんはぐったりとして動かない。
「クソッ、邪魔しやがってこの…」
「やめて!!!」
男がお母さんを睨みつけながら立ち上がり再び剣をお母さんに向かって振り下ろそうとしたその時、男の動きがピタッと止まった。
男は何かに驚いたように目を見開くと、何かを呟きながらよろよろと後退し、苦しそうな声を上げて胸を抑える。
「クソッ、マジかよ……」
男は額に汗を滲ませながらそう言ったかと思うと、私達に勢いよく背を向けてそのまま暗闇の中へと走り出した。
お母さんを刺した男が行ってしまう!!
お母さんを傷つけた男に対する強い怒りで男に対する恐怖が消え失せた私は、暗闇を走る男に向けて矢を放った。
しかし、男は私の攻撃を読んでいたかのように木の上へと飛び移ると、姿があっという間に見えなくなってしまった。
慌てて男を追いかけようとしたが「うう……」という呻き声で我に返った。
お母さんの刺された所を止血しないと…!!
男を追うのを諦め、仰向けに倒れているお母さんの元に駆け寄る。
「お母さん!!」
急いで刺された箇所を圧迫しようと左胸の辺りに目を向けるが、服は裂けているというのに血が出ていない。
貫通したように見えたが見間違いだったのか?いや、それならなぜ服が裂けているのか……。
「レイ…ラ」
「お母さん?!しっかりしてお母さん!!だ、大丈夫だからね?絶対大丈夫だから…背中、とりあえず背中を止血しない……と…」
そう言いながらお母さんの背中に手を当てようと、お母さんを抱き抱えた時だった。
「えっ、えっ、え…な、なに?何なのこれ……なんで…」
なんでお母さんの体が崩れるの?
「レ……、ご……ね、ご…」
何が起きているのか理解できない間にも、お母さんの体はボロボロと崩れていく。
「お母さんっ?!なに…なんて言ってるの?!お母さん!!お母さん!!」
お母さんの虚な目から涙が次から次へと溢れてくる。
そして……身につけていた物を残し、お母さんは消えてしまった。
※※※
そこから家に帰るところまでは憶えていない。
ただ、気が付けばお母さんが身につけていた物を腕に抱き抱えて、家の中に呆然と立っていた。
台所のテーブルの上にはサラダにパン、真ん中にケーキが置いてあり、鍋からは湯気がのぼっているのが見える。
「……お、母さん…お母さん、ただいま、帰ってきたよ」
……。
……。
………。
「お母さん?…お母さーん」
一つ一つ部屋を確認していく。
なんとも馬鹿馬鹿しい行動だと思う。
だが、この時現実を受け入れられなかった私は、お母さんを探し続けた。
『おかえり、レイラ』
笑顔で迎えてくれるお母さんの姿を求めて、何度も何度も同じ部屋を探し続ける。
「…お母さーん」
探し続けないと現実を認めてしまう気がして、縋るような思いで家の中を見て回る。
だが、何度声を掛けてもお母さんからの返事はないし、何度家中の部屋を覗いても、お母さんの姿は見つけられなかった。
「………」
ああ、いないんだ。
さっきの出来事は夢じゃなかったんだ。
お母さんはもう、いないのか。
力尽きたように座り込むと、ゆっくり、おそるおそる抱き抱えていた物に目を向ける。
お母さんのお気に入りのワンピース。
お母さんの良い匂いがする。まだ温かい、と感じてしまうのは私がずっと抱きしめていたからだろうか。
この靴、新しいのにしようって言っても『まだ履けるから』って……。
あれ、このネックレスは……。
ハッと思い立った私はネックレスを手に取るとお母さんの部屋に駆け込んだ。
確かこの辺りにあったはず……とクローゼットの奥を覗き込むと、記憶していた通りの箱があった。
『レイラ、もし私に何かあったら……』
きっと、この中に答えがある。
中を見てしまったら……この小さい箱が私の運命すら握っているような気がして見るのが怖い。でも、何もわからないままでいる方がもっと恐ろしい。
『このネックレスの鍵で開けるのよ』
抱き抱えていたお母さんの服をそっと側におろし、クローゼットから箱を取り出す。木で作られたその箱は、持ち上げると思いのほか軽かった。
そっと膝に置くと、お母さんのネックレスの鍵を鍵穴に挿し込む。
カチャンと音が鳴り、緊張しながら震える手で開けた箱の中には、封筒と小さなアクセサリーケースが入っていた。




